連載 田中功起 質問する 4-5:冨井大裕さんヘ 3

件名:「作ること」をアーティストの手から解放する

冨井大裕さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

冨井大裕さま

今回はサンフランシスコでこの原稿を書いてます。LAと違って、湿気があり、少し肌寒いけどなかなか過ごしやすいです。公共交通機関も発達(といってもバスがメインですけど)しているので、車で移動する必要もなく。個展もやっとオープンしたので本当はすこしのんびりしたい気分なんですが、展覧会の季節に突入しているので、なんだか休む間もなく、次のこと、さらにその次のこともやり始めています。


サンフランシスコで見つけた屋上での展示。堂々としています。

ぼくが前回の返信で書いたのは「技術」と「アイデア」の関係でした。そして、冨井さんの返信を読みながらまず気になったのは作品制作に伴う「技術」と、アイデアを「見せる技術」が交差しつつも、区別されているということです。冨井さん自身もリフレーズしているように「見せる技術」とはどのようにそのアイデアを作品として見せるかという「美的判断」のことです。

これをぼくなりに言い換えてみたいと思います。「技術」は、アイデアに相即するもので、両者は切り離せなく、一体となって現れる。冨井さんはそれを等価であると書いています。一方、「見せる技術」(あるいは「美的判断」)は、ものごとをどのように見せたら相手に理解されるか、ということを判断すること、見せるための判断/微調整のことです。前者はあくまで作品の内部の問題であり、後者は言うまでもなく作品と鑑賞者との関係の問題です。こうして確認すると、ぼくが書いた「中庸である技術」も「中庸である判断」としたほうが、この書簡の文脈においてはわかりやすいかもしれません。「アイデアに相即する技術」と「見せる技術」。このふたつを、前者を「技術」、後者を「判断」としてわけて考えてみたいと思います。ぼくは、冨井さんが上げている「コーヒー」と「ウエスタンラリアット」の例に、納得しつつも違和感を感じたのはふたつの「技術」、「アイデアに相即する技術」と「見せるための判断」が交差していたためでした。言ってみれば、このように言葉を定義し直し、わかりやすく微調整をすること自体が、まさに「見せるための判断」ですね。

ではこのように「技術」と「判断」と分けて考えることで、何が見えてくるのでしょうか。

「コーヒー」の例は、持ち運びのできるキャンバス絵画が発明されたようなことであり、「ウエスタンラリアット」はいわばレディメイドの「元祖」であるデュシャンを思い出させます。このふたつの例は、ある広さをもった領域/ジャンルの発見であり、それまで見いだされていなかった地下水脈を見つけたようなことです。それは形式の発明であり、形式なので応用がきく。それがシンプルな形式であればあるほど、またたく間に広まるわけです。

なにかしらのアイデアを最初に発見し、かつそれが汎用可能な形式性をもって示された場合、「元祖」としてそのアーティストの名前が残りつづけることは、歴史をふり返ればよくある事実です。たとえばドリッピングという手法をポロックに、大衆的なイメージの利用をウォーホルに、あるいはもっと細かく、モニターをはじめて横に倒して置いたという事実だけでジョーン・ジョナスを元祖とする、というように。とはいえ、どうでしょう、「ウエスタンラリアット」のように広まる形式性をもつ作品を作ることで「元祖」=「アーティスト」と呼ばれるということ、つまりその「見せるための判断」をしたということは「アーティスト」である十分条件だとしても、「作品」の成立とはまた別の問題かもしれません。(*1)

オンダックや冨井さんの個々の作品を成立させる、もともとのアイデアは「その作品」だけにしか対応しないものです。つまり「アイデアに相即する技術」は、こういってよければ「それ以外には使えない技術」です。この制作には使えるけど、あの制作には使えない。「その作品」にのみ一回かぎり利用可能なものであるといえます。

もう一度確認すると、「アイデアに相即する技術」だけで作品が成立するならば、作者はそれを見いだしたにせよ、特権的な存在ではなくなる。たとえば「ボールにパイプがのっていればいい」のならば、そのアイデアが分かる程度の量、つまり複数個の「ボールにのるパイプ」があれば事足りる。これがぼくのひとつの結論めいたことでした。つまり作品は作家性とは無関係であっても存在できる(もちろん作者性が強い作品も否定するわけではありませんけど)。現実にはさまざまな制約や条件がノイズとして存在するので、そんなに簡単に作品は生み出されないかもしれませんが、原理的には、ある種の作品は「だれにでもできる技術+だれにでも見つけられる視点」、つまり「アイデアに相即する技術」のみでだれにでもどこででも作れるものだということになる。

冨井さんの「pipe ball pipe」は、言われてみれば確かに作品然として見えます。自身も書いていたようにもうすこし「作品らしくなく」見える方がいいのかもしれません。おそらく、そのアイデアそのものがもつポテンシャル以上の「見え」を気にしたためじゃないでしょうか。

たとえばオンダックの「measuring the world」は「見え」の強度は参加者の数に任せられている。それはすかすかに見えるときもあれば、スペクタクルを生み出すほどの量に見えることもある。このプロジェクトは、アイデアからして時間と量に開かれているわけです。鑑賞(参加)する側としては、見え方にムラがあるため、どの時点で「完成した作品である」と言っていいのかがわからない。総体をだれも見ることができない。しかし「作品」自体の強度に変わりはない。このアイデアはこのようにしか、なしえないものなのですから。結果として、作品は作品らしくない「見え」を常に保持することになる。でもそれは「判断」されたわけではなく、「アイデアに相即する技術」が必然的に導くこの「作品」のあり方です。オンダックはそのアイデアの導くままに余計なことをしない(「ただ居合わせる」)という判断をしました。「判断をしない」と判断したわけです。冨井さんはこれも数あるうちの「判断」のひとつであるように書いていましたが、これは「見せるための判断」を放棄することなのじゃないでしょうか。「判断」を放棄し、作品の「見え」を「アイデア(に相即する技術)」の赴くままに任せる。

「判断の放棄」を別の角度から見てみます。たとえばそこにコップがあり、それを写真に撮るとき、さまざまな構図が考えられます。でもそこで美的な構図を選び抜くのではなく、「そのコップはそのコップである」と見えるような視点を選ぶ(それが結果的に「美的」であることもある)。個人の美意識に根ざす判断ではなく、その物体がなんであるのかを分類/識別するための判断。このときぼくらは一定のルールに従ってものごとを決定している。いわば判断を自動化し放棄している。

「アイデアに相即する技術」が必然的に導く「作品」のあり方に則って作品の見えを「判断」するということは、「判断」の自動化であり、放棄です。そこには、ただ作品(というか行為)があるだけですが、もちろん現実にはその作品/行為を生じさせたひとを指して「アーティスト」と呼びます。でもこのとき「アーティスト」であるかないかは単なる便宜上の、制度上のものでしかない。

このような意味での「制作」は、徹底的に論理的な道筋であり、入り口が感覚や個人的な動機であれ、見いだしたアイデアにはとことん最後まで付き合い通す、そんな過程です。そうすれば何かが生み出せる。ぼくらはアーティストであろうとする必要はなく、制作が論理的な過程を経てさえいれば、作品ができあがる瞬間に、じつはだれであっても居合わせることができる。逆に言えば、ここさえ守れば、あとはなんでもありなのかもしれません。そしてこの視点に立つとき「作ること」はどこまでも、だれにでも開かれた行為として改めて捉え直すことができる。

ぼくが冨井さんやオンダック、そのほかの同時代の何人かのアーティストの営みに関心を持ち、どうして共感したのかってことに、ここまで書いてきてすこし気づけたように思います。ありがとうございました。
最後の返信、楽しみにしてます!

田中功起
2010年10月 サンフランシスコより

  1. アーティストが「元祖」であることは、必ずしも「作品」にとってよいことではないのかもしれない。つまり「元祖」であることは、「元祖」であるというだけで、当の作品そのものとは少し解離した状態で評価されることです。デュシャンは最初の「レディメイド」を見いだしたかもしれないけど、その「元祖」であるという評価(アーティストへの評価)と、個別の作品の評価はまた別のものです。前者が強すぎる場合、後者が相対的に弱く見えてしまう。あるいは「アイデア」を検証するための参照項程度のものと見なされてしまう。

近況:
少し展覧会が続きます。10月16日からはグループ展「A Rock That Was Taught It Was A Bird」(Artspace、ニュージーランド)に参加し、11月12日からは友人の誘いで、Las Cienegas Projects(ロサンゼルス)でのグループ展にも参加します。

連載 往復書簡 田中功起 目次

4-4:冨井大裕さんから 2

4-3:冨井大裕さんへ 2

4-2:冨井大裕さんから 1

4-1:冨井大裕さんへ 1

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