連載 田中功起 質問する 4-4:冨井大裕さんから 2

件名:元祖とは(見つけたあとにどうするか)

田中功起さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

田中功起さま

前回は大変返事が遅くなってしまい、恐縮です。


「ball pipe ball」2009年、第1回所沢ビエンナーレでの展示
撮影:山本糾

いま、東京の国分寺駅のとあるカフェでこの書簡を書いています。コーヒーを飲んでいます。正確にはソイラテというものです。僕には○○のコーヒーが好きという、こだわりがありません。でも、コーヒーは好きです。作品でもコーヒーのような作品が作れればいいと思います。つまり、人が様々な工夫を凝らして変化を繰り替えしても、基本的には変わることのない、シンプルで強力なアイデアを発見してみたい。

コーヒーの話しをもう少し続けます。コーヒーのしくみって、凄く単純です。豆を煎って削って粉にして、お湯で抽出する。もちろん、僕らが普段、当たり前に飲んでいるコーヒーにはもっと複雑な工夫が凝らされているのでしょうけど、一般的に思い浮かべる行程は上記のようなもので間違いないのではないでしょうか。そして、世界で最初のコーヒーもきっと同じだったに違いない。いまでは、コーヒーは当たり前に作られ、飲まれるもので、コーヒーを最初に作った人のことなんか、僕は知らずに、現在もコーヒーを飲んでいるし、家でも作っている。でも、これは最初のコーヒーの作者にとって不幸なことなのか、それとも幸福なことなのでしょうか。

本題に入ります。田中さんが例に挙げた僕の作品(パイプとボールの作品)についていうと、ご指摘の通り、あの作品で僕が意図したのは、アイデアとその実現の為の技術が作品の見た目にそのまま反映された作品を作るということでした。要するに、田中さんの以前の個展のタイトルを引用させてもらうと、「原因と結果」が同時に目の前に現れている作品を作りたかったのです。実はこの作品、僕自身、上手くいっている部類にはいると思っています。そして、こうも思っています、もっと作品らしくしない方がいいはずであると。

僕の制作の場合、常にアイデアと技術は対等の関係にあります。つまり、アイデアを成立させる為に、ある技術を採用するというプロセスを取りません。例えば、パイプとボールの作品では、ボールの上にパイプをのせる行為(技術)は、ボールの上にパイプがのるというアイデアに含まれています。その意味で、僕は、だれにでもできる技術+だれにでも見つけられる視点によって構造的には作品を作ってきたと言うことができます。ということは、田中さんの言説に従えば、僕は作者としての特権的な立場を失うことになるのですが、現実的にはそうではありません。何故かというと、技術には、構造的に必要とされる技術とは別に、美的必要性から動員されてしまう技術が存在するからです。

アイデアと技術が対等であれば、出発点と過程は同時に起こることになり、出発点+過程=結果(作品)という図式が成り立ちます。構造上はこの通りです。しかし、実際には、出発点+過程≒結果(作品)であり、この図式には、美的判断という名の技術が、暗黙の了解として存在しています。さっき、僕が、ボールとパイプの作品について、「作品らしくしない方がいいはず…」と書いたのは、この美的判断という技術をどのように扱っていくべきか、僕自身が処理しきれていないからです。

この美的判断としての技術は、田中さんが書簡で触れた「写真のように絵がうまい」などのわかりやすく特別な技術とは別種なものです。むしろ、普通の技術の中に、目立たず、しかし確実に存在している。わかり易い例としては、コンセプチュアルアート以降の文字を素材として扱うアーティスト(ジョセフ・コスースやローレンス・ウェィナーなど)がそうでしょう。ジェフ・クーンズもそうかもしれない。最近の作品を見れていないので、無責任な言い方になりますが、田中さんの作品にしてもそういう部分はあると思います。ただし、僕は、この美的判断的技術を否定はしない。例えば、文字の作品の場合、内容を伝える為に、その状況に美的に合ったものを使った方が現実的に有効ならば、使った方がいい。

この美的判断としての技術を、「見せる技術」と名付けた場合、こういうことが言えないでしょうか。誰かが見いだしうるアイデアを初めて発見しただけでは、アーティストとは呼べないが、そのアイデアを過不足なく伝える為に、見せる技術を使った者はアーティストと呼ぶことができると。この場合、アーティストを「元祖」と言い換えてもいいかもしれません。

ここで突然ですが、プロレスで喩え話をさせて下さい。プロレスの技にウエスタンラリアット (*1)という技があります。現在では、ラリアットという名前に省略されて、色々な選手が使っています。水平にのばした片腕を相手の首に叩き込むという至って単純な技で、プロレスに詳しくなくても、男の子なら一度は真似したことがあるのではないかと思います。このラリアットを発明し、元祖と呼ばれているのは、スタン・ハンセンというレスラーです。ラリアットという技は、その単純明快さから多くのレスラーが使うようになり、プロレスの一般的な技として普及しました。ここまでだと、この書簡の冒頭のコーヒーの話と変わりません。いつかは、だれかが思いつくであろうから、スタン・ハンセンというレスラーはラリアットという技と比べると重要ではないということになる。しかし、ここで問題となるのは、誰もが思いつくということは、スタン・ハンセン以前にも思いついた、もしくは使っていたレスラーはいなかったのかということです。この可能性は否定できません。では、何故、ハンセンが「元祖」と呼ばれるのか。それはラリアットという普通のアイデアを、見せる技術を用いて適切に表現した最初の人間だからです。そして、ハンセンが最初に見せたラリアットという方法が、腕を伸ばして首に叩き付ける技の表現方法として形式化した。つまり、誰もがラリアットをすることができるが、それはハンセンのラリアットをイラストレートすることにつながり、ハンセンのレスラーとしての存在を保証することになる。

アイデアを発見することは誰にでもできるかもしれないし、そこには作家の存在が入る余地はないかもしれない。しかし、そのアイデアを見つけた上で、目に見える形にすることは(技術的には簡単なことでも)誰もができることではない。つまり、アイデアの発見と同様に、アイデアを最初にどのように提示したか、その成り立たせ方が作品においては重要になる。もっというと、何かを表現するという条件のもとでは、見いだされるアイデアには、見せ方も含めることができるのではないかということです。例えば、コスースの場合を例にすると、彼は視覚情報と意味の関係を直截に提示する視点を見つけましたが、それは同時にその視点を見せる為の文字の表現方法を見つけることでもあった。そして、アイデアだけ、もしくは方法だけなら、だれでもできるものなのに、二つを組み合わせることは、不思議とだれもができることではない。要は、見つけた時にどうするか。その対応こそが、私達の表現ではないかと思うのです。アイデアを事件のようなものだとすると、その事件をどのようなものとして決着するかは、直面した当人の対応にかかっている。田中さんが例に挙げたローマン・オンダックの場合も、普通のことを普通な方法でやっていますが、普通のことに対して普通に対応したということそれ自体が、彼の表現になっている。見つけたアイデアに対して、できる限り「居合わせるだけ」の態度を決め込もうという判断。

ひょっとすると、今後、いや、もう既に、我々は普通のアイデアや技術を特別なこと(誰もができることではない)として扱っているかもしれない。「考えれば、だれでもできることなのに、なかなかできることではないよね」という意味で。この感覚は、すでに美術という表現の中に暗黙の了解として組み込まれているのかもしれません。とすると、以下の仮説が成り立つのではないでしょうか。特殊な技術や特殊な視点とは関係なく成り立つ作品はすでに存在している。そして、私達はその作品を目にしている。ただ、その作品を、我々は特殊なものとして見ているだけであると。

最後になりましたが、田中さんの提示した「中庸である技術」という設定は大変興味深く(僕自身、制作の中で技術だと思ってやっている行為は、まさしく「中庸である技術」に当てはまると思いました)、次回(最後ですね)の書簡までに色々考えてみようと思います(*2)

2010年9月15日 国分寺より
冨井大裕

  1. 映像はこちら。http://www.youtube.com/watch?v=cgXm6T9O3Gw

  2. 中庸な技術を、別の言葉で表そうとすると「判断」という言葉になるのかもしれません。そういえば、批評家のマイケル・フリードがアンソニー・カロの作品について語るときに使うシンタックス(syntax、「芸術と客体性」『モダニズムのハードコア』川田都樹子・藤枝晃雄訳、所収)という言葉も、カロの立場で考えると、判断という言葉に言い換えることができるかもしれない。何故なら、鉄の溶接は特殊な技術かもしれませんが、部分を全体の中で構成するという行為自体は特殊なことではないからです(部屋の模様替えなど)。そして、乱暴な見方ではありますが、カロは部分どうしのつなぎ方において、物理的に無理のあるつなぎ方を極力避けているように感じます(例えば、自然にありえそうな箇所は溶接して、無理のある箇所はボルトで留めて、ボルトは隠さないというように)。つまり、溶接という技術に頼ることなく、判断を重要視している。

近況:10月2日に横浜のblan Classで、一夜限りの展示を行います。立体を参加者に作ってもらう展示です。
http://blanclass.com/_night/archives/2976

連載 往復書簡 田中功起 目次

4-3:冨井大裕さんへ 2

4-2:冨井大裕さんから 1

4-1:冨井大裕さんへ 1

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