連載 田中功起 質問する 4-1:冨井大裕さんへ 1

件名:「見ること」がそもそも彫刻であるとして

往復書簡 田中功起 目次

どうもお久しぶりです。
冨井さんとはいろいろな場面でいっしょに時間を過ごしてきましたが、面と向かって制作や作品について話すことって、そんなになかったと思います(まあ、ちょっと照れくさいというのもあるのかも)。なので、こうしたパブリックな場所を借りてつっこんだ話ができるのはいい機会じゃないかなと思っています。


サンフランシスコからLAに帰る高速で運転しながら無理矢理撮影した虹。

まずはぼくの中で気になっている一般的なことを、冨井さんの制作・作品を通して書いてみたいと思います。たとえば、スポンジを積み重ねた立体の作品を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。ほとんどの冨井さんの作品はそれぞれかたまりとしては接着されていません。だから、その場所でその都度、一から組み上げることになる。冨井さんが企画しているCAMPでのトークシリーズ(*1)をUstream(以下ust)で見た(聞いた)んですが、その中で冨井さんは、日用品を集めてどのように組み上げるかという方法を見出した後、その方法を忘れないように紙に書き留めていると話しています。いわば、行為をインストラクション(指示書)として保存する。これは再現可能性というプラクティカルな必要からであると同時に、おそらくコンセプチュアルな意味もある。つまり次にどこか別の場所で再制作をするためのインストラクションであると同時に、基本的には誰でも再現しうるという「保存された行為」の方により着目させるための意図があるんじゃないだろうかと思いました。インストラクションのみを見せる展示をしたことがあるのも、その意味で筋が通っていますよね。冨井さんは「彫刻」という制度・言葉・定義についての問題意識を強く持って制作しているのだけれども、制作そのものはむしろ「行為」の方に強く寄り添っている。

たとえばここで思い浮かべられるのは、60年代におけるリチャード・セラの作品(*2)です。落ちてきた鉛を手でつかもうとする行為を記録したビデオや、さまざまな動詞を集めたリストなど、彫刻をいわば行為の側面でとらえ直す作業がそこには見出せます。彫刻が行為の集積であるなら、その行為そのものが彫刻である、ととらえる考え方ですね。この点、冨井さんやセラを通してぼく自身が影響を受けている部分でもあります。

これをぼくはもう一歩飛躍させて、「見ること」の問題へとつなげてみたいと思います。彫刻が行為の中に解体・拡張されたとして、冨井さんは「もの」を見ているときに、すでにそこに「行為」というか制作のプロセスを見ているんじゃないかと思うのです。同じustの中で、たとえば量販店で、試しにいくつかの素材を並べたり組み合わせたりして、だいたい予想できるところまできたときに、まとまった数を手に入れると話しています。その行為の集積が十分に行き渡ったところでサイズが決定される。だから仕上がりのイメージは後からついてくる。ゴールはこのとき、成り行きに任せられる。もとを辿れば、最初の出発点を定めた時点でゴールは必然的に決まってくる。

ここで重要なのはその出発点(あるいはそのときの行為)であり、それを見出した視点・見方であると思うのです。ぼくは以前、自分の作品をある種のサンプルのようなものだと話したことがあります。つまり作品のあり方は、ぼくが作ったものとは違うようにもありえるわけで、ぼくの作品はその可能性の束のうちのひとつでしかなく、その意味ではある「アイデア」から導き出された数多くあるうちのひとつの見本のようなものであると。そしてこれは決して「手本」ではない。つまり結果としての「作品」という特権的なあり方(ひいては作者の特権性)を、出発点の行為=「見ること」そのものへと遡行的に解消する。

それでもぼくらは結果としての作品をなおも作っている。ここに今回の質問があります。作品とはなんであるのかという判断の問題です。目の前にある「作品」はどこまで解体され、どこまでその特権性を剥ぎ取ることができるのか。どこまで行ったら作品ではなくなるのか。それを制度の問題として回収するのではなく、作ることの意味において問い直してみる。なにが一番重要なことなのか。制作のプロセスの出発点にある「見出す」という行為、もし仮にそれだけですでに作品なのだとしたら、ぼくらが作っているものはなんなのか。ひとつまえの保坂さんの手紙で彼が書いているように、もしかすると「作る」とは別の言い方が必要なのかもしれません。

ここでひとつの参照点として高松次郎の作品「台本」を取り上げてみます。かなり自由度の高いパフォーマンスの台本の中からひとつを引用してみます。

「台本・四
ある特定の身体の運動を、できる限り同じようにくり返すことを努力し、そしてできる限り長い時間、そのくり返しを続けるように努力すること。」(*3)

全体では「意識」と「身体」の運動をベースにし、時間的長さ、短さを伴って組み合わせを変えながら15のインストラクションに分かれています。また複数の註によって、いわば自由度が保証される。この「台本」を行う場合、「一人でも多人数でも」よく、「誰でも、いつどこでも」よく、「主旨の範囲内で、何らかの規約を付け加えることができ」、「物体の使用」も「任意」であり、「時間」「空間」の問題は「実行するひとが決めなければならない」。台本に沿うことは「努力」目標とされ、「台本」の解釈、「記されていない問題」については実行者の判断にゆだねられている。

「台本」が目指すものは厳密な意味でのインストラクションではありません。そういうには自由度が高すぎるし、なおかつそれは「努力目標」なのだから。たとえばオノ・ヨーコの「グレープフルーツ」のような詩的な想像を喚起・誘発するインストラクションでもない。高松の「台本」はそれが実際にパフォーマンスとして行われることよりも、それ自体を各自が各自の方法で思い浮かべる、「ただ自覚する」ということだけにかけているように思います。「台本」の実行が想像される、単に念頭に置かれる、ということだけでおそらく目的はほぼ達成されている。ひとつの出発点と無数の結果の束。

高松のこの「台本」は彼の「不在」というコンセプトを究極的に提示したものなのかもしれません。ぼくは彼がどのようなことをそのとき考えていたのかわかりませんが、それは「不在」というよりも、無限のあり方を導くものです。過剰な数の、可能なすべての「結果」が存在すること。なおかつそれらは作者によって作られたものではない。

でも彼は同時に日用品を使った「複合体」のシリーズなども制作している(たとえば脚立の足のしたにレンガを置き、脚立が傾いている)。その意味では「もの」から完全には離れていない。そんなところにも、冨井さんとの中になにかしらの共有できる問題を感じています。ぼくらにとって結果としての「作品」とはなんなのでしょうか。なぜぼくらは「もの」から離れてしまわないのでしょうか。

田中功起
2010年6月27日 ロサンゼルスより

  1. パブリックトークを主に企画しているCAMPのゲスト企画として冨井さんが行ったトークシリーズ。林卓行さん(美術批評・現代芸術論/玉川大学芸術学部准教授)をゲストに迎えた「《オブジェ》再論」(2010年4月24日)は以下のリンクから見ることができます。

    詳細はCAMPのサイトから。
    http://ca-mp.blogspot.com/2010/04/100424.html
    CAMPのustはこちらから。
    http://www.ustream.tv/recorded/6403079

    冨井さんの主催するアートスペース「壁ぎわ」のサイトからも聞くことができます。
    http://kabegiwa.com/
    http://www.voiceblog.jp/kabegiwa/

  2. リチャード・セラ「Hand catching lead」(1968)、「Verb List Compilation: Actions to Relate to Oneself」(1967-1968)
    共に以下のサイトで見ることができます。
    http://www.ubu.com/film/serra_lead.html
    http://www.ubu.com/concept/serra_verb.html

  3. 高松次郎『世界拡大計画』(水声社、2003年)238ページより。ちなみに高松次郎の作品をネットで見ようとするとあまり多くのものが見つかりません。まとまったサイトがない。「複合体」(とくに椅子とレンガ、脚立とレンガを使ったもの)については『高松次郎 1970年代の立体を中心に』(千葉市美術館、2000年)を参照。

近況:サンフランシスコとLAを毎月行ったり来たりしながら制作中、9月まではこの調子。

連載 往復書簡 田中功起 目次

Copyrighted Image