アーティスト集団「オル太」のメンバーとして活動するメグ忍者の連載。第二回は、卵巣腫瘍と子宮筋腫を取り除く手術を受けたメグ忍者が、術後に感じた身体の痛みや入院中の心境、腫瘍発見から手術に至るまでの経緯を克明に綴る。
「確認のためお名前をフルネームで言ってください。」
私は手術台を前に立っている。
「手術の前に気になることはありますか。」
ありすぎる。手術の痛みは麻酔のあとにどれくらい続きますか。傷跡は残るんですか。
「痛みは麻酔が切れてからあります。でも2日間くらいですよ。」
私はその言葉を信じることしかできない。たくさんの書類を見せられた。ほとんど読んでいない。たくさん怖いことも書かれていた。けれどもう決めたことだから。
姓名、血液型B+と書かれたバンドを手首につけられて手術台に乗る。自分の足で歩けるから自ら手術台の上に寝転ぶ。手術台は電気で温められているのか、背中にほんのり温かみを感じる。周りには研修生ともみられる若い医学生のような人も多く混じっている。手術はそんなに難しくはないからすぐに終わると聞いた。
全身麻酔をするのも手術を受けるのも初めてだったのでこの状況自体に強い違和感を覚える。本当に手術をするべきなのかとも考えたが、もう限界だったのだ。何度も超音波の機械を膣に入れられるのは。
「これから全身麻酔しますよ。大きく深呼吸してください。」
吸って吐く、吸って吐くを繰り返したが、3回目くらいでもう記憶はない。
麻酔にかけられている間に考えていたことはおそらく次の作品のアイデアだったのだけど、内容は忘れてしまった。ミーティングをしなくては、と思ったところで目が覚めた。
起きる前、私の脳の中には濃淡のない明るいベージュ色がまるで画面いっぱいに広がっているように感じた。
彼女たちに事前に伝えていたことは、取り除いた部分を撮影させてほしいということだった。既にホルマリン漬けにされていた私の卵巣にできた嚢胞には少し白っぽい脂の部分と、上のほうに少し飛び出た縮れた毛が見えた。
看護師が病院で使用しているスマートフォンで撮影してくれた。自分でもこんなもの何に使うんだろうと思いながらも、一応記録してしまう。癖だった。そしてもう一つ私が知らない物質があった。子宮筋腫だった。
「卵巣腫瘍と一緒に子宮筋腫も見つかったんでそちらも取っておきましたよ。」
子宮筋腫は小さく、薄いピンク色をしていた。
『スマートフォン越しの身体の一部』
手術後、意識が朦朧としているなかで看護師にスマホでの撮影を指示したあと、麻酔がだんだんと切れてくると、急激に痛みが走り始めた。さっきまでいた看護師たちが誰もいなくなっており、私ひとりが取り残されている気分になった。パソコンのキーボードを打っているかのような音が聞こえ、誰かいるんじゃないかと思ったが誰もいないようだった。そのうち、その音の正体は私のふくらはぎをもみ続けている機械音だということがわかった。ここがICUであることも忘れていた。そして隣の部屋にも男性が運ばれてきていることがわかった。私は痛みに耐え続けていた。涙が出ていた。もうしばらくは泣くことはないだろうと思ったのに。言いようのない痛みだ。これは言葉では説明ができないほどだった。お腹の全体が痛い。どこが痛いとかどのくらい痛いかとかも言えないくらい痛い。痛すぎて痛いとしか言いようがない。気づいたら言葉に出していた。
「うー。痛い。」
『Painと共に』
これを繰り返し3回くらい言ったと思う。そしてタオルでずっと出続けている汗と涙を拭いている。頭にタオルをのせる。これは父が病気のときにやっていた行為だ。私もやった。落ち着くからだ。寒気がする。ものすごく体が冷たい。体の上には電気毛布が掛けられている。体温が下がるのは正しい症状なのか。
「なんで誰もいないんだ。」
これも口にしたかと思う。隣で笑い声が聞こえる。悪夢のようだった。看護師たちが談笑しているようだ。こっちはこんなに苦しんでいるというのにみんなどうでもいい話をして笑っている。お昼ごはんの話なんかをしている。そうか、もうお昼か。
「痛すぎる。」
この言葉はずっと言い続けていたと思う。あとは発した声のほとんどがうめき声。
しばらくして看護師が来た。痛みについて聞かれた。10段階のうちどれくらいかを聞かれる。もちろん10だった。どうにかなりそうなくらいに痛かったからだ。なんとか痛みを紛らわせるために音楽を聴き続けた。フィッシュマンズを。凄い治癒力だった。だんだん痛みが和らいできた気がする。でも次に口にしたのは「死にたい」だった。痛みが強すぎて死にたくなってしまった。でも死にたくなかった。だからその後は「死にたくない」と言うことにした。
私が産婦人科を訪れるようになったのは約2年前だった。父が癌を宣告された頃。私も心配になり、八重洲のクリニックで、人間ドックを受けた。念の為いくつも検査を受けた。
そして見つかったのだ。
「ここに影が見られます。念のため精密検査を受けたほうがいいですね。」
そう告げられたのだった。本当に恐ろしかった。それが悪性なのか良性なのかはそのときにはわからなかった。
その後すぐに近くの大きい病院で診てもらうことになった。検査結果と共に再度検査をしたところ、見つかったのが卵巣嚢胞だった。すぐに手術する必要はないと言われた。良性だろうとのことだったからだ。医師は卵巣を説明するときにパソコンにつながったマウスを示して、
「これが卵巣だとして、卵巣というのは左右にぶら下がっていて、それが大きくなってくるとこうやって周りの胃とか腸とかにですね、巻き付いて、からまってお腹がぎゅーって痛くなります。そうなったら立てなくなります。そうなったときには連絡してください。手術になります。」
と言ってきた。私は恐怖を感じた。
そういうふうに言ってくるのもどうかと思ったし、病状についてマウスをぶら下げて説明するのもどうかと思った。
痛みが想像できた。私は急性胃腸炎を経験しており、過去2回病院に運ばれてもいる。そういう痛みには多少見識があるのだった。そうなってからでは遅いのではないか。そうなったらもうダメではないか。不安しかなかった。
その後、その担当医は数カ月ごとの定期健診ののちにいきなり姿を消した。担当医が変わったことについても説明はなされなかった。
腫瘍が見つかってから4カ月ごとに定期健診を受け、受けるたびにお腹はまだ痛まないでしょう、まだそんなに変わりがないですね、と言われ続ける。硬質な棒でかき回されながら。
腫瘍が突然大きくなってきたのがわかったのは病院に通い続けて2年が経つ春の日だった。およそ4cmくらいになった私の謎の生命体なのか物質なのかわからない人体の一部は確実に私の身体をゆっくりと歪ませているように思った。なぜなら、写真を撮られるときに立つと、左に傾きがちだったからだ。撮影者に、左に傾いてるからもう少し重心を右にしてまっすぐ立って、などと言われたりしたので、多分卵巣のせいなんじゃないかと思った。痛みはないが、いつも私の身体は左に傾いていた。身体は微妙なバランスで保たれている。おそらく左側のほうが数10gくらいは重いのだ。
痛みがなかったのに手術をして、手術をしたら痛みを感じる。そして手術によって切り出された明らかな異物を目の当たりにする。それでも私の身体の一部であったことには変わりがない。愛着がなかったわけでもない。ホルマリン漬けにされた私の身体の一部を思って泣くことにした。
痛みで眠ることもできなかった。足はずっともまれ続けている。リンパの流れを促され続けている。私は足首を回して痛みを紛らわす。様々なチューブにつながれた私はまるでサイボーグで、脳が働いているだけマシといったところなのか。看護師は腹部に丸をつけていく。私の腹部に空いた穴から出る膿の部分を調査しているのだった。
傷はだんだんと癒えていくでしょう。私は戦地の子供たちのことを考える。十分な治療もできずに死んでいく子供たちを。私は泣いている。戦争を早くやめろ。と言いたい。声を大にして。畜生。
トイレには行かなくてもよいのだ。ドレーンがつながっているから。知らなかったけど、私の身体は動けないのだった。心細くて「何かぬいぐるみとかがあったらいいのに」と言ったら看護師に「お薬とか何か飲まれてるんですか?」と聞かれる。それが意味することは精神に異常があるかどうかということなのだろうか。私がそう見えたなら仕方ないことではある。残念ながらそのような薬は持ち合わせていない。薬があるなら欲しいと思った。それで気が休まるならね。痛み止めを追加してもらった。
『イメージの中の卵巣の縫い目』
何もかも疲れた。考えたくない。寝たい。寝られない。隣の人が呻きだす。
「いてーな。畜生。」
私は痛み止めが少しずつ効いてきた。もう少しで眠れそうだったところで隣の隣のベッドに寝ていた年配の患者が目を覚ましたのが見えた。
「ここは病院です。おうちじゃないんですよ。動かないで。痛いでしょ。」
看護師が患者をなだめている。
「ごはんをあげなくちゃ。」
「ここは病院なんです。ネコちゃんはいないんですよ。」
「下に降りなくちゃ。」
「ダメです。お薬飲んでもらいますよ。そんなに動いたら。ここはどこですか?」
「ここ?家。」
「家じゃないでしょ。病院です。階段から落ちて足を骨折してるんです。手術して今は病院にいます。おとなしくしててください。」
「痛い。」
「痛いでしょ。骨折したから痛いんですよ。寝てください。動いちゃダメです。」
ずっと繰り広げられる問答。そして私はイヤホンでまた音楽を聴き始める。
消灯時間になり、電気が消された。次第に眠くなってきて寝た。眠れないと思っていたけれど意外にも数時間ごとに目を覚ましながらも眠ることができた。夢は見なかった。しばらくの間夢を見ていない。印象的な夢はほとんどなかった。
ただ回復を待つ。手術ができただけありがたいことだった。
今だけごはんが食べられなくても、私はかまわない。生きているだけで、生かされているだけで。
退院したらやらなければならないことがたくさんあった。行かなければならない場所もあった。次の作品のためのリサーチで福岡に行くのだ。その頃には痛みは消えているだろうか。体力は落ちているだろうか。
心配ばかりしていた私が両足で立つことができたのは手術から1日後で、つまり、とても早い日数での回復だった。
メグ忍者
1988年生まれ、千葉県出身。2009年に結成したアーティスト集団「オル太」のメンバーとして活動し、脚本、映像、パフォーマンス、デザイン、企画などを担う。日常を批評性を持って見つめ、幼少期の遊びや記憶をもとに、ドローイングを拡張し、世界に対しての些細な反逆を試みる。劇作を手がけたオル太『ニッポン・イデオロギー』が第68回岸田國士戯曲賞最終候補作品にノミネート。自身の個展に「キャピタリズム」(CAPSULE、東京、2024)、企画に「アートサイト神津島2024 山、動く、海、彷徨う」(東京、2024)、「Safari Firing」(神津島、東京、2022)、「campfiring」(東京、2020)など。
今後の活動予定に、「港まちアートブックフェア2024」(8/27–10/5、Minatomachi POTLUCK BUILDING 、名古屋)、「MYAF2024」(10/11–14、寺田倉庫G1ビル、東京)、「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」(2024/10/12–2025/2/16、豊田市美術館)、「SENSE ISLAND/LAND|感覚の島と感覚の地 2024」(10/26–12/15、猿島および横須賀市街地)など。