連載 田中功起 質問する 4-2:冨井大裕さんから 1

件名:「見ること」と「もの」の循環

田中さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

田中さま

ご無沙汰しております。
公な場で田中さんとやりとりするのは初めてのことなので、なんとも妙な感じですが、確かに2人でまともに作品や制作の話はしたことがないですね。照れくさいというのもありますが、あえて話さないようにしているのかも。


7月の頭に参加したイベント「気象と終身」(アサヒアートスクエア、東京)で発表した「hand work」の展示風景。作品の制作指示書に従って、演者は作品を作り続けていきます。

僕は制作中の作品を人に見せたり、作品について意見を求めたりはしないほうですが、田中さんは積極的に自分をさらして、意見を求めていく。この往復書簡やポッドキャストもそうですね。その姿勢を尊敬しています。こんな機会に言うのもなんですが、きっと目の前では言わないことなので、せっかくだから言わせてください。

まずは、僕の制作についての個人的なことから話します。作品個々では多少のブレがあるものの、僕は、素材としての「もの」を見て、これは作品になると判断した時点で、制作の90%は終わっているという実感を持っています。そう言い切れる理由として、僕が扱っている表現方法が立体表現であることが挙げられます。要するに「もの」としての現実の制約が、非常に強く作品の完成時の形(主にサイズ、色、形態)に関わっている。そして「素材を見る」という行為にはそこまでの過程を想像する行為が含まれている。

この点は、リチャード・セラにも同じことが(もしくはそれ以上に強く)言えると思います。セラのビデオ作品は、彼が強力に「もの」が人間に与える制約を露呈する表現に関わらざるを得ないからこそ成り立つ作品であり、それ故か、僕はセラの一連のビデオ作品に共感すると同時に、切なさも感じます。「切ない」というのは、行為(鉛をつかもうとする、溶けた鉛を床にぶちまける)を提示すればするほどセラの場合は「もの」への関わりが深くなっているような気がするからです。深くなるということは「もの」の印象の強さに頼る表現に近づくことにもなる。結果論かもしれませんが、セラはビデオや初期のパフォーマンスにおいて行為を作品化することができましたが、それは「もの」への信頼によって成り立っていたのではないでしょうか。そしてそれはその後の鉄による大掛かりなインスタレーションによって証明されることになる。行為を作品として見せようとすればするほどものが必要となり、行為を全面に押し出すことは、ものの印象をより強くすることにもなる。
この循環を断ち切ることができたとして、その時、作品は作品として成立するのか、またその時、作品はどのような「もの」として存在するのかということに僕は感心を持っています。

以前、インストラクション(指示書)のみを見せるという展示をした際に、いつか「インストラクションでしか存在しえない彫刻作品」を作ることは可能なのだろうかと思い、僕にとってのインストラクションとは何かを考えました。出てきた答えは「絶対に実現可能なものを指示する」ということでした。可能性を提示するのではなく、現実を提示すること。この実現可能なことを、現実の「もの」なしに提示する為にはどのようにしたら良いのか。実際、僕の現在の作りかたでは、このことをインストラクションで提示することは不可能です。何故かと言えば、「もの」と行為の循環を積極的に受け入れることからしか、現在の僕は制作が進められないからです。行為は「もの」なしには成立せず、「もの」は行為なしには「もの」と呼ばれることができないのではないか。では、作品とは「もの」なのか。

インストラクションは、行為のために存在するから、「もの」ではありません。しかし、例えば、保坂さんの回に出てきたティノ・セーガルと比べると、指示書は十分にものとして認識せざるを得えない要素を持っています。大半は紙や壁に書かれた「文字」としての「視覚表現」になってしまう可能性もあるからです。我々が取り組んでいる作品の限界が視覚表現によるものだとすれば、「作品」は永遠に「もの」であることから逃れることはできないように思います。そう考えると、ティノ・セーガルの作品のあり方はかなり秀逸であると言えますが、それでも観客は見るという経験から逃れることはできない。

人は目に見えているものから認識する。そして、作品を鑑賞するという体験が作品評価の判断基準から離れることはない。作者が作品を「見いだす」行為と、観客が作品を「見る」という行為の間に横たわる「実際に見ることのできてしまう、見てしまったと思えてしまう」作品の存在。ひょっとすると田中さんが挙げた高松次郎の作品展開の幅の広さは、そんな作品のあり方から離れることのできない、だけど離れてみたいという作り手の正直な感情に、高松が留まり続けた結果なのかもしれません(いや、留まり続けてみせた壮大なパフォーマンスなのかも…でなければ晩年のあの絵画への展開が説明できないのではないでしょうか)。

見ることを契機とした、「作品とは何か」という問題、もしくは作品を巡る「見ること」の問題…実は、僕も最近考えていたことでした。いや、考えざるを得えなくなってきたと言った方がいいかもしれません。もし、作品の成り立ちが、出発点としての見いだす行為とその結果としての作品という順序関係のままで良ければ、前後関係は成立し、今回のような問題は遅延させることができる。しかし、出発点としての行為が、指示書というかたちで結果としての作品と並列に存在し続ける場合はどうか。SFのタイムスリップものによくある話のように、同じ作品が時空を超えて出会ってしまっていることにならないでしょうか。これがSFであれば、世界は崩壊してしまうことになります。同じ人間がひとつの世界に同時に存在してはならないように、実際に指示書とものが同じ空間に展示されることは作品のあり方としては矛盾している。

ところで、田中さんの作品からは、「作品の構造を見せることが出来ればそれでいいという」意思を強く示しながら、その為には「見た目の良さもクリアしなければいけない」というジレンマを引き受けてなお、「最後に見せるべき作品とは何か」試行錯誤を繰り返す田中さんの態度を強く感じます。

田中さんは前回の最後に「ものから離れてしまわないのでしょうか」と書いていましたが、これは「作品を見せたいと欲することから離れることができない」と言い換えられないでしょうか。僕らは何かを見たい(見せたい)と思ってしまう。その為には、現実に何かがなくてはならない。恐らく、僕らがものから離れてしまわないのは、僕らが「見ること」から始めているからではないでしょうか。

表現が、「現実に何かを見せること」であるかぎり、行為や見方のみを提示したとしても、結局のところ、それすらも「もの」として見られてしまうという循環からは逃れることはできないように思います。これは、制度というよりも抗いがたい欲望かもしれない。でもこの欲望になんとかツッコミをいれてみたいと思う自分がいる。僕の最近の壁ぎわ(*1)の活動やCAMP(*2)のトークには、その思いが反映されているのかもしれない。

「出発点」と「結果」は現実の世界において一致させることができるのでしょうか。また、一致させることが果たして表現において必要なのでしょうか。そういえば、僕は去年のCAMPのイベント(*3)で「過程と結果が同時に見えることが作品の姿としては理想的だけれど、多分、その実現は不可能」と言いました。でも、本当に不可能なのだろうか。不可能と思われる地点には、まだまだ考えるに足る何かが残されているとも僕は思っているのです。

思ったことをつらつらと書いてしまいましたが、今後のやりとりでもっと具体的にしていきたいと思います。紙片も尽きました。今回はこの辺で。

2010年8月 東京
冨井大裕

  1. 「壁ぎわ」については以下を参照のこと
    http://kabegiwa.com/

  2. CAMPについては以下を参照のこと
    http://ca-mp.blogspot.com/

  3. 昨年末に行われたCAMPのイベント
    http://ca-mp.blogspot.com/2009/12/091215.html

冨井大裕
美術作家。1973年、新潟生まれ、東京在住。99年、武蔵野美術大学大学院造形研究科彫刻コース修了。最近の主な展覧会に「変成態―リアルな現代の物質性』(2009年、galleryαM)、所沢ビエンナーレ「引込線」(09年)、NADiff Gallery及び玉川大学での個展(10年)など。08年3月より、茨城県のアーカス・スタジオにて、個展「企画展=収蔵展」を作品が朽ちるその日まで開催中。
公式サイト http://tomiimotohiro.com/index.html

近況:7月24日から9月20日まで金沢美術工芸大学アートギャラリーで個展『つくるために必要なこと』を開催中。12点組の新作も出品しています。
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/www/contents/topics/event/detail/event_00148.html

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4-1:冨井大裕さんへ 1

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