連載 田中功起 質問する 4-3:冨井大裕さんへ 2

件名:技術について

冨井さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

冨井大裕さま

展覧会もトークイベントも含めて忙しい中にお返事ありがとうございました。


バークレーにあるビルボード工場。使用済みのものや出荷前のものが所狭しと並ぶ。

冨井さんも書いているように、たしかに作品は現実の制約を受けています。立体表現にかぎらず、映像でも絵画であってもそうだと思います。リチャード・セラが映像を使ったことは、現実の制約を生かし、いかに別の側面から素材と身体の関係の中に現実を捉え直すかという意味で有効だったと思う。鉛を掴む手の反応をとらえた様は、肉体と鉛に体現される重力の制約をリテラルに見せるためでした。

制作とはある意味で、現実(制約でもあり、可能性でもあり、ノイズでもある)との折り合いのつけ方ですよね。作品というものが、この現実の中に存在するかぎり、それはこの世界の法則や条件の中にある。たとえば鉛から「重さ」を引くことはそもそもできないし、それはもはや鉛ではなくなってしまう。

なので「もの」から離れる・離れないという問いかけは、すこし的外れだったかもしれません。なぜなら作品とはそもそも「もの」、つまりは現実との過不足ない関係としてあるわけなので。

また、ぼくが「もの」と書いてしまったせいで、複数の意味やフェーズが「もの」という言葉に引っ張られすぎちゃったかなと。視覚的な問題、行為との関係、出発点のアイデアを見いだすこと、鑑賞者から見た作品、そして現実の制約——これらのことが「もの」の問題として集約されてしまった。個別に興味深い枝葉があることなので、束ねて「もの」との関係に終始してしまうとそれが見えにくくなると思いました。

むしろぼくはこう問いかけるべきでした。制作の出発点つまり、アイデアを見いだすという、その発見がなにを意味するのか。この問いとの関係の中に結果としての作品もつながってくるはず。ここで大きく二点に絞って整理してみます。まず出発点への着目は、特権的な作者の立場の解消に、そして結果との関係は作品のあり方へと関連します。

作り手の特権的な立場を保証するものに「技術」があります。そのひと固有の特別な技術。これはどの分野においてもいまだに根強い評価基準です。なにしろわかりやすい。写真のように絵がうまい、というレベルから、その風景を撮影するためにわざわざカメラ自体を作ってしまった、というレベルまで、それは同じ基準をもとに語られています。そのひとにしかできないこと、それが価値を生む。

たとえば技術は技術でも、普通の技術しか持ち合わせていない場合はどうでしょうか。おそらくコンセプチュアル・アート以降、アーティストの技術は普通の技術になってしまった(それへの反動として、映像を使うアーティストが映画のクオリティに近づこうとするのもわかります)。技術が普通なので、このとき作者の固有性はアイデアや見方の問題になる。いや、もちろん技術部門を外注に任せるというやり方もあるわけです。わかりやすい例でいえばジェフ・クーンズ。でもそれも「技術問題」に対する別の視点ということで見方の問題です。

見方やアイデアに寄り添うコンセプチュアル・アートの形式に親和性が高いのが、「メッセージ」だと思います。初期のコンセプチュアル・アートは、アイデアを視覚情報と意味の関係において扱っていました(ジョセフ・コスースなど)。しかし外在的(あるいは社会的)な問題、例えばフェミニズム(思想や哲学や社会問題)などと結びつくことで形式は拡大解釈され(メアリー・ケリーなど)、作品を通して作者の考え(メッセージ)を表現するようになる。そのひと独自の特別なメッセージを作品を通して伝えること。いまとなっては、作品とは作者のコンセプトをそのままなぞったものとされ、作者のメッセージや欲望を作品から読み解くものだと思われがちです。いずれにしても、アイデアや見方の問題はいつしか作者の問題となり、ここでもその作者がどれだけ特別なメッセージを見つけられるかという、視点を見いだす「技術」が評価基準となる。

でも、ぼくは技術を否定しているわけではありません。その作品にとって必要な技術はあるはずです。さらに極端に話しを進めてみましょう。もし特別な見方という作者の固有なものさえもなくなってしまったらどうなるか。たとえば以下のように考えると一見「変わったアイデア」も、実はそんなには変わっていないことになります。いつかだれかによってそのアイデアが発見される可能性があるとき(潜在的なアイデア)や、だれもが見つけ出せるものでしかないとき、それは独自の見方・視点・アイデアとは呼べませんよね。

だれにでもできる技術+だれにでも見つけられる視点。こうして作者の特権的な立場はほぼなくなります。ぼくは、作り手が最初に「アイデアを見いだす」ところに最低限の作者性が担保できると思っていました。アイデアの発見だけでも、それは特別な技術に匹敵する−−確かにそうです。しかし、その発見がだれかがいつしか見いだしうる内容であったらどうでしょうか。いってみれば、そのひとはそのアイデアの発見にたまたま居合わせたひとでしかなく、もはやぼくらはそのひとを「アーティスト」とは呼べないかもしれない。

作者性のパラメーターを普通の値まで落としたらどうなるのか。ぼくはしかし「誰もがアーティストである」というような話をしているわけではありません。上記のことからわかるのは、もしこの状態でも作品が成立しうるとすれば、おそらく作品というのは特殊な技術や視点とは関係なく成り立つことができるかもしれないということです(*1)。さて、いや、でも、これは作品なのだろうか。そんな作品はあるのか。

すこし前の書簡でも触れましたが、ローマン・オンダックというアーティストがいます。彼のニューヨーク近代美術館(MoMA)でのプロジェクト「measuring the universe」(*2)は、会場に来たひとが自分の背の高さにマーキングをするというものです。子どもの成長記録として、親が柱とかの前に子どもを立たせて背の高さのところ線を引く、あの行為が集積されていくというプロジェクトです。まさにだれにでもできる技術+だれでも見つけられる視点。それを美術館で行うというところに彼の独自性があるのかもしれませんが、この「背の高さに線を引く」というアイデアはだれかのものではない。

この作品では、出発点のアイデア(背の高さに線を引く)と制作・行為のプロセス(背の高さに線を引く)と結果としての作品(集められた「背の高さに線を引く」行為)、それらが不可分な関係にある。出発点が結果であり、プロセスや結果がどのようになろうとも問題ではない(加えて、行為の楽しさや集積による目の楽しみも備えていたりする)。

もうひとつ例を出します。鉄パイプの直径は野球ボールの直径よりも小さいから、ボールは鉄パイプのなかに落ち込まず、鉄パイプを、たとえば支えることができる。これは冨井さんの近作のひとつです(「ball pipe ball」、2009年)。この作品を実現するのにはおそらく特殊な技術はいらないし、再現も可能である。この鉄パイプとボールの事実は、だれもが知っている(もちろんそれを試したことはないにしても)。オンダックと同じで、ひとつのアイデア「野球ボールが鉄パイプを支える」が(行為として)くり返され、集積として提示されたとき、作品が成立する。アイデアの発見の事例としては、多少特殊ですが、くり返しの制作に関しては(慣れと体力は必要かもしれませんが)、容易さが想像できる。

作品のサイズが会場の空間的制約との関係で決まるのならば、それはサイズ可変であり、作品の完成はサイズや量とは無関係となる(原理的には無限の違う空間で無限に違うサイズがありえるので)。さらに続けると、発見が構造的に結果の中に保存されている(オンダックの場合はプロセスからも見て取れる)。結果やプロセスの中に「発見」が十全に見て取れるとすれば、インストラクションと「もの」を同じ空間に置く必然性はない。いわば作品がインストラクションを含んでいるのだから。

これを支える技術について最後に触れておくと、それはいわば中庸である技術とでも呼べるものです。特殊な技術と距離を置き、作り手の欲望を除外し、つまり中庸な立場に自身をおき、結果やプロセスの中にアイデアが十全に構造化された状態にすることだけに技術を使う。しかしこれを「技術」と呼ぶのはなかなか難しい。それは単なる論理的な必然性でしかなく、アイデアに従えばおそらくだれにでもできることですから。

田中功起 
2010年8月 ロサンゼルスより

  1. ちなみにぼくはこのように考えるので、作者という特権的な立場の解消をグループ制作には求めません。グループは複数ですが、だからこそそのグループ固有の、そのひとたちにしかできないことで束ねられている。つまりひとつのグループとして、ひとつの作者性を発揮している。そのかぎり単一の作者と同じパラメーターで動いています。

  2. Roman Ondák, “Measuring the Universe”, 2007
    http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/980

近況:最近は主に映像の編集に明け暮れています。9人の美容師がひとりのモデルをカットする過程を撮影した新作。9月24日からはじまる個展(Yerba Buena Center For The Arts、サンフランシスコ)で発表します。

連載 往復書簡 田中功起 目次

4-2:冨井大裕さんから 1

4-1:冨井大裕さんへ 1

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