連載 メグ忍者 Drawing and Sleeping 第一回

アーティスト集団「オル太」のメンバーとして活動するメグ忍者の新連載。第一回は、ひと月の短い期間に自身の結婚式、神津島でのパフォーマンス、父との別れを経験した過程を詳細につづり、現実と向き合うため過去を振り返ります。

 


 

一人娘だった私は、いつも車の後ろに座って父と母の会話を聞いて育った。あまりにも会話が多いので、いつしかイヤホンで耳を塞ぐようになる。
会話を聞くのは嫌いではないし、むしろ興味深いとも思っていたけれど、そこに入ることはあまりできなかった。夫婦の観察者である私は、ただ車の後ろからその会話を眺め続けていた。観察し、観察される。家族は観察の対象として特権的なものでもある。

一日の終わりに睡眠がある。新しく思考するために夢をみている。気になる夢をみるとすぐに夢占いを検索してしまう。わかるものもあれば、わからないものもある。眠りにつき、朝目が覚めると、夢をランダムに書き記す。覚えているときもあれば忘れているときもあり、忙しくて書けないときもある。

5月にこんな夢をみた。

 


『大きな丸い光』

 

月が大きかった。太陽か月かはわからなかったが、太陽は直視できないので月だろうと思う。太陽か月かわからない丸い大きな光に影がかかる。日食なのか月食なのか。誰かとそれを見ている。この場所ではこんなに月と近いのか、と驚いている。

とても幻想的な夢だったのでよく覚えていた。朝になって、夢占いをした。それっぽい項目には、「何か願いが叶うことを暗示している」と書かれていた。

起きてカレーを作る。家にある野菜で作るので、毎回どのような料理になるかは決まっていない。その日はバターチキンカレーのようなものだった。特にレシピなどは見ずになんとなく作っているので、作り終えた後に、これはカレーではない、と思うものも出来あがる。

数日疲れていた。疲れが全然取れなかった。全然部屋を片付けられなかった。

結婚式をあげることになった。しかし、こんな時期にやる必要があるのか。いま企画している「アートサイト神津島2024 山、動く、海、彷徨う」が近づいてきていた。正直、式自体はやりたい気持ちがほとんどなかった。親孝行のためと何か自分に義務のようなものが押し寄せてきて、一年前からいくつか式場を見て回っていた。結婚式をおこなう金額を見るたびになんでこんなことにお金を払ってやらなければならないのかと思った。日ごろから資本主義が人間を不幸にさせる側面があると考えているので、祝福されるために数百万円もかけるなんてと思っていた。けれども父の残り少ない人生のことを思い、やっぱりやることにした。これは演劇だと思うことにした。父は末期がんを患っていたのだ。父のためにまず、記念写真だけでも撮ろうと思った。病院にお願いして、病室でウェディングドレスを着て撮影をした。まだ父が生きている間に式をしようと思った。10日後に。いくらなんでも時間がなさすぎだ。そんなにすぐにできる会場がどこにあるのか。あった。司会はオル太の長谷川に頼んだ。父のため、車椅子と酸素ボンベと付き添いの看護師を手配しようとした。体力的に難しいので、式のどこからどこまでいられるかを考える。私はインターネット上にある結婚式の司会の定型文を見つけ、そこから自分なりに台本を書き換えた。誓いのキスは誓いのE.T.に変えた。私はE.T.のぬいぐるみを父におみやげで買ってきてもらったことがある。私はE.T.が昔から好きだったから。そして式の参列者は親族とオル太だけになった。

スーパー銭湯のレストランで、「第68回岸田國士戯曲賞」の授賞式の映像を観た。私はノミネートされていたが会場には招待されていないので、映像で受賞者がおこなった劇を眺めていた。お風呂につかり、疲れを癒す。父はもう数週間お風呂には入ることができないでいる。

父が結婚式に来ることができなくなった。問題は、移動だ。容体は著しく悪化しており、病院のテレビで父のためにYouTubeで配信を観られるようにする方向に切り替えた。配信はオル太の井上と斉藤が担当した。誓いのキスもファーストバイトもやらなかった。「結婚式」という戯曲の中で許容できなかったことは極力なくした。医師から、父が今日か明日にでも心臓が止まって亡くなってしまうかもしれないと言われてから一ヶ月が経つ。食事はほとんどとれておらず、点滴と飲み物とアイスを少し食べる程度でなんとかここまできた。父は、抗がん剤治療の継続を希望し、肝臓の値がよくなれば治療ができると信じて待ち続けている。だから私も母も嘘をずっとついている状態だ。その嘘はきっと見抜かれているとは思う。最近はほとんどしゃべることができなくなった。黄疸が出始めており、目も黄色みがかっている。目を開けることもすこし辛そうにしている。それでもときどき笑顔をみせる。実家に育っている果物の話をする。父は実家にはもう帰ることはできない。父に実家で何かやってほしいことはないかと聞くと、今はないと答えた。

 


『味仙を調べる父』

 

父と握手をして別れた。ありがとうと言われた。私は何も言わなかった。

「アートサイト神津島2024 山、動く、海、彷徨う」の開催のために神津島に行った。4月28日に梅若能楽学院会館でプレ・パフォーマンスをした後、20日間程の猶予があり、日常は過ぎていた。島には、かつて神々が集まって水を配るための相談をしたという神話がある。いくつもの祠と、神社が点在し、ありま展望台と呼ばれる丘の上には10m程の巨大な十字架がある。徳川家康によって禁教令が出された時代に、朝鮮の女性でクリスチャンのおたあジュリアはキリスト教信仰を止めることも、また家康から側室へ抜擢される話も拒否して流刑となり、送られた島が神津島だった。丘の十字架は島の人々に献身的に尽くしたおたあジュリアのためのもので、以前は「ジュリア祭」なるものもおこなわれていたらしいが、私は実際に見たことがない。会場として使用する空き家にはジュリア祭のちょうちんがあった。神津島は一島一村。住宅地と自然保護の区域とで分けられている。高低差のある道路なので、ほとんどの島民は車で移動している。私たちが企画したパフォーマンスはツアー形式となっており、車や徒歩でいくつかの会場となる場所を巡る。

 


『癌細胞と海』

 

Aプログラムのツアーパフォーマンス終盤の5月20日夕刻、母からの電話。それまで母の連絡では父の容体について特に変わったことはなかったので安心しきっていたが、そのときの電話で父との再会が困難な状況へと変わった。「先生から、今日が山場であることを伝えられた」と聞き、私はすぐに翌朝の飛行機のチケットを予約した。機材を担いで浜辺へと移動する直前に再度母からの電話。父へ何か言葉をかけてほしいといと言われた。声は出ないけど聞こえていると思うから、と。私はすぐに理解して、明日の朝に帰ること、公演がうまくいってることと、海がとてもきれいだということを話す。写真も送るから、と言って送った写真。見ることができていたかをそのとき電話で母に聞いたが、わからないとのことだった。その夜は翌日の早朝まで眠らなかった。韓国からきていたグラフィック・デザイナーのトクジュンと夜の海を坂の上から眺めながら缶ビールを飲み、変な英語で会話をしながらたくさん泣いた。宿に戻り、島の人と、オル太の井上とトクジュンとその日のパフォーマンスについての話をした。井上が先に寝て、次にトクジュンが寝た。

翌朝、オル太のチャンチが通話中の電話をもって部屋に入ってきた。朝6時頃だったと思う。私はいつの間にか自分の部屋で寝ていた。寝たのはたしか5時をまわっていたと思われる。もう外が明るかったから。電話の声はすすり泣く母だった。もうあと数時間で命は途絶える、その間、声の限り呼び続けた。私はその場にいなかったので、電話から聞こえる機械音と「がんばって!」という叔父と母が交互にかけている声からその場の様子を思い浮かべ、ひたすら私から、自分の話と、父が尽くしてきたことや行った場所についての話と、とにかく呼吸をするように伝え続けたと思う。呼吸も心臓も止まったのだろう、電話越しの声は次第に静かになっていくが、機械音だけはそのまま繰り返し鳴っていたので、私だけいつ亡くなったかもわからないまま父に語り掛け続けている状態だった。母は私に父が心肺停止の状態であることを伝え、まだ医師の診断を待っているところだからまた連絡する、と言って切った。日に焼けるほど強い日差しだった。何も知らない隣の家の人が、私に向かって「おはようございます」と言った。神津島から父へ最期の電話をし、ひとしきり泣いたあと、ゲストハウスの入り口付近で立っていると、心拍数があがり、アップルウォッチは私に警告の振動と表示を伝えた。もう父に何を話していたかなんて覚えていない。返答してほしいのに返答がない相手に1時間も思いつく言葉の限りを尽くして電話していた。私が話した声で父の心拍数と呼吸の数値が上がったことをあとで母から聞いた。

飛行機の中で寝ていたらあっという間に着いて、ほとんど歩く力も荷物を持つ力もなく、チャンチに支えられながらようやく駅にたどり着いた。ふらふらになりながら調布から御茶ノ水までの電車に乗った。晴れ渡る空だった。これが死ぬのに一番いい日というやつなのだろうかと、頭の中でぼんやり考えてはそれを消した。父はずっと治療を続けたがっていたし、まだやり残したこともたくさんあるだろうから。神津島から帰ってきてももうおかえりと言わない父の手はひんやりとしていた。どこか温かい場所はないか体を探ってみると肩甲骨のほうはまだ温かかった。病院で父の肩甲骨と足の指をもんでいたことを思い出し、生きているときと同じようにもんだ。肩をもんでほしいなんて家にいるときは言ったこともなかったのに、入院中はときどき頼まれていた。

昼過ぎになって葬儀屋がきて父の亡骸を包んだ。お世話になったナースステーションにいる看護師たちが整列して礼をした。また、私にちゃんとご飯を食べてたくさん水も飲んでね、と声をかけてくれた。温かい人たちだったと思う。だけど父は死んでしまった。だからもう会うことはないでしょう。担当医二人が外まで出て見送りにきた。父が慕っていた医者はその場にいなかった。遺体を搬送する車には母が乗った。私と叔父とチャンチは三人で駅へと向かった。もう病院に入るときのマスクの心配をすることもないし、父に何を買っていこうかなんて考える必要もないのだ。一度家に帰って食事もとらずに少し寝た。しばらくして起きて実家へと向かった。

実家に帰ると横たわる死体。父が寝ていた。ブロック状のドライアイスを何個も身体の上に乗せられていた。重くないのか。冷たくはないのか。

翌日、おくりびとが父の死化粧をした。鼻の穴の付近にファンデーションのムラがすこしあり、私は指でなじませた。化粧をした父はもう誰なのか全然わからない顔をしていた。

出棺の挨拶の文面を考えて叔父に渡すためにセブンイレブンでプリントをしに行った。叔父の車の助手席に乗り、叔父は父の最期を看取ったときの話をくりかえし話した。寝返りをたくさんうって足をあげてみたり、とにかく体をうごかしていたと言っていた。居眠りをしていたとき、叔父にむかってなにかを伝えようとしていた父が目を見開いているのに気づいたが、最初は何を言っているかわからなかったそうだ。母が来ると、必死で「看護師さんを呼んでくれ」と言ったそうだ。父は壁に向かってなにかを指さしていたそうだ。迎えがきたのだろうか。自分がみていた光景と叔父がみていた光景はあまりに違いすぎていた。家に着くときにフロントガラス越しに見えた月が大きくて、あの日みた夢と同じような光景だった。月が大きいと叔父に伝えると、興味がないのか何か考え事をしていたのかただ「ああ」と言っただけだった。

葬式はBプログラム終了の翌日に行われる予定だったから、私は少し躊躇いもあったが、父の遺体から離れ、再び神津島へと向かった。

神津島でcontact Gonzoの塚原悠也さんと話した。もしも上演や展覧会などに参加する際に自分の家族が死に際になったとしたら、どう動くか。中止にするのか、参加を辞退するのか、企画から降りるのか。どう判断するべきだったのだろうか。私は父親の死に立ち会うことができなかったが、電話で話すことができた。もちろん、電話を切ったあとの光景は共有できていないが、それは一体どういう意味をもつのだろうか。父は看取ってほしいと思っていただろうか。もちろん、そばにいてほしいことには変わりがないだろう。神津島に行く前に父には、何かをしてあげようとすると必ず「無理しないで」と言われ、どこかに行く際には「いってらっしゃい」と伝えられた。緩和病棟ではなかったため、面会時間は限られていた。面会時間の数十分から一時間くらいの間だけ父と一緒にいた。癌家系だから、いずれ自分の身にも癌が襲い掛かってくるのだろうという不安もある。癌は突然やってくるから、心の準備などできるはずもない。これから、もし、もっと遠くに何年も行くことがあって、家族と離れる可能性があったとして、それがアーティストの今後につながる何か重要なものと考える仕事だとしたら、私はそちらを選ぶ可能性が高いように思う。それは美術に限った話ではない。また、私以外の誰かに頼むことが不可能と判断する場合も、私はきっと行くことを選ぶだろう。けれども戦地に赴く記者や、医療従事者のほうがよっぽど辛い現実をつきつけられているのだからきっとこの私の考えなんてどうでも良いだろう。

Aプログラムでは記録撮影をしていたが、Bプログラムでは青柳菜摘/だつおとコラボレーションした。これに先立って梅若能楽学院会館の能楽堂で行なったパフォーマンスでは能の演目『土蜘蛛』を題材にし、占いを使ってどちらかが土蜘蛛でどちらかが源頼光役となり、対決した『地騙りの決戦、もしくは不戦』をおこなった。能楽堂でのパフォーマンスの前に、何度かミーティングと公演に使用する立体物の制作をした。緑色の金網にはにぼしがついており、神への供物を表した。また、白い針金と洗濯物を干すための器具には家にある日用品で構成される。神津島でのパフォーマンスでは、改装途中の元民宿にある家主のものを借用し、衣装やインスタレーションに使用した。1日目は元民宿、2日目は山、3日目はトンネルでパフォーマンスをおこなった。元民宿ではおたあジュリアを題材に『オタア』を、山では島に多く生息するシマヘビと竜神伝説を掛け合わせた『シマヘビ』、トンネルでは島民から聞いた話を元に『ムラオサ』を上演した。全ての演目は能楽堂でおこなった『土蜘蛛』を踏襲している。ルーパーを使って言葉の反復をおこない、私たちは順番に言葉を発した。時にそれは会話になったりならなかったりするが、お互いの言葉に影響されて発せられた言葉であることは事実で、それが次の行為へとつながっていく。お互いの行為を見ずとも自ずと行為が連鎖されていく。家のなかには多くの家主のものがあり、そのなかから選んだ。気になるものを家の中心に集めた。戦いの前には、どちらか一方がレースのカーテンをかぶり、どちらか一方が笠をかぶる。笠には漁業組合のゼッケンをくっつけた。天上山でのパフォーマンスでは戦いを放棄した。島で出会った少年に歌ってもらった神津小学校の校歌の録音を流し、その続きを神津島で育った大人が歌ってくれた。トンネルでのパフォーマンスの前に、私は隣にある磯に水着を着て入った。私は泳ぐことができないので、半身だけ浸かって、足がつくところまでしか行かなかった。海は少し冷たかったがだんだんと温かくなっていった。岩場はぬるぬると滑って、魚も泳いでおり、滑って溺れる可能性もあることを考えると、早急に陸に上がるのが正しい判断のように思えた。私は陸に上がった。海への恐怖心は少し克服できたが、やっぱり安全な陸のほうがよい。その場にいた子どもたちは恐れをものともせず、海に頭から飛び込んでいた。トンネルでのリハーサル中、迷惑系YouTuberとも思われる男女が現れ、絡まれた。急遽そのときの会話も発する言葉に取り入れた。トンネルから岩場までパフォーマンスしながら移動する演目だったが、その途中、インスタレーションで使用していた平テープが絡まった。私の体に巻き付き、海まで行くことが不可能になった。それでも抗いながら海へと向かうとき、自然にほどけて海にたどり着くことができた。海でさっき着ていた水着を投げあい、海水をかけあった。最終的にどちらが勝ったかはもはやどうでも良くなっていて、観客に委ねる。結末がどうなるかはもはやわからなかった。撤収は思いのほか時間がかかり、島民とアーティストが海に浮かぶ戦いの残骸を拾った。これはもはや縁日のスーパーボールすくいの自然ver.ではないか。最初は呆然と立ち尽くしていたが、少しずつ片付けが終わり、なんとか環ROYさんのライブには間に合った。だつおとは12年前からの付き合いなので久しぶりの共作でも難しく思うことはなかった。けれども、環さんに二人は仲がいいのかを聞かれて何故か戸惑い、口ごもってしまった。ときに仲がよく、ときに嫉妬心もあり、ときに関心がなく、ときに尊敬している。真相は闇の中。ただ、よく飲みに出かけ、朝までカラオケしたこともあった。結局のところ仲がいいということか。時間が過ぎるのが早い。「アートサイト神津島2024 山、動く、海、彷徨う」の全プログラムが終わった。企画自体は早い段階から決まっていた。パフォーミングアーツも詩も映画も音楽もその場で立ち現れていった。アーティストによる土地との溶融。動きながら彷徨いながら。自然や、現地の島民たちと共に成し得た何か。これは芸術祭ではなかった。パフォーマティブな試みが遊びながら生まれ、消えていき、現象として記憶に残ったり忘れたりする。日常の延長線上に行為がある。

神津島から帰った次の日の朝、父の葬儀をおこなった。ジェット船から降りて家で荷物をほどき、しばらく休憩をした後、実家のある香取市へ。通夜のため、部屋に布団を敷いて父の遺体と一緒に寝た。この風習はいまだに残っている。父の唇が乾燥で皮がむけているのを母が気にしてバームを塗ったが効果はなかった。父が見て怒りそうだと思い、もう遺体を触るのはやめたほうがいいと思った。祖母は父の葬儀には出ないとのことで、通夜では朝まで線香を絶やさずに起きていた。私は父に手紙を書き、追加の写真を朝に印刷できるようにセブンイレブンのネットプリントにアップロードし、眠りについた。

葬儀にはオル太の長谷川とだつおも参列した。涙がとめどなく流れ、お経もほとんど聞き取れず、参列した地元民の顔はほとんどわからず、私のこともほとんどの人が誰かと勘違いしていたり忘却していた。父は、おそらくすべての人を把握できているのだろう。私たち家族は、焼香する人々にただお辞儀し続けていた。父の同級生だったという方が話しかけてくれた。驚いた様子だった。父の会社の人々は父のために映像とブックレットを作ってくれていた。ブックレットには完治すると考えていたであろう応援メッセージが書かれていた。父はそれを見ることができなかった。あまりに早く唐突な死だった。

寝起きを繰り返し、時間があっという間に過ぎていく。一日が短い。何をしていても短いと感じる。そしていつの間にか死体になって埋葬されたりされずに焼かれた骨のまま置かれていたりする。死体はもう朝を迎えることはない。魂は彷徨い続けている。

5月の間に結婚式も、神津島でのツアーパフォーマンスも葬式も終えた。この期間に私は何かを乗り越えられたのだろうか。未解決の課題がいくつかあり、喪に服しつつも新たな作品のために思考している。昨日みた夢はもう、覚えていない。朝起きると現実だけがただ何枚もの壁が重なるように立ちはだかっている。

 


メグ忍者
1988年生まれ、千葉県出身。2009年に結成したアーティスト集団「オル太」のメンバーとして活動し、脚本、映像、パフォーマンス、デザイン、企画などを担う。日常を批評性を持って見つめ、幼少期の遊びや記憶をもとに、ドローイングを拡張し、世界に対しての些細な反逆を試みる。劇作を手がけたオル太『ニッポン・イデオロギー』が第68回岸田國士戯曲賞最終候補作品にノミネート。自身の個展に「キャピタリズム」(CAPSULE、東京、2024)、企画に「アートサイト神津島2024 山、動く、海、彷徨う」(東京、2024)、「Safari Firing」(神津島、東京、2022)、「campfiring」(東京、2020)など。

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