椹木野衣 美術と時評102:速度とエロース — 川内理香子と『パイドロス』

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川内理香子展「Colours in summer」会場風景、蔦屋書店 GINZA ATRIUM、東京、2022年
All Photos by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)  ©︎Rikako Kawauchi, courtesy of the artist and WAITINGROOM

 

のっけから関係なさそうな話が延々と続くかもしれない。というのも、この夏に還暦を迎えたからなのだ。還暦を迎えたことと関係なさそうな話が続くこととのあいだの、それこそ関係はなんなのかと聞かれそうだが、ざっくばらんに言うなら、自分のなかの美術評論、ありていにいえば批評という実践をもう少しはっきりとさせていこうと決めたことがある。というのも、還暦というのはどうやら年月がめぐって、もう一度振り出しに戻るということらしいではないか。

そこで批評という話になるのだけれども、実は還暦を迎えた多少の心境の変化についてはすでに一度、別の媒体で書いた。しかし、その媒体が出るのはまだ先のことになるし、読者の想定も美術とはまったく重ならないので、本稿の読み手でこれを目にする人はおそらくほとんどいないのではないかと思われる。そこでわたしは考えることと書くこと、書くことと話すこととの違いについて取り上げたのだけれども、そのことは今回もある程度まで重なってくる。それにしても、それは美術評論ではなくてもっと自由なエッセイだったから、還暦後に美術評論としてある程度まとまった分量を書くのはこれが初めてのこととなる。

ところでわたしが評論家と呼ばれ、みずからもそう呼ぶようになってからしばらくして、大学で美術にまつわる講義をするようになった。そこでわたしがもっとも違和感を覚え、今でもそれを拭い去ることができずにいるのが、研究や調査という言葉だ。もちろん、大学の教員にとっての仕事は教育と研究が二本の柱だろうから、そのことに異議を申し立てるつもりはない。ただ、評論を手掛け始めてまもない当時のわたしにとって、自分がしていることが果たして研究であり、調査であるのか、とあらためて考えてみたとき、それはやはり研究や調査とはどこかで、しかし根本から違うものであるような気がしてならなかったのだ。その違和感は冒頭で書いたように還暦を迎えるまで数十年にわたって続き、ついにそのことについての決着を自分なりにつけてもいいかな、と感じるようになった(同様の理由で近年盛んに使われるようになったアーカイブという言葉も大変苦手だ)。

研究や調査、それにアーカイブでもいいのだけれども、これらの活動と批評、評論とでなにが違うのか、ということについては、端的にいえば前者に求められるのが客観性であるのに対して、後者は極めて主観的な側面が強い、ということを挙げれば一応はそれで済むだろう。これについては以前から批評や評論は日本では私性の所産である文芸の一分野として書き継がれてきた、ということについてかねてから触れてきたとおりだ。したがってこの原稿も原稿用紙に書くように実は縦書きで右から左に書いている。それをウェブ上の基本的なフォーマットに即して横書きで上から下に読めるよう変換した結果、皆さんはいまこれを読んでくれているのだけれども、なぜそんな面倒なことをしているかといえば、それは文芸誌のフォーマットが前者によることからきている。通常、論文などを書く際には後者が採用されることになるわけだが、それではどうしても私的に文章を書くことを通じて思索し、執筆することがうまくいかない。少なくともわたしの場合は。

ところで最近、世にいう古典のたぐいを手に取る読書が増えた。なぜ、そういうことを積極的にするようになったかというと、べつだん時間の累積に耐えて今日まで読み継がれているものに普遍的ななにかが宿っているのではないか、というようないかにもありそうな理由からではない。それどころか、古典と呼ばれているものが、文学でも哲学でも、いまわたしたちが「文学」や「哲学」の名で呼ぶ際に思い当たるものとは、およそ書き方が違っていることが、一周して改めて気になるようになったからなのだ。研究や調査という話に戻ると、古典を読んでいるときの感覚は、研究や調査の成果発表であるいわゆる論文とは、ことごとくかけ離れている。これは哲学で言えばニーチェやウィトゲンシュタインのようなわかりやすい例を挙げるまでもなく、ヘーゲルやハイデガーのような体系的とされるものであっても同様で、古典ではむしろ批評や評論のように極めて主観性が強い。少なくともいま書かれているような論文のフォーマットとは相当に異質なものばかりだ。その際たるものが哲学の祖と考えてよいプラトンだろう。

そのプラトンによる『パイドロス』を最近手に取り直してみた。ご承知のとおりプラトンは哲学といってもそれこそソクラテスと誰か(この本ではパイドロス)が井戸端会議のようにえんえんと対話を続ける書き方をしていて、それは戯曲のようでもあって、およそわたしたちが今日、哲学と呼ぶものとはかけ離れているように感じられるのだが、プラトンはこれこそが哲学なのだとまちがいなく考えている。そしてそのことが、わたしの考える批評や評論というものとかなり密接に結びついている気がしたので、いまからはそのことに絡めて本題に入っていくことにする。

 

川内理香子展「Colours in summer」会場風景、蔦屋書店 GINZA ATRIUM、東京、2022年

 

やはりこの夏のことになるが、川内理香子の個展「Colours in summer」を銀座の蔦屋書店で見た。作品が展示されたアトリウムに入ってすぐに、押し寄せるような感覚の氾濫があり、それは絵を見ている、というよりも絵を体感しているといったていで、すぐさまわたしに強い躍動感となって波及した。その感覚の強さは、一枚一枚の絵に由来するというよりも、それぞれの絵が合算された場に身を置くという性質のものに感じられたので、ここでは、その体感が総体としてどこからやってくるのかについて、わたしなりに考えてみたい。

今回の個展でもそうだが、川内の絵にはたくさんの動物が登場する。登場するといっても、それははっきりと姿かたちが描写されているわけではなく、分厚く塗られた絵具の層のうえから輪郭によって素早く斬り付けられた細くて深い溝のように刻まれている。オウムやインコ、コンドル、ジャガー、コヨーテ、ナマケモノ、アリクイ、キツネ、ワニ、魚、カエル、貝、蛇と思いつくまま挙げていっても、実に多くの「動物」が絵のなかに読み取れる。ところで、動物と見るやただちにわたしのなかで蘇ってくるのは、その動きの速さである。家では一羽のインコ、一羽のオウム、一匹の犬を飼っているが、その動きの速度や自在さは到底人間の比ではなく、とても追いかけられるようなものではない。目で追うのがせいぜいだ。向こうの側で人間に合わせてくれるからなんとかなるものの、その動きの俊敏さを見ていると、人間はなんとゆっくりとしか動けないのかということを痛感させられる。蛇など手も足もないのに、あの波動のようななめらかさと素早い移動の仕方はいったいなんだろう。いろいろと説明もあるのかもしれないが、肝心なのは人間とは別次元の動きをする生き物が多々存在するということであって、人間の考えでその動きの速さについて勝手に説明し納得することではない。

ところが、動物を描いた絵はとりわけ日本画などでは主流として存在しているにもかかわらず、その速度感を描いたものはほとんどない。どれもまるで動物が人間の絵のモデルのようにしっかり静止して佇んでくれているように描かれている。だからそれらは動物ではなくまるで人間のように見えるのだ。実際、人間に見立てて描かれているといったほうがいいのかもしれない。だが、動物と人間の動きの速度の違いはそもそも解剖学的な内部構造の違いなのだから、静止して佇んでいるような動物は実質、死に体と化している。動物をその内部構造の違いから描こうとしたら、それこそわたしたち人間がそれらを死に体としてしっかり認識して描写するようなことは一瞬たりともできず、輪郭はとび、かたちは瞬時にして崩れ、目は追いつくことができず、視野からはあっというまに消えている。つまり動物を静止画像のように描けるということは、動物をその表層からのみ描くことにほかならない。そこには内部がない。内部もろともに描こうとするならば、狩りをする人間がそうするように、様々な工夫を重ね、動物の速度になんとかして追いつくよう対象との距離を狭めなければならない。そのとき動物は様々な形態に変化する。その変化の兆しをまずはとらえるしかない。

わたしには川内の描く動物が、そのような工夫の結果、その姿形を外形からではなく、その内部から、内部構造の違いと身に備わる生得的な動きの速さから描こうと、キャンバスのうえで狩りをしている過程で捉えられていると感じられたのだ。

 


「Coyote」2021年、油彩、キャンバス

 


「IMMORTAL」2021年、油彩、キャンバス

 

川内の描き方はインタビューなどで作家自身が語るとおり、考える前に描く、ということにある。動物を描くなら描くと決めてゆっくりしっかりと描いていくというのではない。瞬発力を使い、体全身を使って、動物の姿に迫るように速度を持って画面に気配を刻み付けていく。そのとき動物は、画面のうえで逃げたり迫ったりを繰り返しながら様々な生成をきたし、別の動物をその場に呼び込むこともあるだろう。その兆しを川内はすぐさまとらえ、別の動物の気配を察し、そこに目線を向けながら、もうひとつ別の行動を起こすこともあるだろう。あるいは逆説的に、狩りの結果動きを止め、毛皮だけとなったジャガーが、敷物のように画面を覆い、その動きを完全に止めた状態で描かれることもあるだろう。しかしいずれにしても、これらの動物は人間とはまったく似ていない。むしろそのことごとくが痕跡、と呼んだほうが近い。その点で川内の油絵と素描とのあいだにジャンル的な区分をすることはあまり意味をなさない。質感こそ違っても、線によって狩りをしていることに変わりがないからだ。

川内の絵は彼女がレヴィ゠ストロースの神話論に多くの着想を得ていることから記号的に読むことも可能だが、線ではあっても実際には構造人類学的な記号とは似ても似つかない。そもそも動物が神話で主要な登場人物として現れたのは、その人間を超絶する身体能力によるところが大きい。現代では人間は動物を人類に劣るものと認識し、またそのように刷り込まれているが、こと素のままの身体能力や未知の知覚能力においては到底人間の及ぶところではない。つまり動物は、古来より物語の「登場人物」である以前に、そのような人物性を超越した存在であり、だからこそ請われて物語に援用されるだけの強さがあった。わたしは川内の絵にも似たような感覚を覚える。つまり、川内の絵から動物の分析をすることは人の側からの逆転した読解であり、体験としてはまず動物の異能に接近しようと試みる川内の無謀に描く行為があり、その冒険的な跳躍が事後的に解釈としての神話分析を呼び覚ますのだ。構造主義ではすべてが記号に変換されて読解の対象となるが、そのような暇が川内の絵にはない。動物の速度感が川内の描く速度によって辛うじて輪郭を表し、見るものはそれにもう一度追いつこうとする。そのとき、会場に身を置いたものは目を通じて体内に侵入してくる累乗された速度感を否応なく感じることになるのだ。これは「内臓」的なもので、実際にその場で身を動かす動作的な発現とはまったく違っている。その場に静止したまま、内からの躍動感を強制的に呼び覚まされる感覚といっていい。

 


「making rainbow」2022年、油彩、キャンバス

 


「YOU CAN FLY」2020年、油彩、キャンバス

 

川内の絵にはしばしば動物と混在して心臓や肺臓をはじめとする人間の臓器が随所に配置されている。このこともいま触れてきたことと無縁ではない。動物そのものと人間の臓器とでは所在がまったく異なるが、臓器は川内自身も触れているように人間にとって日常的に不可視であり、その動きは未知である。人間は理性によって社会や日常を制しているが、臓器はこれとは無縁である。川内が言うように食べ物を摂ると消化器系が一斉に働き出し、その働きのために血液が主要な器官に供給され、脳の活動は一時的に抑制される。つまり自分が自分でないものになってしまう。自分が自分でないものになってしまうような身体に帰属している理性とはいったいどれほどのものなのか。身体を制御できない理性は実は動物の速度を捉えきれない人間の能力の限界と同質のものである。だから幾多の動物たちと一緒に臓器が描かれていても、別段不自然なことはない。不自然なのは、それらを理性の速度に合わせて把握し、理解することが可能だと思い込んでいる人間の自然さのほうかもしれない。というよりも、考えてみれば思考の座である脳自体も臓器なのだ。すると理性は、自分はいったいどこにあるのだろう。宙ぶらりんではないか。その居場所のなさ、不在について悩む前に、そうして空っぽになった理性が画面を人間の常態のなかに引き戻そうとする惰性が追いつく前に、川内はその臓器によって埋め尽くされた身体を使って線を引き、その外部へと絵をたち現そうとする。

すると、おのずと人間もまた異なる姿で絵のなかに登場するようになるだろう。手は手というより節足動物のようになり、衣服は剥ぎ取られ、グニャグニャになって、頭部は匿名化する。誰かとして現れるとしても、それは生まれたての赤ん坊が誕生の恐怖に叫びを押し殺しているかのようであり、もしくは死に瀕した老人のように生気を失っているかのようだ。その表情は、周囲のあまりにも早すぎたり遅すぎたりする速度によって翻弄され、我を見失っているようにも見える。

もちろん、臓器は動物のように俊敏に場を移動するわけではないけれども、意識を携えた人間とは異なる速度のなかにいる。それは確かだ。臓器は逆に人間が絵を描いたりものを作ったりする速度感よりもはるかにゆっくりと動く。そのゆっくりさは知覚することが難しいくらい緩慢で、これもまた人間の認知を超えている。動物の速さと臓器のゆっくりさは、人間が通常生きている認知の範囲では精確に捉えるのが大変難しい。というか無理だ。これは川内が描く成長した植物や、やがて開花する花、果実の熟していく速度、さらに言えば天体、つまり太陽や月の運行でも同様だろう。

 


「Sun’s trip」2021年、油彩、キャンバス

 

このように川内の絵の中では速度の異なる生き物や臓器が異なる向きで錯綜し合い、だが全体としてはひとつの世界(ユニバース)であるかのようにめまぐるしく行き交っている。このような状態についてどのように言葉であらわすことができるかというと、それは極めて困難なことで、話を少し戻せば、少なくともこの感覚は、客観的な調査や研究の対象ではない。端的にいえば、科学が生まれなければならなかった人類の欠落に端を発するような感覚だからだ。それを科学的な言語の内部で整合性を作ろうとすると、それは形式的な弁論術に似たものとなってしまう。

プラトンの『パイドロス』では、パイドロスがリュシアスに説得されてソクラテスに話した弁論は、プラトンからすると詭弁であった。というのも、リュシアスによると、恋するものの話というのはみずからを見失い、移ろいやすいものであるから、恋をしてないものが話してくれることのほうを信じるべきで、なぜなら恋していないものは対象に対して利得と無縁に一貫しており、一種の客観的な態度を保てるからだという。だけれども、プラトンによれば、つまりそれはソクラテスの話として語られるのであるが、こと美について語るのであれば(『パイドロス』の副題は「美について」である)恋するものが高い次元で美を志向する力に沿って語られる力のほうを信じるべきであって、むしろ恋していないものの説得力は一種の形式のなかで完結しており、巧みな話術ではあっても美には届かない。恋するものの語りは客観的ではないかもしれないが、そもそも美は客観的な、人間的な価値を超え出たものだし、もっと言えばそれを司っているのはエロースという神の領域なのだから、人間の及ぶ範囲で説得を競う弁論などによって抑制しうるものではない、ということを説く。

そもそもエロースは神の領域から人の世界に降ってくるものなのだから、その力に浴したものの態度が一種の狂気に近づくのは当然の成り行きであって、実際、ソクラテスの口を借りてそのことを説くプラトンの筆致は次第に熱を帯び、速度感を増していく。そしてプラトンもそのことを自覚しており、その恐るべき自覚についてパイドロスに再三にわたり注意を促す。なぜならプラトンは、大きな歴史が左右されるような局面では、儀礼的、言い換えれば方法論的な占いなどではなく、情動的な到来者による予言によってこそ世界は何度でも開示されてきたし、それは詩人による修辞などでは到底及ぶ世界ではないことを知っているからだ。したがってプラトンは、リュシアスのいかにも説得性を持ちそうな弁論は美を前にしてはあまりにも閉じたものであって、恋するものの語りは高い次元においてはエロースの力と無縁ではないどころか、そこにしか美の開示はないということをパイドロスに語る。

 


川内理香子展「Colours in summer」会場風景、蔦屋書店 GINZA ATRIUM、東京、2022年

 

わたしは、今回の川内の個展で場内に満ちていた気運というか、情感というものは、このような力に近いものではないかと感じた。美、などというと旧態依然とした言い方になるけれども、別に言葉はなんでもよい。それは、そこではないどこかから降りてきて、見るもののなかに絵を媒介して無情に降り注ぎ、否応なしに感得させてしまうようななにかであって、少なくともわたしにとっては、分析し、解釈するようなものではなかったし、それは実際、不可能なことのように思われた。川内の絵を見ていて感じるのは、作者がその画面を通じて動物や臓器、植物や天体といったたがいに異なる速度の折り重なりに追いつこうとするあまり、思考や思索をあえて後方に追いやりながら身体を酷使している圧力のようなものであって、分析や解釈という理性の営みが前提とする通常の時間とは異なる、速すぎる時間や遅すぎる時間が、思考ではなく身体の次元で交錯しながらこれらの絵は描かれており、それを(いまここで行っているように)言葉にするためには、印象の定着と主観的な身体への働きかけや変化を、それこそ速記のように同時に走らせていくしかないように思われたからである。

ところであの『パイドロス』でプラトンは、先に触れたさらにその先で、結局エロースが伝える美の領域には書き物を通じて及ぶのは無理なことだとはっきり書いている。これは、書くことが無理なものについて書いているプラトン自体が禁忌を犯していることにもなるが、実はプラトンは自身で書いているのではなくソクラテスをして語らせしめている。肝心なのはやはり対話を通じて、ただし弁論術とは異なる仕方でしか到達できない領域があるのであって、それは説得する側と説得される側といった関係にはない。言い換えれば、書き物はその書き物自体に客観的な価値があるのではなく、古典がそうであるように、世代を超えて読み継がれ、いっそう多くの異なる価値観を持ったものとのあいだに対等な対話を生み出す力を持つのでなければならないし、そうでなければ一時的なものに留まる。

これは実は絵画でもまったく同様だ。見るに値する絵画とは、その絵画と内的な対話的関係に入ることができるような性質を必ず備えており、そのような開かれ方にとって、細部まで制御された自己完結的な絵画はむしろ対話を妨げ、見るものを説得しようとするあまり、ついにはみずからを説得の材料にまで堕してしまう。『パイドロス』におけるリュシアスの弁論は見事であったが、実はそのような単に説明的なものでしかなかった。そこに欠けているのは、弁論のような水平的な関係ではなく、対話によって天界に引き寄せられるエロースの力の介在にほかならない。実際、神話には現代的な意味での社会的な説得力はほとんどない。それが長く生きながらえているとしたら、それこそがエロースの力なのだ。そしてそれはほかでもない川内の絵のなかで作家の思惑や意図を超えて横溢し、動物に追いつこうとする狩りの工夫を借りてその能力に接近し、やがて画面から見るものの身体にまで及んで対話を始め、いつのまにか川内の絵画のようにわたしの身体を改変し、内臓のように意思とは別に蠢き始める力の源泉でもあるに違いない。

 


川内理香子個展「Colours in summer」は2022年7月2日から13日まで、銀座 蔦屋書店 GINZA ATRIUMで開催された。

 


筆者近況:コンセプト・アドバイザーをつとめた「楳図かずお大美術展」(2022年9月17日〜11月20日、あべのハルカス美術館[東京展(東京シティービュー)からの巡回])が開催中。監修した図録は大阪展開幕と同時に会場で発売、寄稿「幼年期の「始まり」——楳図かずおと回帰する「14歳」」を収録。美術出版社より『東北画は可能か?』発売中、寄稿「極東画は不可能か——「東北画は可能か?」の括弧はなぜ一重なのか」。カイカイキキより刊行の『THE ART OF JELLYFISH EYES めめめのくらげ』に村上隆とのツイッター交換記録が再録された。10月1日より朝日新聞読書面・書評委員。

 

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