椹木野衣 美術と時評98:「繁殖絵画論」半世紀後のパルス — 小野田實

連載目次

 


小野田實「作品 61–11」1961年、91.4 x 133.1 x 7.4cm 姫路市立美術館蔵 撮影:加藤成文

 

2021年5月15日、小野田實「私のマル」について知りたくて、待ちに待った姫路へと向かった。幸い、と言うことができるのかわからないが、展覧会場の姫路市立美術館は、兵庫県に出されていた緊急事態宣言下で数日前まで休館だったのが、その時点での新型コロナウイルス感染者数の推移などを踏まえて急遽、開くこととなった。そうして、ようやく訪ねることが叶った展覧会場は、想像を超えて数えきれないほど様々な「私のマル」で描かれた絵画群によって、壁という壁が埋め尽くされていた。

それらのマルの群れを細部まで見尽くすのに、いったいどれくらいの時間がかかるのだろう。私は会場に優に2時間はいたと思うが、全然足りなかった。というより、時間の感覚をしばし奪われた。小野田のマルには、なにか見る者の視線を無際限に吸い込んで一種の失念状態にさせる、有無を言わせぬ力がある。そのことはすぐさま確認することができたし、そこには想像以上のものがあった。それはよいとして、しかし、ではそれはいったいどんな力に依るのだろう。

 


「私のマル 小野田實展」、姫路市立美術館、2021年 撮影:岸本康 写真提供:姫路市立美術館

 

冒頭からいきなりマルというのは、少々唐突だったかもしれない。ここでのマルとは、小野田の絵の最大の特徴である「丸」のことである。小野田はこの丸というモチーフを、すでに早くから画面に導入し始めていたが、黄色味を帯びた白地に大小の黒い丸を四方八方に増殖・反復させる典型的なスタイルが確立されたのは、1961年の「作品 61–11」、同じく「作品 61-12」あたりからのようだ。

これらの絵のなかで、画面は合板の支持体の上に細長い木の板が様々な角度で木工のようにボンドで貼られ、凹凸を持つその表面に油彩で大小の黒い丸が空間を端から埋め尽くすように描かれている。しかも、ただでさえ日常的に注意を喚起してくる黄色い下地を持つ画面が珍しいところに、大小の黒い丸が板の向きに沿って方々へと繰り返され、その背景では、さらに細かい黒い丸が、見えない溝に吸い込まれるように徐々に小さくなりながら列をなしている。黒くて大きな丸のほうに焦点を絞れば、背後の細かい丸はぼやけて蠢く一連の模様のように視界を漂い始めるし、逆に細かい丸のひとつひとつを丹念に目で追えば、板の上に置かれた黒い丸はなにか丸というより黒い穴(ブラックホール?)のように不穏な気配へと存在感を変える。画面を随所でこんなふうに入れ替えながらじっと見ていると、それだけで視界がぐらぐら(ゆらゆら)してくる。先に一種の失念状態と書いたのはそのことを指している。いったいなぜ、どのような経緯で、このような特異な画面が小野田のうちに作られていったのだろう。手がかりがないわけではない。その背景について小野田自身、同じ頃に発表された「繁殖絵画論」のなかで次のように語っている。

 

最近私が試みた作品の数点は、これらの風潮に対するシニカルな批判でもあり、冷笑でもあった訳だが、それ以前の私の発想のなかで無数の同一の何か(それは物体でも記号でもよい)が、メカニックに増殖していくというイメージにとり憑かれていたのだった。
(初出『姫路美術』創刊号[1961年12月号]、『小野田實 私のマル』展図録、青幻社、2021年、4頁)

 

ここで小野田の言う「これらの風潮」とは、1956年に日本で開かれた「世界・今日の美術展」以降、批評家ミシェル・タピエによる煽動的なデモンストレーションを伴って日本へと性急に輸入された抽象絵画、アンフォルメルの動向のことを指す。それ以降、国内でエネルギーの無媒介な吐露を思わせるアクション・ペインティングがもたらす過度に情動的で即興的な画面がもてはやされ、一種の流行のようになっていたことへの、それは第一に小野田による反発であり批判でもあったのだ。

だが、ほかでもない小野田がそこで書いているように、表面上それが世の風潮へのシニカルな態度表明であったとしても、アンフォルメルへの反発は小野田のうちで「私のマル」が生み出される最大の原動力では決してなかった。むしろ小野田のなかでは、「それ以前の私の発想のなかで無数の同一の何か(それは物体でも記号でもよい)が、メカニックに増殖していくというイメージ」がとっくに憑依しており、そうした「無数の同一のメカニックな増殖」が、アンフォルメルへの反発をきっかけに、イメージとして明瞭な形式を持ち始めたのだと考えた方が正確だろう。そして、その具体的なイメージの源泉として、小野田は端的に「工場」について挙げ、先の文に続けて次のように語る。

 

最も興味深いのは、オートメーション工場において作り出されていく製品の無数の同一である。仮に毎日無数に製造されていく真空管を例にとるとする。これをラジオ、テレビ等に組込まれることから切り離し、唯たんに真空管の無数の累積だけを見た場合、その膨大な無意味に驚異を発見出来ないだろうか。
(同前)

 

このように、小野田が「私のマル」に至るまでの前段階として、工場で日夜生産される部品を管理するオートメーション・システムへの強い驚きと、そこに発する、社会とは暫定的に無縁な「膨大な無意味」への類い稀な関心があった。してみると、画面に敷かれた側道を思わせる木の板は、差し詰め工場を所狭しと支配する部品を運ぶ作業ラインの帯だろうか。言われてみれば確かに黄色は、工場を始めとする非人間的な作業能率の優先と人間にとっての身体的な危険が隣り合わせに共存する場所で、必ずと言っていいほど警告色として使われてきた(他に踏切など)。さらに加えてここに画面から手前に出てくるような黄色と逆に退く黒が交互に配置されれば、その強いコントラストは黄色の警告的な性質を一層補強し、視認性にも強く(毒々しく)働きかけることができる。また、こうした人為性を離れても鮮やかな黄色は自然界で毒性の強いハチやキノコなどを通じて、しばしば人の命を危険にさらす警告的な性質を持つ。

人の命を危険にさらすという意味では、時代はまさしく、敗戦による占領とそこからの復興を早々に過去のものとし、最初の東京五輪を数年後に控え、まもなく訪れる高度経済成長の頂点へと向かって、国を挙げて生命よりも生産を重んじる体制を築き上げようとする機械化拡大の渦中でもあった。その点で、小野田による黄色の下地と不気味な黒い丸からなる警告的な絵画の登場は、短絡的に身体的なアクションを謳歌する通俗的アンフォルメルへの強い否定を孕む、まさにいま目前で機械化しつつある現実の提示でもあった。

 

このイメージを客体化するために選んだのが無数の円形と線であった。以来それを「私のマル」と称し、遠近法的秩序による線の軌道によってマルの大きさは変化した。画面はどっちから見ようと差し支えないし、「私のマル」は画面のどこからでも外へと延長することが出来、壁や天井は勿論のこと道路であろうと自動車であろうとおかまいなく描くことが出来るし、どこにでもマルを描き続ければ私の作品になるのである。そんなところから繁殖絵画と名付けたのではあるが、繁殖といった有機的なものではなく、からっけつで、あっけらかんとした、メカニックなイメージなのである。
(同、5頁。下線筆者)

 

こうして小野田の「私のマル」は、アンフォルメル旋風から決定的に切り離される。即興ではない。あくまで機械的な反復なのだ。実際、この時期の作風を象徴する一作、たとえば先に引用した文からわずか数年後に描かれた「作品63-A」(1963年)などでは、まさしく「繁殖絵画」と呼ぶしかない丸の増殖と配列が発展的に展開され始めているかに見える。しかし間違ってはいけないのは、こうした画面はそれでもなお「繁殖」といった生物学的な有機的運動に由来するのではなく、あくまでメカニックでオートメーション的なシステム(増殖ではなく反復)が稼働する現実から、「からっけつで、あっけらかんと」——すなわち脱人間的に捉えられるべきだろうということだ。

 


小野田實「作品 63-A」1963年、91.8 x 91.5 x 5.5cm 姫路市立美術館蔵 撮影:加藤成文

 

とはいえ、そのような「無数の同一な何かのメカニックな増殖」は、小野田のなかに戦後、高度経済成長と時を同じくして、にわかに宿り始めたものとは思えない。そのように言うには、小野田のなかのオートマティックな反復と増殖(同一のものの機械的な繁殖)は、あまりにも長きに亘り彼の絵画的な動機を支配し、根深く取り憑いているかに見える。実際、旧満州生まれの小野田が終戦前年に日本に戻り、根を下ろした姫路での画業を辿れば、彼が抽象絵画へと移行する以前に描いた具象の絵には工場や倉庫がしばしば見受けられる。そして、そのような場所はもれなく無人であり、社会を稼働させるためのシステムの末端としての風景が、淡々と写しとられている(たとえば「ガソリン倉庫(A)」(1956年)、「工場」(1958年)など)。

 


小野田實「ガソリン倉庫(A)」1956年、65 x 80cm 写真:加藤成文

 


小野田實「工場」1958年、97.2 x 130.4cm 写真:加藤成文

 

もしかすると、のちの「私のマル」へと繋がるこうした脱人為的な動機が最初に彼のなかで芽を吹いたのは、それよりはるか以前の、小野田が満洲で育った頃の、アムール川最大の支流、松花江に浮かぶ汽船の記憶に遡るのかもしれない。

 

小学1年生の時には腎臓の病気で小学校を1年間休学しています。その頃に潔(筆者注・實の父)に連れられてアムール川最大の支流、松花江の汽船に乗ったことがあり、實が夢中になったのは大きな川や周りの景色ではなく、機関室の大きな機械でした。
「なんで(動くん)やろ?」「なんでかな」を口ぐせに、おもちゃや身の回りのものをどんどん分解していく。そんな経験が實の原点であり原風景でもありました。
(小野田イサ「小野田實のこと 「なんで動くんやろ?」「なんでかな?」が父の原点」、同前、291頁)

 

機械化がかくも進む以前の常識では、反復的に動くものは生命、動物と相場が決まっていた。幼かった小野田にとって、なぜ生き物でもない汽船が有機的に動くのかは、大きな疑問であったことだろう。その原動力に機械室があることを知ったとき、それが彼の「原風景」になったとしても不思議はない。その意味で小野田の「私のマル」とは、巨大で機械的なシステムが、人間不在のまま、あたかも生命のように無際限に活動し続ける様、その恐怖、そしてそのメカニズムへの私的な謎(私のマル)を描いたものと考えることもできなくはない。

そうした側面がより明確になったのだろうか。1966年頃から、小野田の描く「私のマル」は、それまでのような物質的で増殖的な側面よりも、非人格的な「マル」が求心的なシステムを自己組織したかのような、単一な画面へと大きく変貌を遂げていく(たとえば「WORK66 R-11」(1966年))。そしてこの傾向は、1970年代に入ると、ごく薄く記号的な表面性へと辿り着き、機械というよりも機械が発信する明滅する現象的な波紋を思わせる画面へと移行する。また色彩の面でもあからさまに警告的な黄色は後退し、その代わりに青や赤、黒などによるモノトーンに近い同心円のメカニズムが目立つようになっていく(たとえば「WORK75-BLUE1232」(1975年)や「WORK78-Red11」(1978年)など)。

 


小野田實「WORK 75-BLUE1232」1975年、80 x 160cm 写真:表恒匡

 


小野田實「WORK 78-Red11」1978年、80 x 80 x 2.5cm 写真:加藤成文

 

実際、姫路市立美術館での会場構成も、縦に長い会場は中央部分に貫通的に壁を立てることで細長く二分割され、向かって左に60年代の有機的な増殖性を持つ絵画群、右に同心円状で記号性が強く複雑な波紋を思わせる絵画群を対比的に配置し、両者の時系列的な対照性を強調している。ただし、「私のマル」をめぐる小野田のシステム変換は、この二つの対照性に限られない。80年代になるとまた別の「私のマル」が、90年代にはまた異なる「私のマル」がそれぞれの時期に即して立ち上げられ、このシステム変換は2008年の死の直前まで探究されていた。そのすべてを追うにはまた別の機会を待つしかない。ここからは、今後、小野田の「私のマル」を過去からの回顧ではなく、それとは異なる別のシステムへと繋ぎ、新たな増殖・繁殖を可能にするための予備的な着想をいくつか、ごくスケッチ的に書きつけておきたい。ひとつめは、音楽とのシステム変換である。

もともと私が小野田の今回の展覧会に関心を向けることができたのは、図録での翻訳作業に加わったニューヨーク在住の藤森愛実さんからの連絡で本展についての情報を知り、幸運にも御子息の小野田イサさんと知己を得られたことに発する。その時は、それも一種の偶然の出会いのように感じていたのだが、藤森さんとは2011年に東日本大震災が勃発した翌年、ニューヨーク近代美術館でドイツのテクノ・ポップ・ユニット、クラフトワークの回顧展が開かれた際、館内で催されたクラフトワークの7夜にわたるコンサート形式のパフォーマンスを鑑賞する機会の手配をお願いした経緯があった。私はそのとき、東日本大震災で東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウン事故を起こしたあとで、クラフトワークの『放射能』に彼らの手でどのような変化が加えられるかに大きな関心をもち、この機会に立ち会うことを決めたのだった。

そんなこともあって私は、小野田の絵が1970年代に入ってから変容し、有機的というよりもパルス状に発信される電子的な波紋を思わせる絵画を眺めているうち、クラフトワークの『放射能』をいつのまにか連想していた。そして、これは本当に偶然がもたらしたいささか乱暴な連想に過ぎないけれども、クラフトワーク(KRAFTWERK)がドイツ語で「発電所」の意味を持ち、彼らのホームグラウンドであるデュッセルドルフの郊外には、ルール工業地帯と呼ばれる非人称的な工場などが並んでいる風景を思い出し、そこに小野田の絵画の原点に工場や機械の風景があることとを思い起こし、両者のあいだにある種の連想的な接点を見出していたのだ。もしもこのような連想が許されるなら、小野田の「私のマル」を、一種のインダストリアルなセンスに基づく「テクノ・ポップ(アート)」として見ることもできるかもしれない。また、私は見ることができなかったが、今回の小野田展の会期中には、関連イベントとしてASA-CHANG&巡礼によるライヴ公演「繁殖絵画論」が披露された。小野田の絵を考えるうえで、こうした感覚の交差を促す側面は、今後、戦後美術の文脈とは異なる受容の拡張を促す可能性を垣間見せてくれるし、小野田の絵はこのような新たな「繁殖」に十分に耐えうる「未来」的な性質を持っているように思われる。

もうひとつ、最後に強調しておきたいのは、小野田の絵がもつこうした世界性、文脈交換的な性質が、にもかかわらず、姫路に根を下ろし、一貫してその場所を前提に制作を継続した、いわばドメスティックな活動に由来するということだ。いや、ドメスティックという言葉が誤解を招くなら、小野田の絵は、徹底してドメスティックであることによって、そのことでドメスティックを超え出て(ビヨンド)いると言えるだろう。その点では、小野田が1974年に姫路の地で立ち上げた美術団体「ネオ・アート」についても申し添えておく必要があるだろう。

 

そもそも「ネオ・アート」とはどのような美術団体なのか。
1987年(昭和62年)発行の『美術手帖 年鑑’87』から抜粋してみる。

ネオ・アート協会
昭和49年12月創立。具体美術協会解散後、姫路に在住する元会員、小野田實の下で育ったメンバーにより、具体美術の火を姫路の地で引き継ぐ決意で同年第1回展を神戸・白山画廊で開催。翌々年、4会場同時使用による第2回展を姫路で、併せて、元永定正、泉茂、小野田實をパネラーに現代美術シンポジュウムを開催。後に吉村益信の提唱に呼応、アーティスト・ユニオン結成に参加、会の活動をユニオンの運動の中に投入の時期を経る。創造行為が絶えず新しく独自なものでなければならないことを至上命令に、個々のメンバーの作品活動を推進しながら、時と場を固定せず、伸縮自在ゲリラ的に展覧会を開催し、今日に至っている。

このようにネオ・アートは、小野田實氏が自分の門下生をメンバーに、姫路で立ち上げたものである。そのコンセプトは「作品は常に新しく、誰も創ったことがないものでなければならない」というものだ。
(氏平源吾「What’s NEO ART」、『ネオ・アート47年の軌跡』ネオ・アート記念誌発行委員会、2021年、4頁、下線筆者)

 

肝心なのは、「創造行為が絶えず新しく独自なものでなければならない」ことや、「時と場を固定せず、伸縮自在ゲリラ的に展覧会を開催」といったネオ・アートによる活動の指針が、小野田が所属していた具体美術協会の基本的なテーゼ(吉原治良)を引き継ぎつつ、そこに小野田ならではの「繁殖絵画」的な自発的な律動性、偶発的な工場の稼働性などが盛り込まれ、姫路の地に芽吹いた、具体とはまた異なる次元の活動へと変異していることだろう。これは、すでにこの連載で何度かにわたって書いてきたように、単にグローバルとも、ローカルとも異なる立場が生み出したものであるように思われる。

おそらくは、こうした「ただならぬドメスティック」な場所性ゆえに、小野田の「私のマル」も、幼い頃の機械や工場への記憶と謎に端を発しながらも、有機的に形を変えながら(最晩年にはマルから最初期のアナ=穴へと再び循環的に推移する)、姫路を苗床に何度でも繰り返され、それこそ新しく未知な接続を可能とする、単に新しい美術の一動向と呼ぶには留まらない、真の意味での「ネオ・アート」たりえたのではないだろうか。

 


「私のマル 小野田實展」は2021年4月10日〜6月20日(日)、姫路市立美術館で開催された(4月25日〜5月11日は新型コロナウイルスによる緊急事態宣言に伴い臨時休館となった)。

 


筆者近況:2021年9月12日(日)、川崎市岡本太郎美術館での企画展「太郎写真曼陀羅 ―ホンマタカシが選んだ !! 岡本太郎の眼―」の関連イベント「対談 ホンマタカシ×椹木野衣」に登壇予定。

 

Copyrighted Image