椹木野衣 美術と時評109:白い夜 須藤康花と北限の絵

連載目次


須藤康花「願望」2006年頃、油彩・麻布、53.0 × 65.0 cm 図版提供:松本市美術館(以降、須藤関連は全て)

 

長野県、松本市美術館で開催中の「須藤康花 光と闇の記憶」展に衝撃を受けた。須藤の絵は初めて見たが、なにより驚かされたのは、この世の楽園のようなひと時と地獄の様相がひとりの画家のなかで驚くほど自然に共存していることだ。ここまで乖離した現実は戦争や災害でもない限りあからさまになることはない。けれども須藤は戦争を経験したわけでも災害で被災したわけでもない。長く病魔と併走してきたということはあるだろう。結局それが彼女の命をわずか30歳で奪うことにもなった。だが、それを単に「夭折」というのは違う気がする。彼女にとっての病は戦争や災害による死とは根本的に違うからだ。戦争や災害は一瞬にして暮らしを奪い、すべてを一変させてしまう。だが病は暮らしにしつこく付き纏い、静まったかと思うとひょっこり顔を出し、その時々の顔つきでその者の人生に終始影を落とす。だから須藤の絵がどんなに極端な二面性を持っていたとしても、それは彼女の普段の暮らしとともにあった。

そもそも、須藤の暮らしが彼女の絵に表されているような極端な二面性を持っていたとしたら、人は通常、そのような険しい起伏に耐えることはできない。けれども、絵であればその両面を表出することも可能だ。絵は物質であり生命ではなく、画家の手を離れて存在する。わたしが想像するに、この二面性は須藤のなかで分離していたわけではなく、同じ場所に同じくらいの強度で入り混じっていた。人間の内面に現実の世界のような面積や体積はなく、絵のように物理的に分離することは不可能だからだ。しかし一枚ごとの絵であればそれも不可能ではない。思うに須藤の画業はこの分離の力に注がれていたのではないか。それなら両者が極端に異なる様相を呈することも理解できる。分離するには集積が必須だからだ。本展でかりそめに「光」と「闇」と二元的に呼ばれているものがそれにあたる。しかし肝心なのは、この二面がもとは異なる二つの世界では決してないということだ。どんなに安息を感じている時でも魔物は彼女のすぐそばにいた。逆に魔物がすべてを支配しているようでも、わずかの光は差し込んでいた。そうでなければ病魔も巣食う相手を認識できない。

 


「須藤康花 ―光と闇の記憶―」展会場風景、松本市美術館、2024年

 

いま、わたしの手元にあるのは会場で買い求めたカタログと展示室で撮影した写真、あとは須藤の絵をめぐる自分の記憶だけだ。もっとも、展覧会でもっとも大きな意味を持つのは記録でも写真でもない。その絵を見たことで自分の中に沈み込んだ印象であり記憶だ。記録や写真はそれらの印象や記憶が熱源を失わぬように当面は保温し、相応の時が経ってからは失われたかのような記憶の底から引き出すための引き金にすぎない(近年の展覧会での写真撮影の自由化はこの点で撮影が目的化し本来の意味を失っている)。だからここでは、須藤について展覧会の印象から離れて詳細に調べたりすることはせず(調査と批評の違いについては以前にも書いた)、限られた材料だけからこの文章を成り立たせてみたい。そのために時に過度に主観的にもなるかもしれないが、そうした飛躍に賭けるのも批評というものだろう。それで言うと、わたしが最初にこの画家の絵に極めて強い吸引力を感じたのは、冒頭の部屋に小さく飾られた初期作品からだった。展覧会では第1章「幼少期 穏やかな日常」にあたる。しかしそれは必ずしも「幼少期」でも「穏やか」でもなかった気がしてならない。

 


須藤康花「康花とキツネ」1988年頃、水彩・紙、54.0 × 38.0 cm

 

確かに、10歳から12歳頃にかけて描かれた水彩画は、技巧的にはまだ未熟で、画題も素朴といえばそれ以上のものではない。にもかかわらずわたしには、これらのごく初期作品のなかに、すでにのちの須藤の絵を予告しつつ先取りするものを感じる。おそらくこの頃は天国と地獄(光と闇)の分離がうまくできていなかったのだろう。だがその分、この画家の生涯変わらぬ資質のようなものは、かえってよりはっきりと出ているように思うのだ。たとえば「康花とキツネ」(1988年頃)は、どこか民話のような趣を持ち、原作のある絵本の1頁のように見える。「康花と」というのだから少女は自分だとして、隣でうしろを向いて手を振る帽子の女性は母親だろうか。女の子は顔に笑みを浮かべ、赤い花模様の羽織りのようなものを着て長靴を履いている。長靴なのは言うまでもなく雪山だからだ。それにしてもこのキツネの数はいったいなんだろう。「と」というより群れに囲まれたと言ってよい。そんな目でじっとこの絵を眺めていると、最初の微笑ましい印象が疑わしく感じられてくる。空は晴れているが夜のようでもあり、そうなら太陽のように見えるのは満月で、雪景色が光っているように見えるのは月明かりのせいかもしれない。そして背後の枯れ木は嵐に翻弄されるように騒がしく方々に枝を伸ばしている。

 


左:須藤康花「北海道・赤トンボ」1989年頃、水彩・紙、54.0 × 38.0 cm
右:須藤康花「ヒマワリととんぼ」1990年頃、水彩・紙、54.0 × 38.0 cm

 

同様の印象の逆転は「北海道・赤トンボ」(1989年頃)、「ヒマワリととんぼ」(1990年頃)でも起きる。一見しては綺麗というしかない景色だ。一方では赤トンボがたわわに実った稲穂の上を群れ飛び、他方では一面のヒマワリ畑の中を男の子と女の子が虫網でトンボ捕りに興じている。二枚の絵は制作年が一年違っているけれども、地形や様子から見て同じ場所だろう。だが季節は微妙に違っている。実っているのが稲穂なら赤トンボの絵は秋の収穫期だろうし、ヒマワリ畑なら言うまでもなく夏だろう。共通しているのは双方ともに夕暮れを描いているらしいことだ。それは山の向こうがもうすぐ沈む太陽の反映で赤く焼けていることに見て取れる。ということは、この二様の景色にはまもなく夜の帳が降りる。そのあとに訪れるのは闇だ。北海道ということなら、日が暮れれば夏でも遠からず訪れる厳しい冬の到来を予感させるものがあるだろう。そうなれば群れをなす赤トンボもヒマワリもすべて死滅する。だからこの2枚の絵は、どんなに楽園のように賑やかでも、どこかで絶滅の予感を漂わせている。だからこそ、たんに綺麗というのでもなく、純朴というのでもなく、この時だけを燃え盛る生=死の予感をかえって掻き立てるのだ。死の予感ということで言えば、須藤は2歳の時に弟を失い、同じ年の冬にネフローゼ症候群を患い、入退院を繰り返すようになる。さらに「康花とキツネ」で描かれた帽子の女性が母親だとしたら、この時点ではまだ元気そうでも、彼女が15歳の夏には病で死別することになる。それなら、真夏のヒマワリ畑でトンボ捕りに興じる男の子と女の子は、あるいは先立たれた弟と自分の投影だろうか。このように、須藤の絵は、どんな時でもやがて訪れる闇=死の予感がしのばれる。しかし肝心なのは、その闇の先に見え隠れするものなのだ。

 


須藤康花「ガン」2007年頃、鉛筆・紙、16.0 × 23.0 cm

 

ところで、これらの絵をわたしは須藤が北海道に住んだ頃のことを前提に書いている。が、須藤は父親の仕事に沿って日本の各所に移り住んだ。生まれてまもなく横須賀に越しているが、その後の小中高時代は札幌で過ごしている。先の3枚の絵はその頃に描かれた。だが、須藤は母が肝臓ガンで亡くなる年の3月に同じ臓器から慢性肝炎を発症し、それがのちに母親と同じく彼女の命を奪うガンの巣となった。その後、須藤は沼津に移り本格的に絵を学ぶ。さらに東京に越して美術予備校に籍を置いたあと、2001年、23歳の時に多摩美術大学に入学する。わたしはそのときすでに多摩美大で教鞭をとっており、入学すると一年生で所属する学科と関係なく多くの学生が履修する講義を現在に至るまで受け持っている。だから、須藤もあるいはわたしの講義をとっていたかもしれないが、人数が多く須藤の名前に記憶はない。だが、そうでなくても、学内のどこかですれ違っていた可能性はある。

しかし、そんなことよりも、わたしが須藤により強く近しいものを感じたのは、彼女の生まれが福島県の大熊町であったことだ。大熊町については、本連載でも何度かにわたり、わたしたちが実行委員会形式をとって2015年から現在まで昼夜を問わず継続している“見に行くことができない展覧会”「Don’t Follow the Wind」の会場でもある可能性について触れてきた。大熊町は、2011年の東京電力福島第一原子力発電所のメルトダウン事故で放出された放射性物質による大規模な汚染で立ち入りを厳しく制限されている帰還困難区域を多く抱える。そしてこの展覧会の会場は、同じ帰還困難区域を多く残す双葉町や浪江町などに限って非公開のまま設定されている。だからこそ“見に行くことができない”のだが、かつて須藤が生まれた生家は大熊町のどこで、いまその場所の避難指示や立ち入り制限はどうなっているのだろう。この展覧会と同様、やはり“見に行くことができない故郷”なのだろうか。こうしてわたしは須藤の「生まれ故郷」にも強い関心を寄せることになった。

 


1985年(7歳)  母と

 

もっとも、須藤は生まれてまもなく大熊町を離れているから、生まれ故郷としての大熊町についての記憶はまったくないと考えられる。にもかかわらず、あえてわたしがここで大熊町の名前を出したのは、展覧会の図録に須藤が父親、母親と従弟と4人で仲良く手を繋いで生まれ故郷の野の道を歩く姿が写真で小さく収められていたからだ。この写真のキャプションには1983年(5歳頃)とあるから、そこそこの記憶もあるだろう。須藤家と大熊町との縁については知るよしもないが、従弟も連れて訪ねるなら親戚くらいは残っていたのかもしれない。服装から考えて夏(夏休み?)であることもまちがいなさそうだ。それこそひまわり畑で虫捕りでも一緒にしそうな仲の良さそうな姉と従弟だ。たった一枚の写真の景色はどこにでもありそうな田舎の様子だけれども、ひとたびこの風景が大熊町ということがわかると、わたしはどうしても自分が何度となく入域の申請をして防護服に身を包んで立ち入った帰還困難区域の景色を重ね描いてしまう。もちろんそうではない可能性もある。けれどもその恐れもなくはない。この4人がかつて歩いたこの道は、2011年に起きた過酷な核災害を経て、いまはどのような様子なのだろうか。

そんなことからわたしは、先に触れた3枚の絵が北海道の時代に描かれたとわかっていても、どうしてもそこに大熊町の景色を重ねずにはいられない。赤トンボもヒマワリも、わたしは放射性物質で汚染され、特別に申請を出して入域をした帰還困難区域の中で何度も見た気がした。しかしヒマワリのように見えたのは、実は被災後に無人となった耕作放棄地を占拠したセイタカアワダチソウの群れだった。赤トンボも稲作での水耕のサイクルと四季の生態が一致しているので、ほとんどいなくなったと聞く。すると、赤トンボもヒマワリも錯覚だったのだろうか。まるでキツネに化かされたようだ。大熊町は、太平洋に面した浜通りであることから雪こそほとんど降らないけれども、言われてみればキツネの伝承はある。それはこんな話だ。少し長いが大熊町とキツネとの繋がりを示したい。

 

金谷の森にはきつねが住んでいました。いや今でも住んでいるのです。このきつね、人を馬鹿にすることが上手で、何人もばかにされました。

金谷の森は昼なお暗い所です。その真ん中に一本の道が通っていて、里の人はどうしてもこの道を通らなければなりません。星の出ている晩上を仰ぐと一すじの空が見えるのですが、真っ暗な晩など村人でも通るのが大へんな所です。この森にすむきつねが、人をばかにするのです。

寒い寒い師走の晩でした。治郎助はどうしてもこの道を通らなければなりません。きつねなどへえちゃらだ。でてきたらこの縄で首をしめてやるぞとぶつぶついいながら一本道を進みました。

森の中程まで来ると道はなくなってしまいました。こんなはずはないと思ってもさっぱりわかりません。彼は困ってじっと立ちすくんでいました。すると向うに一点の赤い火が見えました。あそこへ行けば何とかなるだろうと思ってずんずん進んでも一向火の近くには行けません。時々木の切株につまづいて転んでしまいます。治郎助は途方にくれてしまいました。そのくらやみの中に女の声が聞こえて来ました。

「治郎助さん、さぞお困りでしょう。」

「あなたはどなた。」

「あら、お忘れになったの、それいつか一しょに酒を呑んだ女。思い出したでしょ。」

治郎助は思い出せなかったが、「ああわかった。わかった。よく助けてくれた。ありがとう、又のみにゆくよ。」

「ほんとね。では私についてらっしゃい。」

といって森を出ました。すると一軒の家がありました。火が赤々ともえていました。

疲れと安心で治郎助は眠ってしまいました。

あしたの朝、目をさましてみてびっくりしました。家と思ったのは土手の中で、そこは焼場(火葬場)でした。焼けたワラ火が赤く輝いていました。

——『民話 野がみの里 大熊町民話シリーズ第2号』より 第11話「金谷きつね」(下野上)

 

この民話がなにを伝えようとしているかなどということを考えてはならない。ここではただ、須藤による「康花とキツネ」という絵が、北海道時代に描かれたにもかかわらず、彼女が多少は物心がついてからも訪ねたであろう大熊町に根ざした民話と、どこかで繋がっているようにわたしが感じたということだ。事実、あの絵に描かれたキツネたちは、須藤とその母親には楽しげな児童たちにでも見えていたかのようではないか。そう言われて改めて見てみれば、キツネは怪しげな表情で、ジャレ合う姿は親子をからかっているようにも見える。しかも大熊町の民話では、キツネが誘った森を抜ける道は、実は赤い火の灯る火葬場へと向かう道でもあったのだ。

 


福島第一原子力発電所3号機原子炉建屋 爆発後の外観(2011年3月15日) 出典:東京電力ホールディングス

 

須藤がどこかで抱えていたであろう原風景としての大熊町について、わたしが考えてみたいと思った理由はほかにもある。須藤が生まれた1978年とは大熊町にとってどのような年だったろうか。大熊町では東日本大震災の直後に原子炉建屋四つのうち三つが水素爆発している(メルトダウンは3基)。そのうち最後に崩落した4号機が営業運転を始めたのが、実は須藤が生まれた1978年なのだ。町は新しい原発の開業におそらく活気だっていただろう。須藤が生まれたのはその年の9月15日で、4号機の営業運転が始まったのが10月の12日だから、当時の町はそのような様子であったと想像できる。にもかかわらず、どういう事情かはわからないけれども、須藤はその直前に生まれ故郷を去ることになった。もしも須藤が2011年に生きていたら、大熊町が放射能で汚染されていく様を知って、どのように感じただろうか。というよりも、のちに触れる須藤が遺した多くの絵のうち地獄の様相を呈しているものは、具体的に核燃料ではないにせよ、なにか風景そのものが溶融=メルトダウンしたかに見えるものが数多く存在する(たとえば「シュール」「自由へ」[ともに2000年頃]、「抱懐」[2007年頃])。それは批評家であるわたしに残されたわずかな展覧会の印象から恣意的に導かれたものに違いはないだろう。だが、そんな目で見る時、冒頭で触れた3枚の絵が、いまわたしたちが置かれた場所から限りなく遠い、永遠と呼んでしまいたくなるほど絶望的に失われた景色に見えてくるのだ。

 


須藤康花「抱懐」2007年頃、銅版・紙、45.0 × 100.0 cm

 

ところで、いささか唐突だが、わたしは松本で見た須藤の展覧会と並行して、たまたま一冊の本を読んでいた。それは、エスキモーに伝わる古事(ふるごと)についてまとめた画文集(正しくは写真と文)だったのだが、わたしはいつのまにか両者を混じり合わせて展示を体験していることに気づいた。というのも、その本のなかに世界への光と闇の到来やさまざまな動物たちについての記述があったからだ。この世界にはなぜ昼と夜という両極端が代わる代わるに訪れるのか。天体物理学的に説明されても、頭ではわかっても、日々繰り返される実体感とはどこかが違っている。そのことについて、この本では次のような説明がされている。

 

広大な海の岸辺が縁取るわが故郷、ここには未踏の領域が残されている。
そしてこの地は、あなたの想像も及ばぬような秘めごとを、その懐に抱いているのだ。
ここで私たちは、二つの異なる生活を営んでいる。夏には暖かな太陽の光のもとで、そして冬には醜悪な北風に吹かれて。
しかしながら、闇と寒さこそが、じつに私たちを想像の世界へといざなうのである。
長い闇の帳(とばり)がこの地を覆うとき、隠されていた多くのことが立ち現われ、わたしたちの思考は複雑怪奇な旅に漂い出るのだ。

——『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事』八木清(編訳・写真)、閑人堂、2024年、8頁

 


八木清(編訳・写真)『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事』

 

ここで伝えられているのは、極北の地では、その生活の下地にある闇と寒さこそが、温暖な地に住む者よりも遥かに人間の持つ想像力を掻き立て、そのような暮らしが「複雑怪奇」と呼ぶしかない「旅」を招き寄せるということだ。それゆえに、暖かな夏と醜悪な冬とのあいだには驚くべき対照がもたらされる。だが、両者は決して対立しているのではない。それは北限では「二つの異なる(ひとつの)生活」の営みなのだ。須藤が長く北海道で育ったことも少しはこの連想に加担しているかもしれない。だが、須藤が人生のほとんどすべてを病という冬の季節のなかで生きたことを思うとき、彼女の絵は基本的に病をめぐる「北限の絵」という気がわたしにはする。そしてこの北限の絵は、闇であるはずなのに夜が訪れない「白夜」の絵でもあるのだ。

 


須藤康花「白夜」2005年頃、銅版・紙、60.0 × 99.0 cm

 

だから、須藤の絵にはどんなに闇に塗り込められそうな絵でも、どこかには必ず光の兆しが介在している。そしてわたしは思うのだが、須藤が札幌でキリスト教系の高校に籍を置き、そこで聖書に触れた経験を持つにもかかわらず、彼女の絵に反映された「光と闇」は、キリスト教的な二面への分離に基づくものではなく、北方の古事に反映されるような「白い夜」という矛盾を内包する絵であるように感じる。たとえば先に引用した八木の本に出てくる「ノウサギが世界に光を灯した話」が持つ質感は、世界に光をもたらしたのが人でも神でもなく、生きるための必要に駆られた動物であることにおいて、聖書に出てくる「無から」と名付けられた偉大な世界の創造よりも、ずっと須藤の描く世界に近いように感じられる。

 

はじめは、地上に光がなかった。
大地も見えず、生き物の姿も見えず、すべてが闇に包まれていたのだ。
それでも、世界には人や動物が暮らしていたが、彼らのあいだに違いはなかった。人間が動物になったり、動物が人間になったりするような、混沌たるありようだった。オオカミや、クマや、キツネがいたが、彼らは人間になったとたんに、みな同じ姿になってしまったのである。習性は異なれど、彼らには共通した言葉があり、同じような家に住み、同じように話し、同じように狩りをしていた。

原初の時代、このようにして、みなこの世界に生きていた。いまとなっては、誰にも理解できない時代である。それは、魔法の言葉が生まれた時代だった。ふと口にした言葉が、突如として魔力を持ち、望んだことが本当に起きたりもした。だが、なぜそうなるのか、誰にも説明できなかった。

あるときは人間だったり、またあるときは動物だったりして、生き物に区別がなく、みなが乱れ合うように生きていた時代にあったキツネやノウサギの話が、いまに伝えられている。

「闇よ、闇よ、暗闇よ」と、キツネが言った。
人間の貯蔵庫へ忍び込むには、暗闇の中が好都合であるからだった。

「光よ、光よ、昼の光よ」と、ノウサギが言った。
草を食べる場所をさがすには、日の光が必要だったからだ。

すると、突然ノウサギの願いが叶ったのである。ノウサギの放った言葉には、最も強い魔法の力が秘められていたからだった。
昼が夜にとって代わり、夜が去ると、昼が再び訪れた。

光と闇が、代わる代わるにやって来るようになったのだ。

——前掲書、10-11頁

 

ここには、須藤の絵を見るうえで大切な手がかりが凝集しているようにわたしには感じられてならない。いっそわたしには、このノウサギこそが須藤なのではないか、とさえ思われる。まず、世界の基底には闇(病と死別)があるということ。動物にも人間にも変化する生き物の必要に駆られて、突如として昼が訪れたという魔法。それ以降は交互に昼と闇が訪れるようになったという、始まり(開闢)も終わり(終末)もない繰り返し。

 


須藤康花「蛙の夢」2006年頃、油彩・麻布、53.0 × 65.0 cm

 


須藤康花「12歳の自画像」1991年頃、油彩・麻布、40.0 × 31.0 cm

 

動物——それで言えば須藤は絵のなかでしばしば蝦蟇(ガマ)となって、その目を借りて世界を見渡した(「蛙の夢」[2006年頃])。しかし別の時には人の目に還って、世界を優しく見つめた(「12歳の自画像」[1991年頃])。かつて画家の藤田嗣治は、出征する兵士に密かに帰還の希望を託して、寄せ書きに蛙の絵を即席で描き、決して口に出してはいけない「(戦地から)帰る」という言葉を一種の暗号で伝えた。須藤の蛙はなぜ蛙なのかを考えるとき、わたしはそこに藤田の所作に近いものを感じる。「蛙は帰る」でもあるのだ。けれどもいったいどこに? それこそがエスキモーの古事に伝わる「原初の世界」なのではないか。そこは「いまとなっては、誰にも理解できない時代」だが、「魔法の言葉が生まれた時代」でもあった。「ふと口にした言葉が、突如として魔力を持ち、望んだことが本当に起きたりもした」けれども、「なぜそうなるのか、誰にも説明できない」世界でもあった。また、「あるときは人間」で、「またあるときは動物」で、「生き物に区別がない」時代でもあった。須藤の絵を見ていると、彼女は「光と闇が、代わる代わるにやって来るように」、両者が激しい対照を繰り返す「白い夜」の世界を描くことで、常にそこへと「帰ろう」とした。

 


須藤康花「畑から見た秋」2008年頃、水彩・紙、19.0 × 26.0 cm

 

忘れてならないのは、須藤が帰ろうとした世界の絵が、死と密接に結びついていたことだ。死は彼女の生涯に絶え間なく付き纏い、本人を闇へと引きずり込もうとした。けれども、ノウサギが草を食べる必要に駆られてふと独り言を言ったように、須藤もまた、その闇を押し除けるように、昼の世界の温かみと美しさをときに描いた。2001年から父と農業を始めた長野県麻績(おみ)村で畑仕事に精を出しながら描かれた水彩による自然の景色は、その最たるものだろう。ある意味、これらの絵で須藤は冒頭で触れた最初期の風景に戻っている。しかし、それらの絵にすでに死の予感が充満していたように、麻績村の絵もまた、その行き先には、すべての生き物が永劫に帰り続けるしかないあの赤い夕焼けの彼岸が控えている(「最果て」[2006年頃])。

 


須藤康花「最果て」2006年頃、油彩・麻布、73.0 × 91.0 cm

 

ところで、死とは実は記憶でもある。なぜなら、死とは昼と夜が繰り返されるように、必ずしも生のあとだけに控えるものではないからだ。よく考えてみてほしい。死はわたしたちがこの世界に産み落とされる「前」の世界でもあるのだ。死後、とわたしたちはとかく口にする。けれども、死とは生前に「帰る」ことでもあるのだ。須藤はそのような世界に、生涯をかけて、絵を通じて「帰り」続けた。決して難解な絵ではない。須藤の絵はわたしたちが生まれる前の世界に生きながら絶えず帰ろうとする死のノスタルジアに満ちている。

 


「須藤康花 ―光と闇の記憶―」展は、2023年12月9日(土)から 2024年3月24日(日)まで、松本市美術館で開催。また松本市内には、須藤の父・正親氏によって設立された康花美術館もある。

 

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