椹木野衣 美術と時評107:「スヌーピーのいる部屋」― 西野逹「ハチ公の部屋」を反転する

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西野達「ハチ公の部屋」2023年 ハチ公広場、渋谷、東京
Photo by 88PROJECTS/Jiroh Fujimura ©︎Tatzu Nishi Courtesy of 88PROJECTS

 

この連載で前回、渋谷駅の銅像彫刻「ハチ公像」について取り上げたところ、その後になって「第15回渋谷芸術祭2023〜SHIBUYA ART SCRAMBLE〜」の最終日、11月12日に美術家、西野逹による “忠犬ハチ公像”を24時間だけ活用したアート・プロジェクト「ハチ公の部屋」が開催されることを知った。すでに触れたとおり、ハチ公は今年で生誕100年を迎える。その記念すべき年に「ハチ公像」が西野の手により「アート化」されるのは、またとない機会と言える。そんなこともあり、続編というわけではないのだが、いわば番外編というかたちで、今回も引き続き「ハチ公像」の変容について取り上げることにした。実際、前回も末尾で「ハチ公像」の複数性、複製性について扱ったばかりだったのも具合がいい。また、わたしが多摩美術大学で受け持つゼミナールで、学生たちとの議論の題材に西野によるこのハチ公像の変容を提示し、実際に見学をしてきた学生から発表をしてもらい、皆から意見を募ったところ、様々な解釈の余地が浮かび上がってきたこともある。

現物の「ハチ公像」の台座部分を覆い、周囲を含む一角を前面だけが開放された部屋状の箱で囲むことで成り立つ今回のプロジェクトは、第一には公共彫刻であるハチ公像を「室内化」することをもくろんでいる。もっとも、ひときわ人気が高く、渋谷のシンボルでもある「ハチ公像」を、たとえ一日とはいえ完全に室内化する(ましてや西野の得意技である宿泊施設化する!)のは難しかったようで、その点でこれまでの西野のプロジェクトとの違いはある。しかし、天井と床を含む左右と背面からなる三方を壁で囲まれた「ハチ公像」は、その視認性を正面に限定し、その場に立った者だけが「ハチ公像」と「対面」できる点で、公共彫刻のままにして私的体験の所有性を著しく高めていた。実際、この「ハチ公像」の変容により、一日だけの限定のうえ日曜日ということもあって、「ハチ公像」の前には“プライベート”な記念撮影のための長蛇の列ができ、順番が回ってくるまでに30分はかかったという。

とはいえ、ゼミナールで学生が発表した写真を見てわたしが最初に感じたのは、「ハチ公像」そのものの物理的変容よりも、なぜハチ公のいる部屋が和室ではなく洋室なのか、ということだった。ちなみに、西野による今回のプロジェクトについての言葉は次のようになっている。

 

ハチ公の銅像は1934年から渋谷駅前にあります。約90年も雨の日も雪の日も、座り続けているわけです。部屋を建てることにより、「ハチ公」に室内で休んでもらおう。「お疲れ様」というふうに生誕100年に繋がる作品となっていますが、アート的な主題は俺の他の作品全てそうなんですが、“人間の想像力の拡張”なのです。(*1)

 

ここで西野は、生誕100の年に「ハチ公像」を自分のアートの素材として扱うことの公的な理由を「100年お疲れ様」と設定しつつも、同時にそこに「人間の想像力の拡張」というみずからの作品に通底する主題が想定されていることを明示する。つまり今回のプロジェクトは、公的な想定内と私的な想定外を同時に進めることで意味をなす。このことを念頭に、ゼミナールでは本プロジェクトの視覚的性質をもとに想像力の拡張を極限まで試みることにした。そこから出てきたのが、先の疑問︎——すなわちこの「ハチ公の部屋」はいったい「誰」の部屋なのか? という設定だった。

 


西野達「ハチ公計画」2009年、紙にアクリル、H65 x W100 cm ©︎Tatzu Nishi Courtesy of ANOMALY

 

まず、当たり前すぎて気がつきにくいかもしれないが、西野による「ハチ公の部屋」は「ハチ公の(所持する、もしくは住む)部屋」ではない。ひとつひとつの要素を見る限り、部屋を構成する家具はすべて人間のためのものであって、犬用に作られたものは(水飲み用の器?を除いては)ない。むろん、人間用のものを犬が使って悪いことはないのだが、床に置かれたスリッパやさりげなく置かれた雑誌や書籍を見る限り、この部屋に「ハチ公像」とは別の人間の気配があるのはあきらかだ。つまり「ハチ公の部屋」は「誰」かの部屋でもあるのだ。そこでゼミナールでは最初に学生たちと「この部屋はいったい誰の部屋なのか?」について話し合うことにした。

 


西野達「ハチ公の部屋」壁紙
Photo by 88PROJECTS/Jiroh Fujimura ©︎Tatzu Nishi Courtesy of 88PROJECTS

 

最初の手がかりとなったのは、壁紙である。そこで壁紙を拡大してみたところ、4つのイラストの模様からなるパターンであることがわかった。ひとつはもとの飼い主であった上野教授の肖像、もうひとつはその上野教授をハチ公が毎日迎えに行った1923年当時の渋谷駅、そしてもうひとつは、前回も触れたが戦中に軍事利用のための供出(金属類回収令)のために撤去された「ハチ公像」を戦後に再建する際、もとの銅像の作者であった彫刻家、安藤照の息子、安藤士が、すでに空襲で亡くなっていた父親に「詫び」を入れたうえで溶解し原材料とした銅像彫刻「大空に」(照の代表作)の図像である。そして、これら三つからなる自分の由来に深くちなんだ図像を、低い足の寝台のうえでくつろぐハチが、こちらに背を向けて眺めながら(100年を回顧しながら?)佇む、というのが最後の図像である。

しかし、ハチが生まれたのは大正期だ。なぜその佇む場所が庭や土間か、そうでなくても座敷に敷いた布団ではなく寝台なのか。これについては、秋田の大館から20時間を費やして渋谷へと運ばれてきたハチは、生まれて間もなく体力を消耗してひどく疲労していたのを、上野教授が自分の寝台で休ませたというエピソードにちなむものらしい。なるほどハイカラな時代の東大の教授であれば寝台というのも納得がいく。

では、この部屋は上野教授のものなのだろうか︎——いや、それも違う。仮に上野教授の好みが洋風趣味であったとしても、さりげなく部屋に置かれたファッション/デザイン系の雑誌(公開されたメイキング映像で確認したところ一冊は『Casa BRUTUS』(*2)であることがわかった)と、二冊の本のうち(雑誌も本もいずれも表紙が伏されていて詳細は不明だが)一冊は開運祈願に、もう一冊は健康向上にまつわるもので、健康に不安を抱えていた上野教授が枕元で読むにしてもあまりに現代風で軽すぎる。

 


西野達「ハチ公の部屋」2023年 ハチ公広場、渋谷、東京
Photo by 88PROJECTS/Jiroh Fujimura ©︎Tatzu Nishi Courtesy of 88PROJECTS

 

次の手がかりとなったのは、「ハチ公の部屋」の家具やしつらえが、どこかファンシーに感じられることであった。これがどこから来るものなのかについて意見を求めたところ、「ハチ公の部屋」の家具を提供しているのが、通販事業で知られるベルメゾン(*3)であることがわかった。ハチ公とベルメゾン? 両者にどのような接点があるのだろう。あの西野のことだから、たまたま提供された家具をそのまま受け入れたとは考えにくい。確かにベルメゾンは西野の言うとおり「ごくありふれたリビングルームやベッドルーム」を構成するのにはうってつけの商品を提供している。だが、西野の言うとおり、ここは「想像力を拡張する」ための機会なのだ。もっと先に進まなければならない。

まず考えたいのは、ベルメゾンの家具類は、わたしたちにとっては確かに「ごくありふれたもの」かもしれない。だが、はたしてハチ公にとってはどうだろう。なにせハチ公は大正時代の犬なのだ。では逆に考えてみたらどうだろう。ベルメゾンの家具からなる部屋が似合うような犬とはいったいどのような犬だろうか? 気になってベルメゾンのホームページ(*4)に飛んだところ、メニュー画面の下方に「ディズニー」、ついで「キャラクター」があるのがわかった。そこでこのキャラクターを開いてみたところ、ムーミンやドラえもんに先んじてトップにいるではないか。アメリカ生まれの犬の人気キャラクター「スヌーピー」である。

それならとばかりにさらに「想像力を拡張」し、サイトを開いていったところ、スヌーピーがベッドでくつろぐ商品イメージや、スヌーピーが青い表紙デザインの本(「ハチ公の部屋」の本も一冊は表紙が青かった) を読む場面をあしらったアップリケ(*5)が見つかった。ということは、この部屋の住人はもしかするとアメリカ人、もしくはそれに憧れる日本人(ベルメゾンの商品イメージからすると後者の可能性が高い)で、普段から健康や運勢に気を使い、軽めのカルチャー・マガジンを日頃からベッドルームで愛読しているスヌーピー・ファンの女性なのではないだろうか。

なぜ女性なのか。壁紙の色やいくぶんかファンシーな家具の趣味からだけでそうとはむろん言えない。言うまでもなくそのような趣味の者は他にもいるからだ。それでもなお女性と推察するのは、ベルメゾンの事業主体である株式会社千趣会そのものが、みずから「ウーマン スマイル カンパニー」を企業ビジョンに掲げ、「当社は創業以来、常に女性のことを考え、女性に寄り添って活動してまいりました」とうたい、さらに「千趣会は、就職や結婚、出産、子育て、自分磨きなど、女性の一生のさまざまなライフステージに寄り添い、お客様を笑顔にする商品とサービスを提供してまいります」(棒線筆者)と明記しているからだ(*6)

すると、西野が仕立てた「ハチ公の部屋」は、日本の女性の部屋ということになる。いったいいつからハチ公の飼い主が女性に? しかし飼い犬がいささか「ゴツい」ハチ公ではなく、ファンシーで愛すべきスヌーピーだとしたらどうだろう? あの部屋のしつらえはハチ公像ではなく、スヌーピーにこそふさわしく感じられはしないか。実際、ベルメゾンがキャラクター商品の真っ先に置くことからもわかるとおり、平和を掲げ、高度成長した日本の戦後社会で急成長していくキャラクター・ビジネスで、もっとも成功した犬がスヌーピーであると言っても過言ではないだろう。もしそうだとしたら、スヌーピーがくつろぐのがぴったりの、いわば「スヌーピーの部屋」で、「ハチ公像」ははたして「100年お疲れ様」とゆっくり寛げているのだろうか。いやいや、それが寛げているかもしれないのだ。

というのも、確かにハチ公そのものは生誕100年かもしれない。しかし「ハチ公像」が完成したのは1934年のことで、しかもこの初代は先に触れたとおり戦時中に供出され溶かされてしまった。いま渋谷駅前に設置された「ハチ公像」はそれとは別物で、1948年に完成している。つまり二代目「ハチ公像」は戦後の民主主義社会の申し子なのだ。それなら“忠犬”であることよりも、(飼い犬ではあっても)自由を愛する性格になったとしてもおかしくない。しかも二代目ハチ公像再建にあたっては、当初GHQが動いたという一説も存在する。

 


西野達「ハチ公の部屋」2023年 ハチ公広場、渋谷、東京
Photo by 88PROJECTS/Jiroh Fujimura ©︎Tatzu Nishi Courtesy of 88PROJECTS

 

このように考えると、西野の「ハチ公の部屋」は、見た目よりもずっと複雑な構図を抱えていることになる。つまり、封建主義に変わって戦勝国=アメリカの価値観を絶対的なものとし、経済成長に邁進してきた敗戦国の国民が、アメリカの愛すべき飼い犬=スヌーピーを好む「ありきたりの」世界観を経て生まれた西野のプロジェクトは、いわば反転した“忠犬”ハチ公の自画像であると同時に、実はわたしたち一人ひとりの肖像の反映でもあるのだ。そして、今回のプロジェクトでわたしたちは寝台でくつろぐハチ公像を見ているようでいて、実際にはハチ公からの視線に晒されてもいる。そして、その室内化した「ハチ公像」の視線から見えるものはいったいなんだろう。二代目として再建されて以降、刻々と移り変わる渋谷駅をひたすら休むことなく見つめてきた、それこそ「”忠犬“ハチ公の風景」なのではなかったか。そして、その「ハチ公の風景」を眼前の迎える「ハチ公の部屋」の壁には、過ぎ去った日本を慰霊するための「ハチ公(ハチ公像ではなく)」を囲む、かつての日本人たちの姿が、まるで遺影のようにそこだけモノクロームとなって掲げられている。

付記・今回の原稿の内容は、多摩美美術大学・現代美術ゼミでの発表とやりとりから多くを得ている。ゼミ生たちの積極的な発言に感謝する。

 

*「ハチ公の部屋」は「第15回渋谷芸術祭2023〜SHIBUYA ART SCRAMBLE〜」のプログラムとして、2023年11月12日朝8時から夜22時まで無料公開された。
http://shibuyaartscramble.tokyo/

 


1. Casa BRUTUS【速報】渋谷に本日限定《ハチ公の部屋》が登場! 西野逹が語る”人間の想像力の拡張”とは?
https://casabrutus.com/categories/art/383142
2. Casa BRUTUS 西野逹《ハチ公の部屋》ができるまで(東京・渋谷)。2023年11月12日未明からシューティング。
https://youtu.be/6OObARl0ixU
3. 渋谷のシンボル”忠犬ハチ公“生誕100周年を記念! モニュメントアート「ハチ公の部屋」へ協賛
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000169.000013288.html
4. ベルメゾンネット
https://www.bellemaison.jp
5. ベルメゾンネット(ウェブサイト)商品紹介ページ
https://www.bellemaison.jp/shop/commodity/0000/1236996?SHNCRTTKKRO_KBN=CT&CLICKLOG=27
6. 「トップメッセージ」株式会社 千趣会ウェブサイト
https://www.senshukai.co.jp/main/top/about/message.html

 


筆者近況:

  • 『読売新聞』12月19日付朝刊に今年の「展覧会ベスト4」を寄せた。
    • ・「顕神の夢」(福岡・久留米市美術館、川崎市岡本太郎美術館ほか3館)
    • ・「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃」(東京・アーティゾン美術館)
    • ・「宇川直宏展 FINAL MEDIA THERAPIST @DOMMUNE」(東京・練馬区立美術館)
    • ・「生誕120年 棟方志功展」(富山県美術館、青森県立美術館、東京国立近代美術館)
  • 『朝日新聞』土曜朝刊・読書面に書評を連載中(ウェブサイト『好書好日』でも公開中)。

 

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