チェ・ゴウン《Torso》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
マゾヒスティック・スクリーン・リフレクション
文 / 長谷川新
広大な京東市場(キョンドン・シジャン)、通りの両側は商店が等間隔に構えられ、往来する人がひしめき合うなか、うまくまぎれるようにThe WilloWはある。スペース入口の両隣もふつうに商店であり、りんごやみかんや根菜がプラスチックの籠に盛られている。ガラス扉を開けて薄暗い階段を上ると、すでに多くの鑑賞者たちで賑わっていた。キム・オンがポールダンスの装置を組み立て中で、事故かと間違えそうなほどの金属音が断続的に鳴り響く。装置が完成すると、キムは金属製の棒に下半身を預け、体を反らせて回転しているーーようだが、よく見えない。鑑賞者とキムのあいだには反射するスクリーンがある。
マジックミラーだろう。スマートフォンを構えた鑑賞者たちは、自分たちの体がグレーに照って蛇行するところを録画するほかない。ときおり照明がつくと中の様子がうかがえる。光が消えればスクリーンは鏡に接近する。キムは装置を解体すると、スクリーンの前までやってきて、手のひらを押しつける。おそらくキムの側からはこちらが見えているのだろう。キムの手のひらがスクリーンとの接触面積分、こちらにせり出している。緑の四角い光が灯り、残像を伴っているかと錯覚するくらいの速さで移動する。スマートフォンの画面をこちらに向けているのだ(あとでわかったことだが、キムは携帯の「壁紙」をグリーンバックにしていた)。キムは、スクリーンで体がちょうど半分になる位置に自らを置く。空港のX線検査のときのような姿勢でしばらく静止し、それから「外」へとでてきて、何も言わないまま控え室へと去っていく。パフォーマンスが終わったという確からしさが一定に達して、拍手がなされ、立ち上がったり談笑をする者が現れる。小休止のようだ。
奥の開かれた部屋へと進む。箱状のものが切断され、二段に積み上げられている。同形態のものがグリッド状に4つ置かれている。それぞれの断面は、空間の内壁にいくつも取り付けられた窓枠の矩形と小気味好い反復を生んでいる。チェ・ゴウンによって姿を変えられた、サムソン製の冷蔵庫であるという。機能も中身も失った家電は単なる抽象的な箱に引き下げられているようでいて、個体ごとにわずかに異なる白や、切断面に露出した電気系統の名残といった豊かな細部を手放さない。もちろん、窓から差し込む光量が減るにつれて細部は黒く潰れていくのだが、チェの作品たちは、受動的であること、なすがままであること、以前できたことができなくなることに、なんら不自由を感じていないようである。キムのポールダンスに続いて、最後の最後には奪い切れないものが必ず残るといわんばかりであった。水分が抜けて黄変したチーズのようだ、と思ったところで、次のパフォーマンスが始まる気配がした。
キム・オン《Selfieless》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
キム・オン《Selfieless》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
キム・オン《Selfieless》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
「マゾヒスティック・スクリーン」は、作家ごとにパフォーマンスが繰り返されるという形式の展覧会だ。チェをのぞく参加作家たち(あるいは委託されたパフォーマーたち)は、あらかじめ決められたスケジュールに則り「同一の」上演を反復する。5日間に圧縮したからこそ成し得る過酷な展覧会である。この容赦のない繰り返しが、人間たちをチェの冷蔵庫の位相に近づけている。鑑賞者が手渡されるタイムテーブルは、一見するとすべてが映像作品かのような錯覚さえ覚える。しかし実際はほとんどが「映像作品」という形式を備えていない。ただ、作家はそれぞれ、スクリーンを拒否するのではなく厳格に受けとめることによって、自身が映像的存在になることに介入する。「マゾヒスティック・スクリーン」に託されているのはこの方法論だ。スクリーンは受けとめられており、受け入れられている。
パフォーマンスがなされていない間、会場は「インスタレーション」であるかのように鑑賞されることになる。ほとんど映像作品がないと書いたが、一点だけ例外的に、カク・ソジンの映像作品が受付の奥の階段に繰り返し再生されている。メインスペースから外れた、通行止めにされた階段の踊り場部分で、長いつけ爪をした女性(これもあとで知ったがキムであった)がカメラをタップし、スクラッチし、トレースしている。女性は顔色も変えず、無言のままに、カメラの至近距離で10本の爪を蠢かす。ほとんどそれはASMR動画のようで、爪がレンズに当たるたび、カチカチ、カサカサと居心地の良い音が鳴る。「マゾヒスティック・スクリーン」という展示にまっすぐ結びつきそうな作品である。しかしこの映像は、前述の通り、メインの空間とは外れた場所で佇んでいる。排除されているわけではないが、イントロダクションというわけでもない。悪い気もしない。いざという時に頼れるような、立ち返るためのセーブポイントのように設置されている。
キムがパフォーマンスをした空間の隣には、パフォーマンス用とは別にポールがあり、紙が2枚落ちていた。しゃがんで(翻訳アプリ経由で)読もうとすると、紙の上部に蓄光塗料の塗られたテープがT字に貼られているのに気づく。光はとても微弱になっていて、もっと明るかったのだろうかと思うと、控え室からキムがやってきて、強い光をテープに当てて戻って行った。光を預けたのだ、と思った。スクリーンが鏡で、鏡がカメラで、カメラがスクリーンである状況のなか、永遠の移動を強いられる光に、仮の住まいを与えているように思えた。
ゴン・ヘス《Only the Screen Sees the Screen》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
ゴン・ヘス《Only the Screen Sees the Screen》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
ゴン・ヘス《Only the Screen Sees the Screen》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
ふたつのスペースをつなぐ通路に、ゴン・ヘスの回転するプロジェクター装置が設置される。まだ明るい時間帯のため、プロジェクターが何を投影しているのか判別できない。ゆっくりと回転し、その都度形を変えながら(移動する点Pがつくる図形の面積を求めるテストのように)光がゆっくりと空間の輪郭をなぞっていく。壁が、マジックミラーが、冷蔵庫の表面が、鑑賞者の厚手のコートが、手にもつリーフレットが、スクリーンになる。映し出されているのはプロジェクターの光源と同位置にあるカメラが捉えた景色だとわかる。ようは、自分たちが、現在が、映し出されている。日が暮れてきて、擬似的なプラネタリウムを見るような崇高さが空間に満ちていくが、同時に、自己言及的で、カメラも光もスクリーンも隙間ひとつなく重なっている感触が、前景化していく。監視カメラによる統治への批判など片手落ちである。スマートフォンのライトがつけっぱなしのままだと気づかずに歩いている人の右手の眩しさだけが何かから逃れえているような気さえしてくる。
参加作家と話していた際、日本では現代美術と現代思想が噛み合っていてうらやましいと言われた。実態とは別に、そのように見えているのかと思った。韓国では、噛み合ってるなと思えたことは本当にないのかと尋ねると、「Ghosts, Spies, and Grandmothers」を挙げてくれた。めちゃくちゃ面白そうじゃないか。幽霊、スパイ、おばあちゃん。
カク・ソジン《Para》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
カク・ソジン《Para》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
カク・ソジン《Para》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
カクのパフォーマンスが始まる。本人は出演しない。まず、浅黒く焼けた短髪の男性がやってくる。濃いネイビーのTシャツに、黒いストレートのデニムをはいている。腰にはトランシーバー。両手には抱えきれないほどのナイロンの布の塊。ベージュ色と言って良いと思うが、わずかにピンクがかっている。男性は両手で布の一端をしっかりとつかんだまま、大きく布を宙に放り投げる。上下にタイミングよく振ることで空気を送り込み、布はあっという間に会場の柱と柱の間の空間いっぱいに巨大化する。腰元のトランシーバーが何か受信するが、韓国語のため聞き取れない。パフォーマーの男性も特に反応しない。男性は空間を占拠するパラシュートを目視しつつ、今度は折りたたんでいく。空気をしっかりと抜きながら、皺のよらないよう、丁寧にたたんでいく。
やがてもうひとり、灰色の服装をした男性が現れ、パラシュートはふたりの共同作業のもとでたたまれていく。ひとりが体重を布に預けると、膨らんだ布の空気が追い出される。タイミングをはかるためか、小声で囁いているようにも思えるが、こちら側には聞こえない。また、トランシーバーがノイズをともなって声を受信する。ふたりのやりとりはかなり親密でもあり、パラシュートを人間のように扱っている気もしてくるし(人間サイズにまで折りたたまれたパラシュートの空気を少しずつ抜いていく仕草は、うつ伏せの人の筋肉をほぐすようで、あるいはストレッチの補助のようだ)、もっといえば、至近距離で少しずつことをなしていく所作は、セクシュアルでさえある。前述の映像作品がASMR動画の形式に則っているとしたら、こちらはBLドラマが下敷きにされているのかもしれない。トランシーバーの第三者の声は異物のままで、聞き届けられない。やがてひとりは仰向けとなり、残るひとりで作業が完遂される。最後まで折りたたまれたパラシュートは、胎児のおくるみのようでもあり、そっと会場に据え置かれる。しばらくすればまた、キムがポールを組み立て出すだろう。
カクがパフォーマンスで問うているのは、パラシュート整備兵の行為が何であるか、だ。整備兵は直接には人を殺さない。パラシュートが適切に開くように整備することが課せられた使命であり、会ったこともない別の兵士の命を守る仕事と言い募ることが可能だ。調理兵も同様の責任を自らに課すだろうし、食うことはいうまでもなくもっとも優先されるべきことであるからその重要性は論をまたないが、整備兵はより直接的に苛まれている。自分にミスがあれば、航空兵は命を落とすからだ。
差し当たって、整備兵は目の前の布をたたむという行為に集中する。他者を想像するというよりは、ある平面をなぞること、平面を生むことに没入する。量感のある空気のもたっとした反発を感じながら、ナイロン布をならしていく作業を冷静に反復する。マテリアルの次元、フェティッシュの次元に閉じこもる。無論、それも戦争の一部であり、軍隊の一部であり、暴力の一部に組み込まれていると反駁することは可能だが、そうしたメタレベルに眼差す姿勢は、パフォーマンスのなかで躱されてしまうだろう。鑑賞者の眼がひたすら質感だけを追うようになっているともいえるし、そもそも整備兵が命令に背いて軍を離反することは考えられていないともいえる。彼らは反乱も起こさないし、作業に手を抜くこともない。作業は遂行されるのである。
カク・ソジン《Para》2025年 画像提供:ハ・サンヒョン 写真:リ・ヒョンソク
蓄光塗料の塗られたテープに光を当てるキム・オン 写真:長谷川新
ドゥルーズやその研究者たちが述べるように、マゾヒズムは既存の世界を破壊しない。否定もしない。千葉雅也がマゾヒズムの「否認」概念の説明において見事に要約しているように、マゾヒストは「この世界がこのようであるという「現実性」を認めない、しかし、破壊活動なしで、所与の素材を使って、もっと「理想的」である世界の形態を勝手に構築してしまう。この世界がこのようであることを、破壊的にではなく否定し、別のしかたを提案する」[1]。これはそのままトランプたち「持てる者」が現在やっている行為なようにも思えてくるが、「マゾヒスティック・スクリーン」は厳しさのなかで凛としている。日常の中で、業務の中で、役割の中で、命令下で、「わずかに」抵抗してみせるロマン主義はここでは放棄されている。キムのパフォーマンスは遊郭の歴史やアイドルの待遇を背景に、自分がスクリーン-鏡-カメラのなかで乱反射することを否定しないし、ゴンのプロジェクターとカメラも、チェの冷蔵庫も、自動性、再帰性、受動性に対するあり方として一貫している。自分がシステムの一部であること、スクリーンを切り裂いたところで血が出るのは自分の体の方であること、光はとどまれないことーーそれらを飲み込んだうえでの実践がある。会場の窓では、屋上からカクが垂れ下げた謎の構造物が、気だるそうに上下に振り回されていた。
*1 千葉雅也『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社、2013年、p.310〔強調は原文ママ〕
Masochistic Screen
2024年11月20日(水)-11月24日(日)
The WilloW
https://thewillow1955.com/
キュレーター:QF(ハ・サンヒョン)
参加アーティスト:カク・ソジン、ゴン・ヘス、キム・オン、チェ・ゴウン
展覧会URL:https://thewillow1955.com/masochistic
「Masochistic Screen」では、触覚や痛み、マゾヒスティックな身体性がスクリーンの技術的条件を通じて屈折する現象を取り上げる。他人の感覚はどのように観客に伝わるのだろうか?
参加アーティストは、物を切断することで隠された断面を露わにし、投影機を回転させることで慣習的な見方を打ち砕く。そしてまた、スクリーンの外にあるものの存在を具体化し、触れられるものにしたり、リアルタイムで配信されてきたスクリーンをひっ掻いたりする。本展は、スクリーンを取り巻く条件を多角的に吟味し、そこにはたらいている隠された階層的な力を再演する。
The WilloW
The WilloWは、祭基洞の京東市場にあるクリエイティブ・スペース。京東市場が開設された1960年よりも前の1955年に飼料倉庫として作られた場所を改装し、2023年8月に公式にオープン。60年以上の歴史を持つ伝統市場内に位置する地理的特性を活かし、異なる要素のぶつかり合いに注目し、感覚的な組み合わせ(Mix and Match)を追求している。
https://thewillow1955.com/
長谷川新|Arata Hasegawa
インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「STAYTUNE/D」(2019)、「グランリバース」(2019-)、「約束の凝集」(2020-21)、「奈良・町家の芸術祭はならぁと2023 宇陀松山エリア SEASON2」(2023)、「陸路(スピルオーバー#1)」(2024)、「西澤諭志 個展「1日外出券」」(2025、相談所企画)など。「日本戦後美術」を再検討する「イザナギと呼ばれた時代の美術」を不定期連載(Tokyo Art Beat)。共訳にジュリア・ブライアン゠ウィルソン『アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』(フィルムアート、2024)。国立民族学博物館共同研究員(2020-23)、PARADISE AIRキュレーター(2017-)など。宮迫千鶴を読む会を北川光恵とゆるやかに始動。