椹木野衣 美術と時評 85:油絵から古九谷へ — 硲伊之助の近代絵画探求

連載目次

 


硲伊之助美術館(石川県加賀市) 写真提供(以降すべて):硲伊之助美術館

 

去る6月、金沢21世紀美術館で開かれた秩父前衛派を主宰するギタリスト、笹久保伸との対談を終えて金沢市内に一泊した翌日、朝から北陸本線で加賀温泉駅に向かった。加賀市吸坂にある硲伊之助(はざま・いのすけ)美術館を訪ねるためである。前日の飲み会で話題にしたが、金沢に四半世紀は在住する美術関係者の知人も聞いたことがないという。もう一人は何年も前に一度、行ったことがあるらしい。「いいところですよ」とのことだが具体的なイメージがまったくわかない。はたしてどんなところなのだろう。そんなことを思い起こしながら車窓を眺めているうち、電車はあっというまに目的の駅に着いた。当たり前だがまったく見知らぬ駅だ。温泉と名のつく駅ならもう少し風情がありそうだが、それとは真逆に工事中で迷路のようになった構内をくぐり抜け、やや不安な気持ちのままタクシー乗り場から行き先を告げると、どうやら運転手さんにはわかったようで、まずはホッとした。しかし走り始めた車は市街地を抜けてどんどん郊外へと向かい、集団で草刈りをしている大きな橋を渡ると道は山あいとなり、ついには急坂を登り始めた。親切に門の前まで連れて行ってくれようとしたのだろう。が、これ以上は無理だと言ってメーターを止め、結局は途中で降ろしてもらうことに。もっとも、すぐそばに硲伊之助美術館の看板を目にしていたから、そこから先は道に迷うこともなく目的地までたどり着くことができた。

小高い丘の上は、梅雨を控えて勢いを増す緑の匂いでむせかえるようだった。見れば、立派な和風の木造建築の入り口に瀟洒なしつらえで硲伊之助美術館と看板が出ている。だが、どうしたことか人の気配がない。案の定「休館日」の札が出ている。いったんは諦めかけたが、私設の美術館ではわりとよくある。はるばるここまで来たのは何度も開館日を確かめ満を持してのこと。人が来るまでしばらく待とうかと思ったが、ふと見ると入り口の脇にちゃんとインターホンが備えられている。早速、押してみるとすぐに男性の声がして、これから開けてくれるという。そこまで来てようやく肩をなでおろした。

なぜ、そこまでしてここを訪ねたのか。それには実は理由があった。
2015年、私は画家の会田誠に声をかけ、太平洋戦争時の作戦記録画、いわゆる戦争画について二人の対話を収めた共著『戦争画とニッポン』(講談社)を刊行した(本連載第76回も参照)。それはそれでよい機会だったのだが、収載のため選んだ戦争画のなかに画家、硲伊之助(1895-1977)による大作の油絵「臨安攻略」(1941年頃、東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が入っており(これは日本の戦争画に漂うどこかのんびりした空気に反応した会田誠が選んだものだった)、それについて寄せた二人の短い解説文のうち私が書いた一節に、硲伊之助美術館から編集部に伊之助の画業への誤解を指摘する連絡が届いたのだ。私は伊之助が戦後、東京から加賀に移り九谷焼に没頭したことについて、生活の余裕からくる高踏的な趣味の延長線上に考えていたのだが、今では不勉強であったと反省している。

そもそも、生まれ育ち、その後も長く住み慣れた東京から本業を措き、趣味などで離れ、縁もゆかりもない石川県の吸坂に移り住み、山中に窯まで構えるだろうか。伊之助の九谷焼、いや正しくは古九谷への献身にはなにか、ただならぬものがある。硲伊之助美術館から送られてきた資料に眼を通すうち、いつしかそう感じるようになった私は、遠からず伊之助が身を移し、ついに没するまで離れようとしなかった地を訪ね、その仕事を伝える美術館を訪ねなければならないと考えていた。もっとも、その機会は忙しさにかまけ、硲伊之助美術館を共同で運営する硲紘一、海部公子両氏と賀状のやり取りこそ続いても、なかなか思い立てず実現できずにいた。それがこうしてようやく当地を訪ねることができたのだ。私にとっては帰路を変更しても立ち寄る価値のある、特別な意味を持つ「寄り道」だった。

 


硲伊之助美術館 内観

 

美術館の入り口で待つこと5分ほど。館長の硲紘一さんが坂を登ってやってきて、あいさつもそこそこに入り口の鍵を開け、すぐに館内を開放してくれた。なかは想像以上に広く、空気は澄んでいる。聞けば、すこぶる年季の入った腕の立つ大工の棟梁が、日本の伝統的な木造建築に近代的な技術も取り入れて、ほぼ一人で作り上げたのだという。驚いたことにこれだけの広い空間に視界をさえぎるような柱が一本も立っていない。建物は土壁・漆喰仕上げで湿度を程よく呼吸し、空気を重苦しく沈ませない。明かりは天井から自然光が取られ、人工的な照明にありがちな冷徹な印象を与えない。そこに伊之助の絵が戦前のものから戦後のものまで大小、そして九谷焼に精力を注ぐようになってからのものと合わせて悠々と並べられている。資料も充実している。今回の展示は5月1日から始まったもので、年を明けて3月31日まで続くという。これだけ広いのに、何度か掛け替えができるほどの作品を集めたのだ。いつのまにかいらしていた海部公子さんにご挨拶をし、なかなか訪れることが出来なかった不義理とかつての不勉強についてお二人にお詫びをした。そのあとで、この美術館の成り立ちや現在に至るまでの経緯、そして伊之助が油絵をやめて九谷焼に没頭したことの意味などについてお話を聞き、意見を交わすことができた。その道のりの困難さについては、とてもここで書ききれるものではないが、そこには私自身が近年、というよりも東日本大震災以降ずっと考え続けてきた「日本列島の美術」について、さらに考えを深めるための着想があちらこちらに埋め込まれていた。

 


硲伊之助「室より(南仏のバルコン)」1935年、油彩画、72.0 × 91.0 cm

 

しかし、その前に硲伊之助という画家について、ごく簡単だが概略を示しておく必要があるだろう。それくらい、美術の関係者のあいだでも画家、硲伊之助の名が口に挙がる機会は少ないと言わなければならない。しかし伊之助はかつて17歳の若さで第一回ヒュウザン会展(1912年)に参加し、岸田劉生や萬鉄五郎と腕を競い合った絵描きである。その後、本格的に油絵を習得するため、1921年には初の渡欧を小出楢重、坂本繁二郎らと果たし、その後も生涯、4度にわたりヨーロッパに身を置いている。そのなかでマティスと出会う好機に恵まれて師事、両者の交流はその後も長く続き、戦後の日本に近代美術が定着する大きなきっかけとなった1951年のマティス展(ばかりかその後のピカソ展、ブラック展、ゴッホ展も)などは、二人の深い繋がりなくして実現はかなわなかった。さらには自作の制作だけでなく近代絵画の国民的な普及にも力を尽くし、岩波文庫版『ゴッホの手紙』ではみずから翻訳の筆をとっている。井伏鱒二、林芙美子らの文芸へと寄せた挿絵、本の装丁の仕事も数多い。そんな画家が、なぜ私たちの記憶から遠い存在になってしまったのか。

最大の理由は、その後半生の制作の変化だろう。東京美術学校の助教授をつとめて後進の指導にあたり、日本美術会委員長にまで上り詰めた地位など頓着しないかのように、戦後の1950年には芸大を辞し、マティスに招聘されて再び渡仏を果たして帰国した頃(1951年)から、色絵磁器(九谷焼)の制作を始め、1959年には一水会に陶芸部を創設し、ついに1962年には古九谷ゆかりの地、石川県大聖寺町(現在の加賀市の中心部)に近い吸坂に窯をかまえて移り住み、本格的に古九谷の世界に没頭するようになったことが挙げられる。そうして伊之助はついに1970年の前後を境に油絵の制作をやめてしまい、1977年に82歳で同地に没するまで、ひたすら古九谷の持つ色の配置と調和が醸す絵の世界の探求に身を費やしていくのだ。そこには、いったいどのような思いがあったのだろう。

 


硲伊之助「九谷色絵利根の水門角皿」1975年、15.2 × 15.2 cm

 


硲伊之助「九谷上絵皿『新聞』」1973年、径11.5 cm

 

最大の誤解は、かつての私がそうであったように、趣味が高じて焼き物に熱中するようになり、ついには肝心かなめの油絵を捨てたという、一種の主従逆転である。これが根本的に間違っているのは、伊之助は最後まで油絵が持つ本来の魅力、つまり色の発色とそれを最大限に活かす絵具の配置を探求し続けていたということだ。言い換えれば、かつて油絵を真剣に学んだのは、日本の画壇がそれを目的としてしまったように、油絵そのものの技術を習得するためではなく、油絵に固有の魅力を自作のなかでどう自然体で発揮するか、という課題だった。ところが、日本で見る油絵とヨーロッパで見る油絵とでは、同じ絵のはずなのにどうも発色が違う。こんな絵ではなかったはずだ、と感じたことはないだろうか。少なくとも私にはある。とりわけ南仏アルルのような乾いた土地と、湿気をほとんど含まない空気を通してみる風景は、梅雨時の日本のように、景色そのものが水気越しにぼんやりと浮かぶ蜃気楼のような視界とは比べものにならないほどの鮮やかさを持つ。近代の油絵とは、セザンヌやピカソ、そしてマティスが正しくそうであるように、そのような乾いた大気とそこを容赦なく鋭角的に横断するコントラストを前提に描かれている。そのことはマティスに直接、師事した伊之助には、痛いくらいにわかっていたはずだ。

事実、マティスは伊之助への手紙のなかで、「どの国も自分の美を持っており、最後にはそれが勝つのです」と語っている。もしそうなら、油絵に匹敵する色彩の定着とバランスからくる調和を、日本列島のような風土では、必ずしも油絵に求める必要はないのではないか––マティスがいうように、日本列島には日本列島の風土に由来する美があり、それを守る技が古くからあり、それこそが油絵の極意を別のやり方で日本に探し求める道筋なのではないか—そう考えてもおかしくはない。もしそうなら、伊之助は古九谷に出会うべくして出会った。本当の色とは、その土地での季節の循環やそこに棲む動植物の呼吸、それらの多様な恵みを汲んで営まれる生活のなかにこそあるはずだ。とすれば、やはりその地に住むしかないではないか。伊之助の選択は油絵からの転身などではなく、むしろ日本列島におけるその深化であり、単なる技術の輸入や習得で終わらない、真の意味での近代絵画を探求するための必然であった。

そのことは、伊之助が心血を注いで作り上げた九谷焼の作品を見ればたちどころに理解することができる。そこで大皿という支持体の上に置かれ、焼かれて発色する色の透明でいて力強い鮮やかさ、隣り合う色同士が醸し出すどちらの色にも帰すことができないバランス、そしてなにより、細部まで観察し写された自然の景色や生活のひとコマが根ざす、生々しく息づく生命にしか宿らない溌剌とした躍動感は、ついに日本の油絵では達成することができなかった次元のものだ。その作業は伊之助の死によって一度は中断されたが、その後を継ぐ硲紘一、海部公子の両氏によって生活の場とともに受け渡され、さらなる研鑽を経て今日に至っている。硲伊之助美術館とは、美術館といっても単なる施設ではない。そのような探求の血流を、まるで心臓のように身を持って列島の美術へと伝えようとする特別な場所なのである。

 


硲伊之助「南仏の田舎娘」1931年、木版画、39.0 × 29.5 cm

 

もう1点、伊之助が日本の画壇に対して反証した別の制作の境地がある。それは、芸術は才能を持つ個人がたったひとりで作り出すものではない、という考えだ。伊之助がこのことを学んだのは、日本伝統の多色刷木版画からだった。確かに江戸時代の浮世絵では絵師と彫師、摺師はそれぞれに技を磨き修練を重ね、ひとつの版元で作業を分け合っている。言い換えれば、そうでなければあれほどまでに見事な色彩の映えと調和を生み出すことは不可能であったに違いない。皮肉なことにそのことを伊之助は日本ではなく渡航先のヨーロッパで知ることになる。当時、日本では西欧の技術を先進的と捉え、それに追従することをもって文明の進歩と考えていた。浮世絵など、まともな美術として顧みられない蔑視があった。だが、当の近代絵画は浮世絵の平滑的な画面の構成と色彩の配置に衝撃を受け、遠近の正確さを重んじる測量的で無味な画面から真に視覚的な絵画空間を見出すことができたのだから、実は本末転倒も甚だしい。だが、機械的な習得がしやすい単純な進歩史観に目を奪われた者には、それが見えなかった。伊之助は師マティスを通じて、そのことを遠く西欧から日本へと逆照射することで理解できた数少ない画家のひとりだった。

そう考えてみたとき、どんな評価にも満足しない近代のひとつの病である個我の芸術のやむことなき渇望の桎梏を解いて、伊之助が浮世絵のように分業とその調和の喜びにこそ美の核心が厳然としてある古九谷の世界に、おのずと惹かれていったのも理の当然ということになる。事実、浮世絵を通じてその可能性を見出した伊之助は、近代美術の原則に倣い、一度は版画の全行程を一人で手がけ、その結果12点余りの木版画を残している。だが、伊之助がとりわけ好んだ春信、歌磨、そして北斎に比べた時、どうか。これらの動向は創作版画と呼ばれ、近年にわかに光を当てられつつあるが、疎かにされていた歴史が正されるのはよいとして、伊之助は創作版画をくぐり抜けたその先に、いま一度分業、共同作業でしかなし得ない高い芸術の次元があることについて振り返ることを忘れなかった。

こうして、硲伊之助がまったく孤高の探求から切り開いた、古九谷を通じて油絵の粋を日本列島という風土に再興する「色絵磁器による絵画」という可能性は、その弟子にあたる海部公子、硲紘一の両氏によって、硲伊之助美術館と九谷吸坂窯によって守られ、未来へと伝えられようとしている。そして、それを支えるのは公的な税金でも企業による支援でもない。二人の堅い志と硲伊之助が遺した他に例のない美の世界に共鳴する「友の会」の会員たちである。確かに通常の美術館とはなにからなにまでが違っている。けれども、このような美術館こそが日本には求められているという深い実感と深いくつろぎを、その地で得ることができるのもまた疑いようのない事実なのである。

 


硲伊之助美術館
石川県加賀市吸坂町4-3
http://inkaga.net/hi/

 


筆者近況:7月14日、村上隆展「MURAKAMI VS MURAKAMI」を開催中の大館(香港)にて「DISASTER AND JAPANESE ART」をテーマに講演予定。8月18日、第2回ぎふ美術展会期中イベントとして、クロストーク「椹木野衣×日比野克彦」に登壇。テーマは「創造と鑑賞(つくることとみること)」、会場はセラミックパークMINO イベントホール(岐阜県多治見市)。

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