椹木野衣 美術と時評 76:国吉康雄と清水登之 渡米画家の「ふたつの道」(前編)

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栃木県立美術館「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展会場風景(入り口) 撮影:才士真司

 

栃木県立美術館で開催された「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展を見ていろいろなことを考えた。今回は、この展覧会の関連企画で会期中に共同企画者の才士真司さん(岡山大学准教授、国吉康雄プロジェクト)と、同館で長く清水研究に携わってきた杉村浩哉さんとの鼎談を行った際にやりとりしたことをもとに書き進めていく。

もともと私は日本の近代洋画には関心が乏しかった。そもそも、私の最初の批評的関心はニューヨークのシミュレーション・アートとハウス・ミュージックとの関係だった。その私がふと気づけば、21世紀になって国吉と清水に関心を抱いている。阪神淡路大震災をきっかけに自分の批評や日本の美術史自体に疑問を持ち、戦後の前衛を通じてその奥底に戦争画があることにたどり着いたのが端緒だった。栃木出身の画家、清水への関心も、やはり戦争画を通じてのことだった。2003年にNHKで放送された「さまよえる戦争画」を見て、清水に「育夫像」という特異な「遺作」があることを知ったのだ。早速、どんなものか確かめたいと思って栃木県立美術館の過去の回顧展図録を確かめてみたが、出ていない。これらの絵の所蔵先が栃木ではなく、お隣の群馬県桐生市にある大川美術館であることがわかったのは、2015年に会田誠さんと対話形式で刊行した『戦争画とニッポン』(講談社)の編集が進む中でのことだった。そうして取材に出かけ、学芸員の方にお願いしてようやく実物を見ることができたのだが、学芸員の方も、この絵を展示室にかけてよいものかどうかについては、長く躊躇があったと話されていた。

 


清水登之「育夫像」1945年、油彩、板 大川美術館蔵

 

いったいどんな絵なのかというと、まるで遺影のようなのである。育夫とは清水の長男で一人息子の名前にあたる。太平洋戦争中に戦死し、その一報が清水のところに届くと、清水は人が変わったようになり、朝から晩まで育夫の肖像を描くようになった。合間には近くの墓に向かったようだが、一服するためではなく、ひそかにその様子をのぞき見た長女の冨美子さんによると、「いくお—! いくお—!」と叫びながら地面を叩いて泣いていたという。育夫は清水にとってそれほどまでに大事な宝だった。にもかかわらず清水はもともと軍人志望で、若いころ試験に受からず軍人の道を断たれたため失意のまま20歳でアメリカに渡り、独力で絵を学び、独自の作風を身につけ、名を上げた。

 


清水登之「ニューヨーク、夜のチャイナタウン」1922年、カンヴァス、油彩、91×116.7cm 栃木県立美術館蔵

 

1927年に40歳で帰国後は率先して外地へと向かい、上海事変の戦跡の様子などを絵に描いている。まだ従軍画家の制度などなにもないころの話だ。だから清水は日本で当時、戦争を描いたもっとも初期の画家にあたる。のちの絵の中には、軍人として前線で銃を構える育夫の様子も描きこまれている。最愛の育夫はそんな絵に描かれた戦争によって亡くなった。本来であればお国のために命を捧げたのであるから息子を喝采してもよかった。しかし清水の心根はそうではなかった。軍人志望であったことを恥じ、そんな戦争にプロパガンダを通じて画家として奉仕した自分を心から悔いたに違いない。清水は終戦を迎えて間もなく世を去るが、年譜によるとその死因は「強度の精神疲労によって誘発された白血病」とされており、その苦悩のほどが垣間見える。先の番組によると、末期の言葉は「もう戦争は嫌だ」であり「でも、絵はまだ描きたかった」だった。清水が息を引き取ったのは、それからわずか十数分後かのことだったという。

 


清水登之「突撃」1943年、カンヴァス、油彩、130.5×162.2cm 栃木県立美術館蔵

 

私はいま、この「もう戦争は嫌だ」と「でも、絵はまだ描きたかった」のあいだにある気が遠くなるような溝について考える。そこには、画家が抱える宿命のようなものがある。いや、宿痾もしくは業と言ったほうがいいかもしれない。この二つの言葉のあいだの溝とは、言い換えれば、「戦争の絵であってもそれしか描けないのであればそれでも描きたい」と、「たとえ描けてもそれで息子を失うような絵ならもう描きたくない」とのあいだの溝でもある。けれども、あくまで清水が「戦争は嫌だ」のあとに「それでも絵が描きたい」とこぼしたことの意味は大きい。これが「まだ絵が描きたい」のあとに「戦争はもう嫌だ」と続いたのであれば、伝わるものはまったく違ってくる。清水は最期まで「絵描き」だったのだ。それが戦争に負け、息子を失ってなお絵を続けることの残された選択肢があるとしたら、戦死した育夫の肖像を描くことしかなかったのだろう。

 


栃木県立美術館「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展会場風景(清水登之「育夫像」4点) 撮影:才士真司

 

今回の展示では、残されたこれらの育夫像が4点、展覧会場の出口付近の美術館の壁に並んだ。初めてのことである。杉村さんによると、過去の回顧展の際に清水の日記を読み込むため大川美術館に通った際、大川栄二館長に「育夫像を出さないのか」と聞かれたが、杉村さんはこれらを清水の絵画作品と捉えることに否定的であったため、反発を承知でそう伝えたところ、もともと特攻隊の生き残りであったという館長は妙に素直に納得したという。私も絵を実際に見て、その裏に描かれた息子の生涯の記載や仏壇に長く置かれていたことなどから、これらの絵はあきらかに慰霊のために描かれていて、美術館という近代の無菌室的な施設に馴染まないのはすぐにわかった。どちらかといえばアウトサイダー・アートの範疇に入るかもしれないとも思った。しかし他方、戦争がなければこれらの絵は絶対に描かれることはなかった。そういう意味では広義の戦争画と言えなくもない。いや、隠されたこうした絵こそが、軍から委嘱された作戦記録画とは別の意味で、本当の意味での戦争画であるのかもしれない。そう考えた私は、育夫像にその後も長く関心を寄せ続けてきた。だから今回、このようなかたちで残された育夫像の全点に美術館で再会できたのは、ひとつの区切りとなった気がしていた。しかし、そうではなかった。

話が飛ぶようだが、育夫の名の「育」は、ニューヨークを漢字表記した「紐育」の育から来ているらしい。軍人志望であった清水の息子がなぜニューヨークなのか。そういえば、番組の取材の際に清水の家から出てきた1945年の日記には、清水がある夜見た夢のなかで育夫が登場し、絶命する間際に、「パパ! ママ!」と叫んだとの記述がある。戦時中になぜ「パパ」「ママ」なのだろう? それはこの展覧会のもうひとりの主役である国吉康雄と同様、清水が若くしてアメリカに渡り、アメリカで画家として名乗りを上げた画家であったからにほかならない。清水にとってアメリカは新天地であった。東京美術学校を出たエリートの画家たちが次々に美術の本場パリに渡るなか、アメリカに渡るという選択肢を選んだ者たちの心には、いつか見返してやるというアメリカン・ドリームへの憧れがあったはずだ。時代が日露戦争後の黄禍論の吹き荒れるなかで、公然と差別され、日本人であることを理由に受賞を取り消されることさえあっても、それでもなお清水の画業を育んだのは日本の画壇ではなく、自由の国アメリカであり、その中心地であるニューヨークであったことに変わりはない。おそらく育夫の名には、そんな気持ちが込められていたに違いない。そんな清水が日本へ帰国し、戦争が始まったとき、その胸中にはいったいどんな思いが去来しただろうか。恩もあり差別も受けたアメリカを今や日本が凌駕しようとしている。戦場の絵の中に登場した育夫はその意味では、「育夫)がアメリカを日本という名のもとに乗り越えようとしている、そんな清水個人ならではの思いが担わされてはいなかったか。としたら、その夢のいずれもが破れたあとで描かれた育夫像とは、慰霊のひとことで済まされるようなものではなかったのかもしれない。

 


国吉康雄「ここは私の遊び場」1947年、カンヴァス、油彩、68.6cm×111.8cm 福武コレクション蔵

 

こうした複雑な問題についてさらに考えを進めるためには、日本国内の戦争画の事情だけでは無理がある。この展覧会のもうひとりの主人公、国吉康雄は清水とは対照的にアメリカにとどまり続け、「敵性外国人」になったあと、逆にアメリカの対日本プロパガンダに画家として協力することになる。戦後はアメリカの美術に特化して作られたニューヨークのホイットニー美術館で存命作家として初の個展を開き、その4年後の1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表する画家のひとりとして選ばれ、アレキサンダー・カルダー、エドワード・ホッパー、スチュワート・デイヴィスと並んで選ばれている。奇しくもこの年はサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が占領から解かれ、国際社会に復帰した年にあたっている。戦後日本にとって大きな意味を持つこの年に国吉は日本人のまま、アメリカの美術家として頂点を極めた。エコール・ド・パリの時代に日本人で最高の成功を収めたのが今年で没後50年を迎える藤田嗣治なら、戦後のアメリカで1950年代に最高の名声を得た日本人画家は国吉康雄なのだ。藤田は戦後、戦争画への協力を理由に画家仲間から責められて日本を去り、フランスで国籍を得て日本を捨て、カトリックに改宗して最期まで日本に帰らなかった。国吉もアメリカの市民権取得資格を得てその手続きを進めていたが、結局間に合うことなく1953年に病で死去。63年と8ヶ月の生涯だった。

たしかに国吉の作品は誰もが漠然となら思い浮かぶほどポピュラリティは得ている。しかし、その画業の全体像はまだまだ多くの謎に包まれている。(次回に続く)

 



1.鼎談「祖国・日本・敵国」(「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展関連イベント)、6月9日、栃木県立美術館

参考資料:
『国吉康雄と清水登之 ふたつの道』鑑賞ガイド、栃木県立美術館、2018年
『清水登之』展覧会図録、栃木県立美術館、2007年
『清水登之展』図録、栃木県立美術館、1996年
『Do You Know YASUO KUNIYOSHI? すべては語らぬ画家の展覧会開催のための取材メモ Ver.2.0』、岡山大学、国吉康雄ハンドブック制作プロジェクト、2017年

 

*「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展は2018年4月28日〜6月17日、栃木県立美術館で開催された。

 


 

筆者近況:初の書き下ろしエッセイ集『感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』が7月20日に世界思想社から発行。また、刊行記念トークイベント「見ることと生きること:美術道中膝栗毛(あーとどうちゅうひざくりげ)」に山口晃と共に出演予定(7月14日、青山ブックセンター本店、東京)。

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