椹木野衣 美術と時評 77:国吉康雄と清水登之 渡米画家の「ふたつの道」(後編)

連載目次

 


国吉康雄「祭りは終わった」1947年、油彩、カンヴァス、100.5 × 176.5cm 岡山県立美術館蔵

 

国吉の絵のうち、もっとも謎めいて見えるのは、戦後、晩年の作品群だろう。なかでも、「祭りは終わった」(1947年)の頃から始まる一連の風景画は、なぜ、このような絵が描かれたのか理解に詰まる、得体の知れない推し量れなさを湛えている。そもそも、この「祭りは終わった」は、いったいなんの絵なのか。彼方まで広がる茶褐色の大地の斜面は荒涼として一瞬、ひと気のない無人の砂漠を思わせる。だが、左手前に青い裸電球を吊るした鉛色の電柱らしきものが一本立っており、背景の右半分が仮設の小屋のようなものでほぼ占められ、そこに矢印やアルファベットが目印や看板のようにあしらわれているところを見ると、ここは季節外れの盛り場、海水浴場かなにかかもしれない。画面の大半を占めるひっくり返った木馬からもそのことは見て取れる。

きっと、ここにはメリーゴーランドがあったのだ。だが、それにしてもなぜ、この木馬は仰向けにされているのか。一時的に店終いされているのでないことは、養生の覆いがないことや、なにより馬の背から腹を貫く軸線がその先端で焼け焦げたようになっていることからも明らかだ。紐飾りが前足から軸線に巻きつき、後ろ足の膝のところでちぎれているのも、絵の全体を季節外れの風景というよりも、取り返しのつかない廃墟のように見せている。空は青く、風は強そうで、背後にはテントを思わせる残骸が一面に散乱している。そして、どういうわけか赤いスカートをはいた女性らしき人物が、まるで何事もないかのような表情で地べたに寝そべっている。

タイトルが「祭りは終わった」というのだから、何かしらの祭りが終わったあとの様子なのだろう。だが、この絵が戦中から描かれていたらしいことや、国吉が清水らとは対照的に敵性外国人として日本人のままアメリカに残り、帰国した彼らが日本のために戦争画の制作に特化していったのに対して、絵を通じてアメリカの対日プロパガンダに協力していたことを考えると、国吉がここでの祭りに母国とアメリカを引き裂く戦争の狂騒を重ね描いていたことは十分に考えられる。だからなのだろうか。この風景の様子は、まるで空襲を受けた焼け跡のように見えなくもない。もっとも、仮にそうだとしても、絵を構成する要素から、これは戦争に負けた日本の風景ではありえない。それで言えば、まるでアメリカのほうが戦争に負けたかのようではないか。絵の全体に漂う陰鬱な雰囲気といい、ここには戦勝国に特有の祝祭性はまったく感じられない。いったい国吉はなにを考えていたのか。

 


国吉康雄「少女よお前の命のために走れ」1946年、 カゼイン・石膏パネル、35.5 × 50.8cm 福武コレクション蔵

 

得体が知れないと言えば、「祭りが終わった」の前年に発表された「少女よお前の命のために走れ」(1946年)も作者の真意がひどくわかりにくい。やはり世の果てを思わせる荒れた景色は、空の大半をねずみ色の雲で厚く覆われ、地平線には家屋が焼け跡のように点在している。焼け跡を思わせる印象は、電線が張られておらず、ところどころ棒切れで即席に作られた墓標のように突き立てられた電柱からも強調されている。それにしても、怪物を思わせるほど巨大化したかのこれらカマキリとバッタはいったいなんだろう。両者は対面して描かれていることから、今まさに一騎打ちの最中にあるようにも見える。そもそも、カマキリとバッタは食い合うものなのだろうか。カマキリに捕食されるのがバッタなのではなかったか。まるで、肉食の恐竜アロサウルスに捕食されまいと命がけの突進を企てるブロントサウルスのようではないか。すぐ近くから身を転がすように白いワンピースの少女が一目散に逃げ出すのも無理はない。タイトルからすると、国吉はこの少女に「お前の命のために走れ」と命令している。それはそうだろう。こんな場所にとどまっては、命がいくらあっても足りやしない。だが、そうだとしても、なぜ少女はこんな場面に立ち会わなければならないのか。

「ここは私の遊び場」(前回掲載)も同様だ。赤を基調とした画面の前景はやはり廃墟を思わせるが、焼け跡に特有の焦げた災の形跡はなく、まるで大津波のあと瓦礫が無秩序に堆積した景色のように見える。左に大きく描かれた黒い穴を持つ物体は、流木かなにかに引っかかっているのだろうか。見た目から旗ではないようだが、白地に黒い丸が描かれたかに見えるこの物体を、戦争に負けて地に落ちた日の丸に見立てることもできなくはない。そしてここにも少女がひとり描かれている。やはりワンピースのスカートを履き、窓枠のような木にぶら下がって、髪をたなびかせながら、タイトルから類推すれば、はしゃいでいるようにも見える。だが、実のところ人間であるかどうかも定かではない。絵に描かれた物体と比べて見たとき、人にしては小さすぎるからだ。自然に考えれば少女の人形が木枠ごと板で壁に留められていると考えるべきだろう。だが、そんな素朴な類推がなんら意味など持たないのは言うまでもない。この時期の国吉の風景画は、実際の三次元空間ではなく、まちがいなく彼の心理を描いたものであるからだ。その心理とはいったいなんだろう。

はっきりしているのは、これが故郷喪失者の絵だということだ。ただし単なる故郷喪失者ではない。同時期を生きた藤田嗣治もイサム・ノグチも故郷喪失者だったが、藤田は戦中、従軍して日本軍の作戦記録画の作製に協力したものの、戦後は一転して日本国籍を離脱。フランス国籍を得てカトリックに改宗し、キリスト教美術に身を染めた。イサムは日系アメリカ人として戦時中はみずから志願して日系人の強制収容所に身を置いたが、イサムはもともと日本人ではない。藤田にせよイサムにせよ、故郷喪失者として絶えずみずからのアイデンティティを常に危機にさらしていたのは確かだが、藤田はその時々で自分のアイデンティティを猫の目のように変化させ、イサムは引き裂かれたその様態をそのまま受け入れ、ときにむしろ武器に変えていた。ここで国吉を故郷喪失者という時、その在り方はこの二者とはまったく違っている。国吉は、戦争の余波で敵性外国人となってもなおアメリカに留まり、留まっただけではなく美術を通じてアメリカの対日戦争に協力し、協力しただけではなく戦勝後は在米の画家としてますます高い地位を得て、時代の事情や様々な背景があったにせよ、結局はアメリカ人になることなく、ついに日本人として生を終えた。その点で国吉の内面の複雑さは藤田やイサムとは根本的に違っているし、一連の在米画家として括るのにも無理がある。

これら戦勝国のものとも敗戦国のものともつかない残骸のような風景を、それでもなお母国の悲劇ではなくアメリカの場面(シーン)として描き、孤独そうな少女を小さな主人公に据え、命がけで昆虫から逃したり、人形のように遊ばせたりする画家の内面が、通常の喜怒哀楽などで表せるものとはまったく違う心理に変質していても、なんら不思議はない。そもそも国吉には、かねてよりそのような「まったく違う内面」をうかがわせる絵が存在した。比較的よく知られた「逆さのテーブルとマスク」(1940年)などはその典型だろう。

 


左:国吉康雄「逆さのテーブルとマスク」1940年、油彩、キャンバス、153.0 × 89.5cm
右:国吉康雄「静物(1)」1939年、ゼラチン・シルバー・プリント、25.1×20.1cm いずれも福武コレクション蔵

 

仮にこれが静物画だとしても、この絵の中で物は、まるで重力でも欠いているかのように無節操に積み上げられている。現実の空間で物がこんな角度で積み上がることは絶対にありえない。だが、それは絵画的というのとも造形的というのとも違っていて、あえて言えば価値破壊的なダダのコラージュのように見える。実際、国吉にはこれらの連作との関係は不明だがどこか連想させる写真が残されていて、それらはいかにもダダ的に見えるけれども、国吉にダダからの影響があったと考えるのは、絵画へと向かう彼の姿勢から考えて無理がある。ましてや、国吉がデュシャンと同じ時期のニューヨークを生き、「泉」と同じ1917年の独立美術家協会展に絵を主品していたとしても、両者のあいだに直接の影響関係があったとは考えられない。それよりも、彼自身が、このような歴史的にも物理的にも真っ当な重力バランスを欠いた「まったく違う内面」の持ち主へと変質しつつあったのではないか。

そうした奇妙な内面をかろうじて支える蝶番かなにかのように、その後、国吉の絵の中には記号やアルファベットが多く忍び込むようになる。最晩年に描かれ、薄くおぼろげで明るい色彩を黒い下地から透過して発する「通りの向こう側」(1951年)は、すでにジャスパー・ジョーンズの到来を予感させる。だが、決して方法的なものではない。繰り返すことになるが、それは国吉という画家が到達した内面が持つ、ある意味、自然な発露なのだ。だとしたら、やはりこの画家の最晩年に頻繁に登場するマスクをつけた道化師や仮装者たちも、同じく類例のない故郷喪失者ならではの身振りなのだろう。

 


国吉康雄「通りの向こう側」1951年、 カゼイン・石膏パネル、30.2 × 50.68cm 福武コレクション

 


国吉康雄「舞踏会へ」1950年、 カゼイン・石膏パネル、50.5 × 35.5cm 福武コレクション

 

しかし、そのような奇妙な内面が放つ景色が、いま、さして無理なく受け取れる気がするのは、どうしてなのだろう。あるいは、そのような身も蓋もない故郷喪失が、21世紀を生きる私たちの身にも迫っているということなのか。高度経済成長という「祭り」が終わり、数々の災害から「命のために走」って逃れ、そこからの復興を無理に「遊び場」として暮らす私たちは、すでにしてどこかしら、日本人のままにして日本という故郷の喪失者なのかもしれない。国吉の絵を見ていると、そんな不安がたったいま、目の前で隠すことなく紐解かれる気持ちにさせられる。

 


参考資料:
『国吉康雄と清水登之 ふたつの道』鑑賞ガイド、栃木県立美術館、2018年
『Do You Know YASUO KUNIYOSHI? すべては語らぬ画家の展覧会開催のための取材メモ Ver.2.0』、岡山大学、国吉康雄ハンドブック制作プロジェクト、2017年

 

*「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」展は2018年4月28日〜6月17日、栃木県立美術館で開催された。

 


 

筆者近況:エッセイ集『感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』(世界思想社)が発売中。また東京都写真美術館「杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年」展の関連イベントとして、杉浦との公開対談を同館で予定(2018年9月22日)。

 

Copyrighted Image