長崎県を訪ねた筆者は、雲仙・普賢岳をはじめとして、島原半島の災害史と関わる各所をめぐった。本稿では諫早神社(九州総守護 四面宮)の歴史とそこで整備が進む「御神苑」を軸に、記憶の継承のありかたを考える。

長崎県を訪ねた筆者は、雲仙・普賢岳をはじめとして、島原半島の災害史と関わる各所をめぐった。本稿では諫早神社(九州総守護 四面宮)の歴史とそこで整備が進む「御神苑」を軸に、記憶の継承のありかたを考える。
松本市美術館での「須藤康花 光と闇の記憶」展をめぐる論考。30年の生涯において、展名に象徴されるような対照的な世界を描いた須藤。彼女が見つめたものは何だったのか、論者の想像的飛躍も用いながら探る。
2024年の能登半島地震発災時、筆者の頭にまず浮かんだのは「奥能登国際芸術祭2020+」で訪れた珠洲市のことであった。今回は当時執筆した「スズ」をめぐる論考(同芸術祭公式図録収録)を転載する。
前回ふれた渋谷の「ハチ公」とその銅像についてのさらなる論考。ハチ公生誕100年を機に実施されたアーティスト・西野達のプロジェクトをめぐり、「想像力の拡張」を試みる。
関東大震災から100年となる本年、多くの関連報道や論評が世に出るなか、筆者は一見するとそこには直結しない——しかし誰もがよく知る存在をめぐる展覧会を訪ねた。
新型コロナ禍から約3年。マスク着用方針の見直しなどが進むなか、筆者はこの間の動きを、一見するとつながりの薄い12年前の福島原発事故との関係から考察する。昨秋と今春の福島訪問で感じた「熱源」をめぐる論考。
2018年に亡くなった小杉武久の表現について、彼の他界後も続く関連企画を通じて改めて論考する。またその延長線上に、小杉と親交のあった和泉希洋志のスパイスカレー店での営みをひとつの表現活動としてとらえる。
シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」展に際し、あるパフォーマンスの「新しい解釈による再演」が行われた。筆者は1枚のハンドアウトから初演時の状況を考察し、再演を見つめながら作家の本質に迫る。
この夏に東京で開催された川内の個展をめぐり、筆者はプラトンの中期対話篇のひとつを引きつつ、自身にとっての「批評という実践」のありかたも見つめながら論考する。
都内2か所での個展などを機に、長年にわたる河口龍夫の実践について、彼の作品名としてもしばしば登場してきた「関係」をキーワードに論考する。
昨年に続き、3月11日に福島県富岡町のMOCAFを訪ねた筆者。同館の可能性に期待しつつ、進行形の戦争、疫病、原発問題をめぐる危機感、および奇妙な既視感について思考する。
21世紀のパンデミックを経験したこの世界を、20世紀の新即物主義やハイデッガーを参照しつつとらえ直し、近年の映画や美術展を手がかりに論考する。