東日本大震災から10年目となる3月11日とその前後、筆者が日本各地を移動しながら考えた、あの震災から今日までのこと。その思考の流れが、各所での出来事とともに綴られる。
椹木野衣
椹木野衣 美術と時評94:2020年回視 — 新型コロナをめぐる顔、手、息の変質
私たちがかつて経験したことのない規模の感染症が、世界各地で影響を及ぼした2020年。それがもたらしたものを、目に見える、しかしともすれば意識の外に置かれている変化を通じて考察する。
椹木野衣 美術と時評93:晴れた日に雨の日も —「内藤礼 うつしあう創造」
去る8月、久方ぶりに訪れた金沢で「内藤礼 うつしあう創造」展および「没後35年 鴨居玲展 -静止した刻-」を鑑賞した筆者の、思考の広がりを記したテキスト。
椹木野衣 美術と時評92:新型コロナ禍と「Don’t Follow the Wind」— そして「見に行くことができない展覧会」だけが残った
福島県の帰還困難区域で“見に行くことができない展覧会”として続く「Don’t Follow the Wind」(2015-)。今春、「復興五輪」を前に同区域で避難指示が一部解除されたが、新型コロナ禍で五輪は延期、さらに世界は見に行けないものばかりになった。幾重にも逆転したような現状を論考する。

椹木野衣 美術と時評91:砂守勝巳 – 風景が黙示する(3)
写真家の故・砂守勝巳をめぐる連続論考、完結編。再び視点を長崎の雲仙・普賢岳に戻し、彼が『黙示の町』と題して発表した大規模噴火被災地の写真群を見つめる。砂守がそこで、沈黙でも静寂でもなく「黙示」と呼んだものは何か。
椹木野衣 美術と時評90:砂守勝巳 – 風景が黙示する(2)
写真家の故・砂守勝巳をめぐる連続論考。今回は彼の特異な生い立ちと、若き日のボクサー体験、釜ヶ崎での撮影、さらに写真週刊誌カメラマンとしての顔や、写真集『漂う島とまる水』に至る半生を辿る。それぞれの写真の心奥にあったものとは何か。
椹木野衣 美術と時評89:砂守勝巳 – 風景が黙示する(1)
昨年、没後10年を経た写真家・砂守勝巳。平成最初の大災害とも言われた雲仙・普賢岳の噴火被災地をとらえた連作「黙示の町」を知ったことから展覧会企画にまで携わった筆者が、砂守の活動の本質を現代につなぐ連続論考。
椹木野衣 美術と時評88:回復のための想像力 ー 被災と修復
記録的な豪雨や台風被害に見舞われた2019年。その爪痕は美術作品にも及んだ。自然災害が多発するなか、2016年の熊本地震に端を発する作品修復プロジェクトを通して、被災と修復について考える。
椹木野衣 美術と時評87:表現の不自由・それ以前 –– 小早川秋聲、山下菊二、大浦信行の<2019年>をめぐって
晩夏の東京で開かれた二つの重要な展覧会を起点に、歴史をつなぎながら、この国の表現をめぐる状況を論考する。
椹木野衣 美術と時評86:歴史の遠近をすり抜けて ―「S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら」展からの考察
2014年のある騒動に想を得て生まれた展覧会。その観賞を通じて、重要な出来事さえ情報として次々と消費される時間の濁流のなか、その流れが向かう先と、いま我々が自らの居場所を確かめる重要さを考察する。