椹⽊野⾐ 美術と時評 99:即物する超自然主義

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「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」2021年 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景
撮影:大島成己 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

 

北欧を代表する映画監督、ロイ・アンダーソンが2019年に発表した『ホモサピエンスの涙』は、いま改めて見直しても、その直後に訪れた新型コロナウイルス感染症による人類レベルでの生活様式の変容を先取りするような内容だった。
マスクこそ着けていないものの、人はみな無口で表情がなく、顔色からは血の気が失せてどこか人形のようで、屋内ではたがいに距離を取り、街をゆく足取りもどこか重い。はしゃぐ若者には冷たい視線が注がれ、公共交通機関で隣席に乗り合わせた他人をはなから誰も信用していない。個々の場面は、現実そっくりに仕立てられた緻密なセットからなり、カメラの視点は動かず、そうした人々の行動について解釈を施さないまま冷徹なまでに追尾(のちに触れる意味で尾行=トレース)される。

 


映画『ホモサピエンスの涙』(監督:ロイ・アンダーソン、2019年)より 画像提供:TCエンタテインメント

 

その様子は、全体でひとつのストーリーを追う映画というよりも、個々の場面が同じ様式で描かれた(ただし最小限の動きを伴った)一枚ごとの絵画のようだ。
だが、映画というよりも絵画に見えるというこの感覚は偶然ではない。というのも、アンダーソン監督はこの映画を撮影するにあたって、20世紀初頭に起きたドイツの芸術運動、新即物主義の動向の、とりわけ絵画から大きなインスピレーションを得ており、インタビューではオットー・ディクスの名前を挙げている。よりはっきり言えば、アンダーソン監督は『ホモサピエンスの涙』において、新即物主義の技法を使って映画の絵画化を試みた、と言ったほうが適切かもしれない。(*1)

ところで、この新即物主義(ノイエザッハリヒカイト=Neue Sachlichkeit 英字ではNew Objectivity)というのは、20世紀初頭の美術史を語るさいに必ず出てくるキーワードのひとつだ。だが、その直前の動きであるダダやシュルレアリスム、表現主義などに比べたとき、いまひとつ具体性に乏しく、イメージが掴みにくいのではないか。実のところ私もそうだった。アンダーソン監督の映画を通じて新即物主義の絵画のイメージがようやく掴めたと言っても過言ではない。

 


カール・ブロスフェルト「Acanthus mollis」1928年

 

オットー・ディクス「ジャーナリスト、シルビア・フォン・ハーデンの肖像」1926年
ディクス生誕130年を迎えた今年12月2日、同作所蔵先のポンピドゥー・センターのツイート。

 

だが、ここでわざわざ新即物主義という言葉を持ち出したのは、なにもロイ・アンダーソンについて改めて語りたいからではない。
以前、別の連載となるが、コロナ・パンデミックが世界を覆い尽くしてまもない頃、第一世界大戦の破滅的な精神・物質の荒廃が、ダダやシュルレアリスムのような伝統的な価値への攻撃性や、夢や無意識への没入をもたらしたとする従来の考えに対して、もしかするとそこにはいわゆる「スペイン風邪」(現在ではスペインが発生源とは考えられていない)によるパンデミックの影が大きく落ちていはしないかとする仮説を提示した。(*2)  実際、この20世紀初頭のパンデミックによる死者の数は第一次世界大戦の犠牲者を大きく越えており、またウイルスのような病原体も見つかっていない時代に、戦争のようには「敵」がはっきりしない疫病の大流行は、戦争と同等かそれ以上に不気味で度し難い恐怖であった可能性がある。だからだろうか。歴史について語るとき、第一次世界大戦が20世紀初頭でもっとも大きな出来事としてもれなく歴史書に刻印される一方で、スペイン風邪が人類にもたらした惨禍については、今回の21世紀初頭のパンデミックが現実のものとなるまで、すっかり忘れられていた。

伝統的な人と人との交流や制御可能な現実を無効なものとする(戦争でさえ阻害した)パンデミックから逃れるため、芸術家たちが目に見える物質の破壊や夢への遁走を図ったとしても、別段不思議ではなかろう。だが、ドイツにおける新即物主義の動向もまたスペイン風邪の余波であったかもしれないという点については、先日、美術史家の伊藤俊治による新即物主義をめぐる新しい解釈を聞くまでは考えたことがなかった。それは伊藤の新著『BAUHAUSU HUNDRED 1919–2019 バウハウス百年百図譜』(牛若丸)の刊行記念展(Book&Design、iwao gallery)の関連トークでのことだった(同書ブックデザインを手掛けた松田行正と写真家の港千尋も参加)。それを聞いたあとでコロナ・パンデミックの前夜に同じく新即物主義に参照源を求めて予見的な映画を撮ったロイ・アンダーソン監督のことを思い出し、私のなかでそれまでなかなか焦点を結ばなかった新即物主義が、より具体的な生々しさを伴って浮上してきたのである。

伊藤の著作は2019年に1919年の設立からちょうど100年を迎えることを機に、彼自身がこれまで収集してきたバウハウスに関連する100冊の本を選び、それについて「百話」とも言える解説を行ったものだ。伊藤は、現状のコロナ・パンデミックが依然として続くなか、リモート技術による聴衆から距離(ディスタンス)を取ったトークショーのさなかで、バウハウスという運動そのものがスペイン風邪というかつて起きたパンデミックの事後的な時間のなかで生まれたものであり、それが新即物主義の動向を触発し、広範囲にわたって合流しながら、ついにはそれが二度目の21世紀のパンデミック以降の芸術の動向にまで繋がりうるのだということについて述べたのである(詳細はトークイベントの模様がウェブサイトで公開されているのでそちらを参照されたい)。

 


『BAUHAUS HUNDRED 1919-2019 バウハウス百年百図譜』刊行記念展は、2021年12月3日-5日、および10日-12日の6日間開催された(主催:牛若丸/マツダオフィス、iwao gallery、Book & Design)

 

これまでバウハウスと言えば、近代的な合理主義のデザイン原理に基づき、装飾を排し、工業的生産性と機能を重んじ、写真や建築といった科学技術が可能とする美意識や造形を前面に打ち出した新たな価値観の象徴であり、同時に教育機関として捉えられていた。むろんバウハウスはそのような一枚岩のものではなく、最初期にはヨハネス・イッテンによる神秘主義的な傾向やモダニズムでは計り切れない独自の理念や方法を備えていたことが知られている。けれども、新即物主義と併せてその勃興の時期をスペイン風邪による惨禍のあとに位置付け、対象を非情なまでに凝視する(伊藤の言葉で言えば「見貫く」)その機械のように冷徹な目線と客体への極端な指向性について思いを馳せるとき、そこに単に合理主義、機能主義では片付けることができない不気味な解釈の変容を迫るのも事実なのである。

そう考えてみたとき、やがてバウハウス〜新即物主義の流れの先に「魔術的リアリズム」が誕生していく道筋についても、にわかに理解できる気がするのだ。そもそも魔術とリアリズムは相反する。少なくとも定義上はそうだ。魔術は現実の奥底にある見えないなにかに働きかけようとし、リアリズムは実際に目に見えるものにどこまでも沿う精神の運動だからだ。だが、新即物主義は一般にその前の時代の表現主義の主観性に逆らう性質を持つと語られる一方で、新即物主義が「ザッハリヒカイト」と呼ぶ対象への物理的な肉薄を思わせる近接性は、決して主観に対する客観のそれではなく、英語でいうところの「オブジェクティヴィティ」であり、単なるリアリズムの復興ではありえない。

対象を主観に対する客観ではなく客体として捉える眼の動きは、バウハウスがそうであったように、テクノロジー、とりわけカメラのレンズを通じて対象を分解・解剖するかのような未知なる内への視線を伴っている。それは対象の形や色がどうなっているかというよりも、それがどのような実体としての性質を帯びているかについて、自己との関係を絶ち、一定の距離(ディスタンス)のもとに「隔離」(あるいはこれも追尾/追跡、もしくは尾行と呼んでいいかもしれない)する態度を伴っている。
そして、このような対象への客体的な距離の導入は、1927年に発表され、現在に至るまで哲学や現代思想の震源となり続けているマルティン・ハイデッガーによる『存在と時間』にも同様に感じ取れるように思うのである。

先にバウハウスの設立が1919年であることについてふれたが、その前年、1918年3月に発生したスペイン風邪の惨禍は、同年11月にようやく終戦を迎える第一次世界大戦の渦中のことであり、だが大戦は終えてもパンデミックは続き、ようやくそれが収束したのが1919年であった(日本においてはそれ以降も)ことを考えると、バウハウスはまさにそのさなかで運動を開始したことになる。そしてこれを受けるかたちで新即物主義が世に姿を現すのがマンハウス市立美術館で1925年に開かれた「ノイエザッハリヒカイト」展であったことを考えると、ハイデッガーの『存在と時間』は、そのような環境のもとでも潜伏的に育まれていったことになる。事実、それまでの形而上学がデカルトやカントに代表されるような意識や主観にもとづく認識論を前提に推し進められてきたのに対し、ハイデッガーはこの意識や主観の問題に対して、対象への指向性という地点から現象学という新たな視座を提示したフッサールを受けるかたちで、さらにそれを徹底し、意識そのものよりその存在性に着目し、現象から現存在へ、という大きな転回を図った。

この転回のなかでもっとも肝要なのは、意識の座としての主観とそれが指向する意識の対象としての客体が、人間という現存在のなかで統合され、世界内存在という存在の一容態として存在論のなかへと内包されたということにあるのではないだろうか。主観も客観も世界内存在という存在の様態の内部に内包されるのであれば、そこにはもはや主観から客観へという伝統的な形而上学が前提としてきた図式や隔たりは介在しなくなる。つまり、そこにはもはや距離がない。言い換えれば、通俗的な意味での距離は現存在のなかに埋め込まれたことになり、この内包された無距離の感覚が、新即物主義に特有のリアリズムにもとづく対象の描写にも確かに見られるのである。

これは感染症対策のために取られる物理的な距離とは異なるが、主体と主体とのあいだに距離を取らざるを得なくなった時におのずと生まれる「触るのではなく見る」、伊藤俊治の言葉を借りれば「見貫く」という冷徹な眼差しへと変化する。そして見貫くことによって人がそこに見出すのは、見慣れた対象の姿ではなく、心理学で呼ぶゲシュタルトが崩壊した際に現れる存在(実在ではなく)の原相としての「見知っているはずなのに見知らなかった(社会ではなく)世界」にほかならない。このような既知のはずなのに未知、という対象への客体的な同一化をもたらすのが魔術的リアリズムであり、そこではもはや魔術的な貫入とリアリズムの結果は矛盾しない。もっと言えば、新即物主義が即物(ザッハリッヒ)に拘泥するのは、そこに客観性ではなく客体性の不気味さを見出すためであり、より具体的に言えば、そのおおもとにウイルスを宿しているかもしれない他者の影があったとしても不思議ではない。

このように、パンデミック期における距離(ディスタンス)とは、単に物理的に、もしくは客観的に得られる概念に終始するわけではない。むしろその効果としての他者性が幾重にも増幅してできた無距離の感覚を生み出す客体性のほうが、実際には人々の不安や配慮(ゾルゲ)を掻き立てる。そう考えてみたとき、ハイデッガーの唱える存在論のなかにも、新即物主義的な存在への冷徹な無距離性を感じずにはいられないのである。

こうして、伊藤が唱えるように21世紀のパンデミック以降にふたたび新即物主義的な傾向がありうるとしたら、そこではハイデッガーの存在論がやはり大きな役割を果たすのではないだろうか。ところで、ハイデッガーの存在論は、やがてそのもうひとつの大きな主題であった時間へと迫るにつれ、時間の相のなかに時計で計れる物理的な時間(それは時計の文字盤と針がそうであるように距離の翻案でしかない)とは異なる「帰郷」という時間性を提示するようになる。『存在と時間』そのものはついに完結することがなく、主著のなかで時間について全面的に展開されることはなかったが、ハイデッガーが西洋形而上学、つまり西洋哲学によってかき消されてしまった本源的な時(とき)へ接近するための道筋として、詩(ヘルダーリン)をことのほか重んじ、それが帰郷の途上で開かれるとしたことは、存在(と時間)がとりもなおさず帰郷のなかでしか見出しえないことを示している。

では、いったいどこへと帰るのか。詩が最後に帰る場所は、形而上学がよってきたるところのギリシャの哲学、とりわけプラトンやアリストテレスに代表される形而上学の原型よりさらに遡った初期ギリシャ哲学の担い手たちということになるだろう。アナクシマンドロスやパルメニデスらの名によって彼方から現在の恒星のように輝きのみが伝えられる思索のこだまこそが、ハイデッガーについての真の意味での「古典」であり古典主義なのだ。ということは、新即物主義がもし新古典主義的な装いを持つのだとしたら、それは根源的にはこのような意味での非人称的な自然への帰郷を前提にしていることになる。

このことを率直に指摘するなら、死こそが現存在の帰る場所だということになるだろう。なぜなら、帰郷とはその先がない世界のふち(淵)の露呈にほかならないからだ。つまり帰郷とは煎じ詰めれば死への回帰のことなのだ。いや、死とは生のあとに訪れるものであって、回帰するものではないだろう、と言うかもしれない。けれども、それは過去〜現在〜未来という空間を比喩とする伝統的な時間概念に限られたうえでの話だ。時間が本源的に帰郷なのであれば、生のあとが死であるように、生の前もまた死ということになる。ならば人が死ぬことは死への回帰でもありうる。それは物理学的な時間や空間、距離の感覚では倒錯した考えになるかもしれない。けれども、死はもともと私たちの生にもとづく認識を基準にすれば倒錯して捉えられるしかすべがない。けれども、倒錯しているのが近代的な時間・空間の概念のほうだとしたらどうだろう。それを生み出したのは近代物理学だが、カントやニュートン、そしてなにより近代哲学の創始者とも呼ぶべきデカルトにおける思惟と延長がそうであったように、その奥底にあるのは非自然主義的な形而上学にほかならない。形而上学よりも前の非人称的な自然へと帰郷することで、私たちは存在の実相を回復できるのだ。そこでは人以前の自然がより大きな力を行使する。これは意識では制御できないソクラテス以前のギリシャ哲学が捉えていた荒ぶる自然である。死は当然、そのなかに内包される。

だからこそハイデッガーは、現存在の宿命を死として捉え、現存在はその境界をあらかじめ覚知することで先駆的決意性を得て、そのことで存在の実相へと帰郷することができると考えたのではないだろうか。むろん、このように言うことは、すでにバウハウスや新即物主義の範疇を超えている。だが、それらの前衛以後の芸術運動が、もしスペイン風邪のパンデミック以降に捉えられるようになった非情なる客体とそれを主観で捉えることの無効性に発していたならば、バウハウスや新即物主義のなかにも死への先駆的決意性や現存在=世界内存在の問題は密やかに萌芽していたはずなのだ。そう、新即物主義とは前衛ではない。前衛という前後感覚を時間のなかで見失うようなリアリズムを新即物主義は提示した。すると、それはおのずと死に接近する。なぜなら、こうした自然主義のなかでは、そこから先は(うしろも含め)存在しなくなるからだ。コロナ・パンデミック以降、私たちが死の問題についてかつてないほど身近に感じたことは言うまでもない。それはおのずと対象への距離を生み、視線を変容させ、やがてそれは対象への主観なき無距離の感覚を生じさせ、知っているはずなのに見知らぬ対象、馴染みがあるはずなのに見慣れぬ対象としての魔術的なリアリズムを育んでいくに違いない。

では、そのような事例は現在、どこかに見つかるだろうか。私はここで、冒頭にあげたロイ・アンダーソンと同様、パンデミック以前の表現であって、すでに対象への非主観的な一体化による魔術的客体を見出し、底無しに徹底したリアリズム=凝視による時間が前後関係を持たない現存在の追跡/尾行、さらには死への先駆的決意性による生の前にもありえた死への回帰=帰郷(トレース)をもっとも体現している表現として、現在、水戸芸術館で開催中の佐藤雅晴による個展「佐藤雅晴 尾行――存在の不在/不在の存在」をここに挙げてみたい。

 


佐藤雅晴「Shortcake」2014年、フォトデジタルペインティング 画像提供:イムラアートギャラリー

 


「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」2021年 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景
撮影:大島成己 写真提供:水戸芸術館現代美術センター (一部の映像作品紹介はこちら

 

とりわけ、佐藤がガンによる余命を宣告されてから病状が逼迫し、死の直前まで描いた連作「死神先生」は、刻々と迫る死を前に、住み慣れた家も離れなければならなくなった佐藤が、一定の絵画的な距離を置いて対象に迫るのではなく、目の前の日常を形作る対象、というよりも客体を、ほとんど無距離の感覚のなかで、これ以上考えられないくらい非情なリアリズムを通じて写しとったものであり、そこにはもう伝統的な主観も客観も見出すことはできない。だが、このような死を決意した者のみが得る異なる時間としての「たった今」――そして、そのたった今が帰り着く先としての無限に回帰する「故郷」と言う抽象的な場所に、これほどふさわしい絵はそうあるものではない。以下は、これらの連作に添えられた佐藤自身の言葉である。(*3)

 

階段 Stairs
この作品を描いていて途中で階段の数を数えたら9つあった。ちょうど9月からはじめた制作は順調に進み、この絵で9つ目でした。毎回、この絵で最後かもしれないと思っていたけれど、こんなに増えて自分でも驚いています。ちなみに階段をモチーフにしたのは、築60年も経っているのに上り下りの際にきしむ音がしない丈夫さに憧れて選んだからです。また、季節によって朝日に照らされた無垢の木の表面が黄金色に輝くのも気に入っています。

 


佐藤雅晴「死神先生」シリーズより「階段」2018年
画像提供:KEN NAKAHASHI

 

now
過去・現在・未来の時間のなかで、死を覚悟すると一番大事になってくるのは現在だと思います。
過去を振り返ってばかりいても虚しくなるし、未来を想像しても絶望的な気持ちになります。当たり前のようなことですが、「現在=今」という瞬間を楽しむことが最良の過ごし方だと、今更ながら気付きました。

 


佐藤雅晴「死神先生」シリーズより「now」2018年
画像提供:KEN NAKAHASHI

 

後者の作品は絵ではなく壁掛けの時計でできている。ただし時計は赤い秒針のみだ。したがって時刻は前に進まずあとにも戻らず、同じ盤面を周回しているだけだ。佐藤はかねてから現実をトレースする行為について、それを単なる写実やリアリズムと分ける意味で、描く対象を「自分の中に取り込む」ことだと語っていたという。これはまさしく新即物主義がもたらす魔術的リアリズムの効果=世界内存在への覚知がもたらすエフェクトと言うことができるだろう。実際、佐藤がトレースする現実は、その凝視の凄まじさゆえ、すでに現実には見えない。現実にそっくりであればあるほど、現実から離反し、見慣れぬ客体へと変容していく――それが佐藤のトレース/尾行という方法がもたらす、未知でいて既知な死をめぐる感覚だったのかもしれない。事実、佐藤という自己の中に取り込まれた現実は、主観からの距離があるようで距離がない。代わりにあるのは、客体に埋め込まれた世界内存在としての私たち一人ひとりの現存在の様態をめぐる、それぞれにとっての帰郷の仕方(足取り)にほかならない。

こうした意味で、ロイ・アンダーソン監督の映画『ホモ・サピエンスの涙』(英タイトルは” About Endlessness“と、『佐藤雅晴 尾行――存在の不在/不在の存在』(英タイトルは“Sato Masaharu Trace – absence of presence/presence of absence”)とのあいだには、21世紀のパンデミックのあとにやってくるかもしれない新たな新即物主義の気配を予感させるものがある。そこでは映画が絵画となり、絵画が映画となる。存在の相で捉えれば、両者の差はあってないに等しい。だが、そのために要請されるのは微細に回帰する時の淵であり、エンドレスネス——すなわち有限な生と無限の死——についての無距離をめぐる感覚だ。それを死を覚知しない私たちが体現するのは計り知れぬほど困難なことだ。だが、少なくともそれを避けることができない「必定」として、たったいま、端的に体現するものとして、佐藤が死の直前の時の淵から拾い上げた”now”はある。そして、それはこのところ本連載で扱ってきた「ドメスティック」という別の形態での帰郷と決して無縁ではない。

1. 椹木野衣「CRITIQUE1:人類にとっての最後の希望」、『ホモサピエンスの涙』日本版パンフレット、2019年
2. 椹木野衣「遮られる世界 パンデミックとアート<5> スペイン風邪の影 現代アートの源流は『ひきこもり』芸術?」西日本新聞朝刊、4月8日(ウェブマガジン『ARTNE』に転載公開中 https://artne.jp/series/994
3. いずれも会場で配布のハンドアウトによる。併せて同名の展覧会図録に収録(美術出版社、2021年、175頁)。同図録は大分県立美術館の宇都宮壽氏による特筆すべきテキストを含むカタログ・レゾネとして編集されている。

 


「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」展は大分県立美術館での開催(2021年5月15日~6月27日)を経て、2021年11月13日~2022年1月30日、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催。

追記:同様に私が最近見た作品のうち「写真新世紀2021」でグランプリを獲得した映像作品、群馬県の榛名湖が氷結してから解氷するまでの時の蠢(うご)めきを人気(ひとけ)の失せた景色のなかで非人称的に捉えた賀来庭辰「THE LAKE」も、こうした動きのひとつとして考えることができるかもしれない。

筆者近況:「楳図かずお大美術展」(東京シティビュー)アドバイザー。「怪物 佐藤渓」展(町立久万美術館)を監修。

 


 

関連情報
『ホモ・サピエンスの涙』Blu-ray/DVD
価格(税込):5,280円(Blu-ray)、4,180円(DVD)
発売元:スタイルジャム
販売元:TCエンタテインメント
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