椹木野衣 美術と時評 75:岡本太郎「生命の樹」の上昇・下降

連載目次


修復された岡本太郎「生命の樹」 写真提供:岡本太郎記念現代芸術振興財団 取材協力:大阪府日本万国博覧会記念公園事務所(以降「太陽の塔」内部写真すべて)

 

岡本太郎「太陽の塔」内部の一般公開が、今年の3月19日から始まった。さいわい私は4月7日に関係者と視察を済ませることができたが、現時点ですでに8月までの予約が埋まるほど希望者が殺到し、主催者は急遽、夜の部の公開時間を延長してこれに対応しているという。ここ数年で美術館での企画展で目立つようになった、来る者は拒まず、並ぶなら並ぶで無際限に列を作らせるのではなく、事前に予約を済ませ、一定の入場人数制限をしてグループごとに鑑賞する方式をとったのがその最大の要因だろうが、実際に入ってみて納得した。

すでにおわかりのとおり、今回はようやく公開が実現した「太陽の塔」内部の「生命の樹」について書くことにしたのだが、これについては本連載の第70回でもあらかじめ触れている。ほかにも私が所属する芸術人類学研究所が発行したばかりの『Art Anthropology 13』でも「空中の洞 地底の顔」と題して行った発表が再録されており、『東京新聞』4月6日付夕刊(文化面)にも「大阪万博の核心」の見出しで美術評を寄せている。また、新しくなった「太陽の塔」については、入場時に配布される新しい小冊子にも概要がコンパクトにまとめられている。なにより一般公開を実現する原動力となった空間メディアプロデューサーで岡本太郎記念館館長の平野暁臣がこのかん、かつての岡本敏子を思わせる推進力でメディアに登場し、なおかつ様々な視点から複数の出版を実現しているので、そちらを参照するに越したことはない。したがって、ここではやや異なる角度からそのあり方について迫ってみたい。

 


岡本太郎「生命の樹」

 

さて、私が入場制限に納得した理由のひとつは、その最大の呼び物である「生命の樹」が、高さ41メートルにも及ぶ巨大な造形物であることにある。通常、こうした高低差のある展示物を、自分の足で辿り、同時に眺めながら上昇していくということは、あまり例がない。展示物というのは、一般的には平面上に展開されるのが当たり前だからだ。むろん、1階、2階というふうにフロアごとに高低差がつけられて展示がされているのは普通だし、その移動の最中に階段の一部や踊り場に副次的な展示が設けられていることもままあるだろう。複数の階層をくりぬいた吹き抜けに巨大な展示物があることもしばしばだが、その場合でも、展示物をぐるりと取り囲む鑑賞者のための足場の安定は、しっかりと確保されている。だが、「生命の樹」は、むしろ高低差の経験そのものが鑑賞のプロセスに不可分に組み込まれている展示物なのだ。

もともと「生命の樹」は、1970年の大阪万博当時は、その周囲にエスカレーターが設置されていた。来場者は地下空間の展示を抜けて「太陽の塔」の基底部にたどり着くと、そこからエスカレーターに乗って順次、「生命の樹」を上昇していった。けれども、元来が万博開催期間中だけの展示物であることから、恒久的に人を入れることは想定されておらず、「太陽の塔」自体は想定外にも残されることとなったものの、そのままでは一般公開ができるような構造にはほど遠かった。

 


地下に展示される岡本太郎「地底の太陽」。こちらは行方不明だったものを資料を元に復元した。

 

今回の内部の大規模改装では、当初よりそのような条件を満たすことも必要とされていた。具体的にはエスカレーターは取り外され、それに代わって階段が設置されているのだが、当然のことながら足に負担がかかる急斜面となることを避けるため、階段の形状は緩やかに設計され、途中の随所に広めの踊り場が用意されている。ふつうに考えれば、この踊り場が鑑賞のためもっとも負担の少ない空間なのだが、実際に「生命の樹」を見るためには、逆にいちばん見えにくい場所となっている。どういうことか。「生命の樹」の展示からは、通路が傾斜を持ち、自分で回廊上を移動しながら鑑賞する点で、ニューヨークのグッゲンハイム美術館のような例が浮かぶかもしれない。だが、グッゲンハイム美術館のような特殊な設計でも、床面の傾斜とは関係なく壁はあくまで平面的な展示のためにしつらえられている——その点では、「生命の樹」を含む「太陽の塔」は、むしろ江戸時代にみられた螺旋構造の回廊を持つ仏堂「栄螺(さざえ)堂」に近いのかもしれない。というのも、「生命の樹」と同様、さざえ堂もまた、行きと帰りでは異なる経路をたどり、のちに触れるように「後戻り」することができない。それで言うなら、これまで「太陽の塔」はしばしば「胎内巡り」と比較されてきた。だが、そこは一歩進んで「さざえ堂」的な胎内巡りと考えた方が近いのではと今回感じた。

 



会津さざえ堂(旧正宗寺三匝堂) 、福島県会津若松市
写真:Kounosu(上)、Takuya Oikawa(下)

 

グッゲンハイム美術館のような例とは違って、「生命の樹」では、鑑賞するための対象はまったく平面的ではない。それどころか、生命の進化の過程を樹上構造で追いかけているため、ある地点で目前に見える設置物(生物モデル)は、それより下部にある、より原初的な設置物の積層として現れているのであり、したがって、見る者はつねに樹木構造の全体を、頭上と足下に交互に目視しながら自分のいる場所を確認しつつ鑑賞しなければ意味がない。先に触れた通り、「生命の樹」では、もっとも足場が安定する条件を備えるはずの踊り場ほど樹木構造から遠く死角となるから、本来の見方をするためには、一歩一歩階段を登りながら、より高所へと移動しつつ、落下防止のための縁に沿ってこれを行わなければならない。なにが言いたいのかというと、本来ならこれはけっこう危険な展示形態なのである。

大阪万博当時に撮影された数少ない「生命の樹」の映像記録を見ると、エスカレーターで上層へと運ばれる親子連れの表情がこわばっているのがわかる。これは「太陽の塔」の内壁と「生命の樹」が現実離れした原色で塗られ、そこに黛敏郎の作曲による「生命の讃歌」が不気味な盛り上がりを添えたためとされてきたし、実際、私もそう思っていた。だが、実際に入場し、以上のことを念頭に入れて想定してみたとき、エスカレーターという当時まだ珍しかった「動く階段」で、戻りたくても後戻りすることもできずに高所に運ばれ、照明も暗く落とされ、しかも手すりはびっくりするくらい低かったから、そのことに足をすくませていた可能性もありうる。

こうした危険を避けるため、新たに階段に付け替えられた動線はアクリル製の透明な防護壁で高く守られており、視野は確保されているものの、身を乗り出して眺めるようなことはできない構造になっている。言い換えれば、本来であれば足元がおぼつかないままでも、身を乗り出して凝視したくなるような構造体なのである。今回、内部の撮影を禁止にしている理由も同様だ。平野によれば、垂直方向に41メートルにも及ぶ展示物に撮影許可を出せば、身こそ乗り出せなくても、今ならスマホなどで手を伸ばして撮影する者が出てくるのは避けられず、もし手を滑らせて落下でもさせようものなら、境目がない一体のフロアでは小さな落下物でも凶器となり、容易に死亡事故につながりかねない。

 


岡本太郎「生命の樹」

 

私は「生命の樹」を過去に3度、うちほとんど廃墟となった状態で2度、現在の一般公開のための内部工事中に1度見ているが、大阪万博の当初には入ることはなかったから、「一般公開」された状態でこれを見るのは生まれて初めてのことだった。大阪万博に行くこと、とりわけ「太陽の塔」の内部に入ることは、当時まだ小学生だった自分にとって果たすことのできなかった「夢」だったので、そこに調査などではなくひとりの来場者として入ることができたのは、それだけで時間感覚が狂うような不思議な経験で、十分に感慨深い出来事だったけれども、だからこそなんとか、アクリル面に身を押し付けるようにしてでも随時「生命の樹」の総体を眺めるため、単細胞生物がたむろするはるか基底部分からここまでの距離をひと目で掴もうとしたから、そうして感じた印象は「夢」とは違って「ずいぶん高いな」というものだった。

こうした危険と背中合わせと言えなくもない展示形態を、はたして岡本太郎が初めから念頭に置いていたものだったかどうかは、わからない。しかし少なくとも言えるのは、これが大阪万博開催当時、時間あたりでも膨大な数に及ぶであろう来場者が一箇所にたまらず、動線に従って前へ前へ(=上へ上へ)と移動していくのを促すための機能上のものだけでなかったことは、今に残された太郎の発言とされるメモからも見て取れる。それによると太郎は、「塔内の表現手段の基本的考え方」について、「空間的条件」をめぐり、以下のような条件を提示している。

・円筒状のタテに長い仕切りのない空間である。
・展示空間であると同時に上下の展示空間を結ぶ通路としての機能をもっている。
・動線が一方向に規定されている。
・その方向は下から上に向かって行く方向である。
・観衆はエスカレーターに依って機械的に運ばれる。
・視点或いは視野が予め予測できる。
・通過する時間が予め決定される。
・その時間は概算5分である。
(岡本太郎記念館「太陽の塔 1967-2018 岡本太郎が問いかけたもの」展、第一期〜2017年10月13日-2018年2月18日〜に展示された当時のメモより。傍線筆者)

ここで岡本太郎が言い方を変えながら繰り返しているのは、「後戻りできないこと」である。「タテに仕切りのない空間」を、「下から上に」向かって、生命の進化と神秘をめぐる総体の積層を「予め予測」、つまりまるごと目の当たりにしながら、ただし身体は斜めに傾けたまま、空間を「一方向に規定」され、「時間が予め決定」された状態で進んでいくのは、一歩一歩を命がけで前へ前へと進んでいくことを好んだ岡本太郎にふさわしい。

さらに、太郎が大阪万博テーマ館のプロデューサー就任表明に先立って描き始めていた最初期のスケッチには、岡本敏子の筆跡で「根」と「ひろがることによって逆に根にかえって行く」とメモが添えられている。おそらくは太郎がその際に発した言葉を敏子が即座に書き留めたのだろう。私たちの知る「太陽の塔」が姿をあらわす前の話だ。逆に言えば、この「根」と「ひろがることによって逆に根にかえって行く」が、すべてに先立つ最初のインスピレーションであった可能性は高い。つまり、そこから「太陽の塔」や「生命の樹」さえもが生み出されることになったのが、この言葉であるかもしれないのだ。

 


太陽の塔テーマ展示イメージスケッチ、1967年 写真提供:岡本太郎記念現代芸術振興財団

 

それにしても、「ひろがることによって逆に根にかえっていく」とは、いったいどういうことだろう。太郎に直に聞きようがない以上、推測によるしかないが、そこから結果的に生み出された「生命の樹」の持つ「空間的条件」から振り返ってみたとき、「生命の樹」とは、「ひろがることによって逆に根にかえっていく」ものなのだと捉え直すことも可能だろう。「生命の樹」が生命の進化を扱うなら、進化とはむしろ種の多様性を生み出すのであって、その点ではどんなに種の数が広がったのだとしても、その根源はひとつの細胞(単細胞生物)なのであり、「進化は高度化ではない、むしろアメーバの自由さに帰るべきだ」と唱えた太郎の言い分にも合致する。進化の頂点にいるとされる人間こそが「根にかえっていかなければならない」と太郎が考え、「生命の樹」にある種の「命の危険性」と「後戻りできない前進運動」をさりげなく添えたとしても、まったく不思議ではないのだ。

 


 

筆者近況:5月19日(土)15時より、麻布十番ギャラリーでアーティストの上原木呂を聞き手に、「椹木野衣『反アート入門』『日本・現代・美術』を語る」に登壇予定。5月26日(土)17時より、21_21 DESIGN SIGHTで「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」展関連イベントとして、トーク「現代写真と現代美術 22世紀美術へ向けて」に登壇(出演:椹木野衣、伊藤俊治)。6月9日(土)14時より、栃木県立美術館で「国吉康雄と清水登之 ふたつの道」関連イベントとして、鼎談「祖国・日本・敵国」に登壇(講師:椹木野衣、才士真司、杉村浩哉)。

Copyrighted Image