会田誠「アンチ・ソーシャリー・エンゲイジド・アーティスト」


Artistic Dandy (2018). All images: Unless otherwise noted, installation view, “Ground No Plan,” Aoyama Crystal Building, Tokyo, 2018. Photo Kei Miyajima, © Makoto Aida, courtesy Mizuma Art Gallery, Tokyo.

 

アンチ・ソーシャリー・エンゲイジド・アーティスト
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

ART iT 会田さんへの正式なインタビューは、これで三度目になります。一度目は2008年に千葉のご自宅にうかがい、濃密な体験になりました。二度目はそれから5年後の2013年の森美術館での個展のとき。そして、今回、あれからちょうど5年が経ち、2018年にこうしてインタビューを行なうということで、この展覧会を踏まえながら、総括的なことを話したいと思っています。
まず、私は真面目な性格なので、会田さんにインタビューするたびに作品の政治性や社会に対する批評性について聞いてきました。これまで、会田さんは自分自身をピエロと称したり、作品における社会性を否定したり、逃れようとすることもあったと思いますが、この展覧会では社会的な要素をたくさん取り入れていて、心境の変化のようなものはあったのでしょうか。

会田誠(以下、MA) どうでしょうね。たしかにだんだん歳をとって、中年から老人の領域に近づいてきましたので、無責任にはしゃぐ若者から長老みたいな気分になってしまっているのかもしれないですけど。あまりいい変化だとは思っていませんけどね。あるいは、息子も成長して、こちらもどんどん父親っぽくなってきて、そうした無意識レベルの生活上の変化が作品に反映しちゃっているのかもしれないですけど。

 

ART iT しかし、この展覧会において、ゼネコンや自民党の横暴な政治のやり方など、直接的なかたちで扱うわけではなくても、対象にしていませんでしたか。

MA いきなりなかなか答えづらい質問を出してきましたね。基本的な考え方は5年前、10年前から変わってなくて、いち有権者としては政治的な意見とかありますが、そういうものをアピールする場として美術展を使わない方がよいという考えは変わっていません。政治の個人的な志向は漏れ出る、漏れて作品に滲み出てくるぐらいでいいんじゃないか、と。たしかに今回は漏れが多いとは思いますが。

 


Above: “Grand Plan to Alter Shinjuku-Gyoen National Garden” Diorama (2018) in foreground with Grand Plan to Alter Shinjuku-Gyoen National Garden (2001) in background. Below: “NEO Dejima” Diorama (2018).

 

ART iT これまではサラリーマンを扱った作品であれば、サラリーマンという現象をネタにしても、そこまで日本社会一般の状況に言及するということでもなく、割とステロタイプな存在としてのサラリーマンを扱っていましたよね。

MA まず、展覧会がこういう形になったのは、都市に対する提言を行なうという大林財団の企画の第一回目に僕が選ばれたという枠組みがあって、普段の個展であれば、自分で大きな枠組みを考えるけれど、今回は与えられた枠組みで。新宿御苑あたりを皮切りに、あのあたりからパブリックなスペースとかについての作品がちらちらと出てきましたが、それだけで個展をやると自分で言うほどには、そんなに自信を持っているジャンルではなかった。ですが、まあ、選ばれちゃったので、ここはそのジャンルだけで本腰を入れてやってみようと思ったんですね。若いときには誰もこのジャンルでやれと言われなかったので、これは僕の変化というよりは客観的な変化であって、それならなるべくそれに答えてみよう、と。だから、今回はだいぶ無理してがんばったとは言える。ちなみに今の気持ちとして、次はこの反動で、絵画だけ並べる展覧会をやると思いますね。まあ、この展覧会の前がミヅマアートギャラリーでやったお弁当箱の展覧会で、あれも僕にとっては絵画、色と形だけの展覧会だったんですけれど。僕は反動で、今回が社会的だったとしたら次は社会的ではないという展覧会をやると思いますね。だから、この展覧会をやったからといって、今後どんどん社会的なアーティストになるつもりはないです。

 

ART iT しかし、新作と旧作を混ぜた、セルフ・キュレーションのような試みを通じて見えてくる会田像には、たとえ潜在的なものであっても、社会に対する関心は一貫していたように思えるのですが。

MA そうですね。だから本当は「都市のヴィジョン」というお題だったけれど、明らかにそこから外れたものも多くて。たとえば、地下の一番奥の方に、新しい発酵食品をテイスティングして探すというような作品とか、都市のヴィジョンとはまったく関係ないようなものも、あの展覧会を頭の中で組み立てているうちに、関係なくはないかな、というふうに入れていった。あるいは、ツイッターで難民が棚田を耕すというようなおとを呟いて、炎上してしまったのですが。これはアート活動としてツイッターをやったわけではなくて、日常的にちらっと呟いてみたら、こうなっちゃったというもの。今回、あれも見せたいなと思ったんですが。このように、僕は社会的な作品をつくるぞ、政治的な作品をつくるぞ、と決意してつくるというようなことは相変わらずあまりなくて。現政権を直接的に作品でなんとかいじってやろうとか、そういうアーティストもいるでしょうけれど、これは単に僕には向いていないというだけで、僕には遠回りに関係あるといえば関係あるかなという表現が多いと思います。これは僕の癖、性格だと思いますが。

 

ART iT たとえ間接的だとしても、今回の展覧会は社会への批評性が高い。たとえば、「ネオ出島」は鎖国とグローバリズムの緊張感を諷刺しながら、実際に世界各国に現れてきている新たな階級社会、エリートと搾取されている人々との社会構造を表していると捉えることもできる。

MA あの作品を発想したきっかけは、シンガポールや香港に美術の仕事で行くことがあり、東京との違いを考えるわけなんです。英語が公用語になっていて、それはもともとイギリスの占領時代があるからですけど、実際、東京よりも国際都市になっている。そういう都市を見て、日本、東京負けている。これからもどんどん負けていくだろう。そういうやばいなと思う気持ちと、でも、シンガポールや香港のような旧植民地は不幸で不自然と感じる気持ち。羨ましがる気持ちと、逆に東京の方が健全で好きだという気持ちがあって、要するにもやもやするわけですよね。その時すぐに作品にしようとは思いませんが、東京を改造するバカバカしいアイディアを出そうという企画を自分で立てた時、そういう旅行をしたときの記憶が蘇って、なんだかんだでああいう「ネオ出島」という形になるわけですが。都市計画家や建築家といった専門家はジレンマを調整してちょうどよい妥当なプランでやらなければいけないでしょう。でも僕は美術家として、ジレンマとか矛盾をそのまま形にして出すことが好きだし、それが許され、むしろ求められていると考えて、今までやってきました。それを他人が社会の批評とか批判と呼ぶのであれば、なるほどそう呼んでいただけますかと否定はしないですけれど。作った側としては、批評というと何か偉そうな、正しい答えがわかっていて、間違っている社会や人々に何かを言っているような感じがするかもしれないけど、正直なところ、そうではなくて。このジレンマをどうしたらいいかという解決策は、こちらも持っているわけではないのです。

 


Above: Let’s Start from the Developing Countries (2018). Below: From left to right – Transferring the Capital to Hokkaido, Tokyo 2020 and Plan to Remove Humanity from Peninsula X (all works 2018). Both: Photo ART iT.

 

ART iT では、日の丸を出したり、聖徳記念絵画館をモチーフとして扱ったり、日本のナショナリズムを象徴するものが少なからず出てきますが、それはやはり、日本社会のあり方を見極めようとする過程に出てくるものなのでしょうか。

MA ちょっと上手く答えられるかわかりませんが……。今回、下のフロアの展示はイメージやそのイメージの連鎖みたいなものでつくったものが多くて、たとえば、「発展途上国からはじめよう」は、この話をいただく前からイメージが浮かんでいました。具体的に言うと、エヴァンゲリオンの登場人物が服を脱ぐところを描いていますが、最初はそうではなく、何か新宿駅とかの大きいポスターのイメージがあって、知り合いの若者にそういうポーズをしてもらって、写真でつくろうかなと思っていたのを、途中からエヴァの方がいいなと思って描きました。あるいは、「ネクタイ・ビル∞」も本当はちょっとしたサイズの横長の絵でした。もともとは東京への提言だから、東京のビルは無個性なのが多くて、都市の風景として退屈だというイメージでしたが、考えていくうちに、もうちょっと大きなテーマにもつながりそうな気がして、あのように大きく、というかメビウスの輪状態にして無限にしました。そのなかで、ボロボロの日の丸というイメージも出てきて、あれも単独では作品として自立していないのですが、インスタレーション、会場でお客さんが見たいくつかのもののイメージが頭の中でミックスされるものとして、あそこにああいうものがあったらいいな、と。簡単に言えば、日本のバブル以降の落ちぶれ方は、やはりかなり強く意識していることなわけです。日本が昔、本当によかったのか、日本が一番お金を持っていたあの頃が本当によい時代だったのか、それは疑問ですけれど。最近はネットで社会の変化を観察しているけれど、わざわざそういうニュースにアクセスしようとしなくても、日本の落ちぶれ、劣化の情報が毎日のように流れ込んでくる。はっきり言って僕の脳内のイメージをかなり支配している。まずはそれの反映です。もちろん「発展途上国からはじめよう」と言って、みんながビジネススーツを脱いで裸になれば、必ずしも素敵な活路が見出せるとは思っていません。普通の意見を言えば、経済活動は自暴自棄になっちゃいけないと思いますよ。ただ極端なイメージが発想の転換を促すことがあるんじゃないかという、美術特有の効果に賭けているのです。

 

ART iT そもそも日本のバブル経済は蜃気楼、ミラージュ的なもので、それを取り戻そうとすることは不毛だと考えることもできますね。

MA そうですね。バブルもそうですけど、最近の日本政府がやっている、オリンピックがまた来るから1964年の高度経済成長期のあの活気を取り戻そうというキャンペーンは、それをやろうとする気持ちはわかるのですが、あまり有効ではないと思っています。それにしても、難しい質問が続きますね。

 

ART iT 一方、馬鹿げたアイディアの、群馬県を湖にするとかそういう提案も日本の行政側のやり方を鋭く諷刺していると思いますが。いわば、行政側からたびたび見えてくる、日本社会における全体主義的な傾向、権威主義的な傾向をよく表わしていると思います。

MA さて、どうしましょうか。ちょっと頭をクールダウンするために、ちょっと一服してきます。

さっきの質問に対して、たばこを吸いながら考えていたのですが、昨日、『THE SQUARE(ザ・スクエア 思いやりの聖域)』という映画のコメントを依頼されて、DVDを観ていました。あれは社会派のアートを扱うキュレーターが主人公なのですが、そこで現在の典型的なソーシャリー・エンゲージド・アートのアーティストみたいなのが出てきたりする。前から思っていたことだけど、僕は自分がこういう国際的な現代アーティストのひとつの典型的なスタイルとは異質だと思っていて、僕の方が偉いと思っているわけではないのですが、どうしても異質だと思ってしまう。ここまでの質問で期待されているのは、政府や社会を批判したりするような、欧米を中心としたアーティストの堂々たる姿で、僕にはやはりそれができないなと思って。いまたばこを吸っていたところは、会場に秘密のたばこ休憩室なんですが、そこは僕がヨーゼフ・ボイスの替え歌を歌っている作品のすぐ裏なので、その歌がよく聞こえてくる。まあ、たぶん世界中のまともなアーティストは、ああいう作品をつくらないわけですよね。あれもヨーゼフ・ボイスを代表とした社会派アーティストに対する偉そうな批判ということではなく、自分はいっしょにいれないなあという違和感の表明。おそらくここに僕の特徴がどうしても出てきてしまう。たとえば僕はツイッターをやっています。ツイッターには著名人じゃなくて、無名の人、サラリーマンか誰かわからない匿名の人がいっぱいいて、政治や社会について熱心に語っていたりする。で、実感として、こういう人たちに比べて僕の方がより正しい意見を言えているとは思わないわけです。僕もツイッターのなかではただの発言者のひとりに過ぎない。自分が思ったことは言いますが、アーティストだからと言って、特別に発言権が強くあるべきだという理由はないと思っていて。

こちらがやれることは、より魅力的な展覧会をつくることで、それについては数も何回もこなしているので、それなりにノウハウはあり、プロフェッショナルだと思っていますけど。今回の展覧会にはお客さんも入ってくださっているようで、自分でいうのもなんですが、わりと愛されていると思っています。その理由のひとつが、たぶん高圧的な、高いところから人々を見下すようなアーティストではない点ではないかと。僕のある種腰の低いところが、憎からずと思われているような気がしていまして。そこは僕が今後も大切にすべきところだと思っています。もしかすると、期待されている答えとは違うかもしれませんが。

 


Weed Cultivation (2018).

 

ART iT いえ、僕も会田さんをよく知っているのでそういった期待はしていません。しかし、昨年、国立新美術館で安藤忠雄展が開催され、そこに何十万人が来場して、安藤建築を鑑賞するわけです。そう考えると、安藤さんにカリスマがあり、いわばボイス的な要素もあるかもしれないけど、あの展覧会には安藤建築を通して、より良い世界をつくることができるという主張がある。あの展覧会を観たら、世界がますます素晴らしくなるというような印象を受けるかもしれないし、ツイッター上では素晴らしいとか泣きそうになるほどよかったというようなポジティブなことばかりが呟かれていましいた。それに対して、この展覧会に来て、「ネオ出島」を見て、どこまで深く読むかわからないけど、二重的な社会構造が目の前に現れているのを目にしたり、ほかの作品を見て、マスメディアのニュースなどではあまり語られないことにたくさん触れることになるのもたしかだと思います。

MA 実はこの展覧会に影響するのが嫌で、安藤さんの展覧会はあえて観ませんでした。安藤さんと言えば、コンクリートで四角い直角な感じが、なにかさっきの映画のタイトル「スクエア」という感じがするね。スクエアに感動するというのは、何かミニマルな美学でもあるけど、本来、自然の状態ではごちゃごちゃして、前近代的な頭の悪い愚民どもがわさわさ動いているところを、神の視点を持つような人がカキーンとしたスクエアを示すことで、答えが与えられたという安心感がある。そういうものがマトモな建築家やある種の現代美術家がやることです。今回、僕の頭のなかで自然発生的に出てきた方向性に、反-スクエア、反-フラット、反-直角水平垂直みたいなものがありました。それを具体的にわかりやすく見せたのが、ドラフター、日本語では製図台と言いますが、水平と垂直の線を引いて、建築の製図をするための専門的な機材をヤフオクで安く買って、サラダオイルと色のピグメントでぐじゃぐじゃに描いた「油絵科出身の猿」。これはまあ自嘲ですけれど。これと対応するのが、スラムとかがやっぱり好きだとか、きれいだとか、良いと思ってしまうという告白から始まる「セカンドフロアリズム」ですけれど。ここらへんには一流建築家たちやミニマル系アーティストのあの世界が好きじゃない、あるいは否定、という表明があって。そういうこともあって、安藤さんの展覧会を観にいくのをやめたんですけれど。ただ、スクエアという話で言うとちょっと微妙で、いろいろ考えたら、家は四角い方がいいという結論になっちゃって。「雑草栽培」も納豆のパックとか、四角いものを選んで。大きさがまちまちだから、碁盤の目のように整然とは並ばないけど、なんとか秩序を保ってぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。実際のバラック群はそうなることが多いから。その周りを電車が走っているという、これくらの秩序がいいかな、と。これはまったく論理的ではない言葉になってしまうんですけれど。矛盾しているし、一貫性はないわけですね。スクエアに対しても全否定ではないし全肯定でもないし。僕の好むところで止めたという感じでしょうか。

 

会田誠 インタビュー(2)

 


 

会田誠|Makoto Aida

1965年新潟県生まれ。91年に東京藝術大学大学院美術研究科を修了。同時代の事象に止まらず、歴史への批評的な言及や、既存の文化や社会に疑問を投じる多彩な活動で知られる。近年は、森美術館での大規模個展『天才でごめんなさい』(2012)、ナントのブルターニュ公爵城で『Le Non-penseur(考えない人)』、新潟県立近代美術館で『ま、Still Aliveってこーゆーこと』(2015)などの個展を開催。『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』(東京都現代美術館、2015)、釜山ビエンナーレ2016、『Imaginary Asia』(ナムジュン・パイク・アートセンター、ソウル、2017)、『COOL JAPAN』(オランダ国立民俗学博物館、ライデン、2017)、『Japanorama: New Vision on Art since 1970』(ポンピドゥー・センター・メス、2017)などの企画展に参加している。そのほか、藤田嗣治が描いた少女画を語った『藤田嗣治の少女』(絵/藤田嗣治、編/会田誠、講談社、2018)や椹木野衣とともに「戦争画」を考察した『戦争画とニッポン』(講談社、2015)に加え、小説や漫画など著書出版物も多数。

2018年2月には、表参道の特設会場で個展『GROUND NO PLAN』(主催:公益財団法人大林財団)を開催。選考委員の推薦に基づき、建築系の都市計画とは異なる視点から都市におけるさまざまな問題を研究・考察し、理想の都市のあり方を提案・提言するという企画において、会田自身の考える未来の「都市」「国土」をドローイング、完成予想図、建築模型、絵画、インスタレーション、映像、テキストなど多彩なメディアを用いて表現した。

会田誠「GROUND NO PLAN」
2018年2月10日(土)-2月24(金)
表参道・特設会場(東京都港区北青山3-5-12青山クリスタルビルB1F、B2F)
主催:公益財団法人大林財団
http://www.obayashifoundation.org/urbanvision_adopt/event/2017_aidamakoto/

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