会田誠「アンチ・ソーシャリー・エンゲイジド・アーティスト」(2)


“Ground No Plan,” installation view, Aoyama Crystal Building, Tokyo, 2018. Photo: ART iT. All images: Unless otherwise noted, installation view, “Ground No Plan,” Aoyama Crystal Building, Tokyo, 2018. Photo Kei Miyajima, © Makoto Aida, courtesy Mizuma Art Gallery, Tokyo.

 

アンチ・ソーシャリー・エンゲイジド・アーティスト
インタビュー / アンドリュー・マークル
I.

 

II.

 

ART iT 東京オリンピックをきっかけに東京では土地開発ますます進み、たとえば、一軒家に住んでいる老人が亡くなると、そこに高層ビルが建てられるといったように、東京において、コミュニティや地域のあり方が変わろうとしているし、企業によって土地空間が金銭化している。六本木ヒルズも大規模開発の象徴的なものだと思うけれど。お金を払わないとその場所にいられない、お金のない人たちは雑草として扱われうるという状況がありますね。

会田誠(以下、MA) 僕も数年前に森美術館にお世話になったし、森美術館と大林組はビジネス上のつながりがあるようですけれど、今回は大林組で。けれど、なんせ僕は二階以上に住んだことがなく、二階以上に住むのが不安で、無意識ですけど、そうやって不動産の物件を選んでいたんですよね。二階建てまでが好きなんだなということをちょっと前に気づいていたこともあって、今回の展示に至ったわけです。つまり、大林組や森ビルが扱うような不動産とは、自分の住むところとしては今までも今後も縁のないような人生で、こういう展覧会のときだけ接点が出来まして。僕のような美術家というのは、大企業の経済的な勝ち組側に属すのか、それとも搾取される多くの低所得者層に属すのか。いまは僕もちょっとは儲かっているから、ちょっと上の方に寄り気味かもしれませんが、ちょっと前までは明らかに下だったし。僕の同僚、仲間の現代美術家は実際、お金がなくて困っている人がいっぱいいるわけで。そういう意味では、低所得者の方、あるいはちょうど真ん中くらいだと思っていて。森美術館のときも今回も、会田はもっと森ビルとか大林組とかに牙をむいて、直接批判するような作品をつくればいいのに手ぬるいと、過激派のような面で期待している人もいるかもしれないけれど。実際、僕はそこまではしなかった。中間くらいにいるやつとして、大手の方に尻尾を振るわけでも牙むくでもなく、そのこと自体はテーマにしなかった。もともと下衆な方の人間なのは確かなので、この態度のまま、大林さんとか森美術館の話に飄々と自然体で関わればいいかなと思って。自分はどういう住処や街並みが好きなのかと正直に胸のなかを覗いたら、結果としてスラムみたいなことになった。それはゼネコン的なるものに対する意識的なアンチ、最初から決めつけてそういうものが出てきたわけではなく、自然にやったらこうだった。

 

ART iT ユーモアを取り入れながら、あるいはパロディを取り入れながら、セカンドフロアリズム宣言は、新自由主義的資本主義の社会に対して、新たなヒューマニズムを呼び起こそうとしている、と。

MA そうですね。たとえば、あそこに「資本主義を変えろ」みたいなものもありましたけど。あれらは会場で書いていましたが、もともとはiPhoneのメモ機能にアフォリズム形式で細かく貯めていたものをあそこに書き写しては、編集していました。「資本主義を変えろ」というのは、あらかじめのメモにはなかった言葉です。書いていくなかで、最後に「こんなの実現できるわけねえだろう」と言われる幻聴が聞こえてきて。まあ「できるわけないよな」と自問自答し。「現状の資本主義」。なら「変えろ」と、勢いで最後に出てきたやつなので、あれは最初から準備していた結論ではなかった。書きながらちょっとヒートアップしていったところがたしかにあって。六法全書ががれきといっしょに混ざってゴミみたいになっていますが、あれも準備の後半にヒートアップしてきて、いろいろと考えていくと、僕のプランのだいたいのことが現状の法律で阻止されるだろうと素人ながらに思いました。法律は尊いものだということは頭では理解しているんです。歴史の積み重ね、人々の争いごととか悲劇とかがあったなかで、それをなるべく改善しようという積み上げが法律なんでしょうから、こんなチンピラみたいなアーティストが法律に文句を言うなんてお門違いだと思いつつも。でも、法律書をぐしゃぐしゃにしてみたい気持ちもだんだん湧いてきたので。美術なので最後は論理より情熱ってことで。

 


Above: 2nd Floorism Draft Declaration (2018). Below: Installation view.

 

ART iT 新国立競技場の建築のデザインコンペをめぐる、ザハ・ハディドから隈研吾に至る一連の出来事は、日本の権力者によるヤクザのようなやり方が明らかになりましたね。

MA 僕も建築のこと、コンペのことも素人なのでわからなかったのですが、僕にしては珍しく、ザハのニュースはわりと読んで、ツイッターで反応したりしていたので、この展覧会にもある程度関わりがあるんですけれど。あれでますます「建築のリアルな現場はややこしいにも程がある」と思って。それから今回の展示の話が来て、一切何も調べずにこの展覧会に臨むことにしました。これは、なまじ建築の世界を知ろうとして調べても、ただ泥沼に足を突っ込むようなもので、自分の展覧会にとって百害あって一利なしだなと勘が働いて。その勘が正しかったかどうかわかりませんけれど、完全に素人として臨むことにしました。せっかくこういう話をいただいたので、これを機会に建築とか都市計画とかを勉強すれば、僕の知識はステップアップできたのかもしれないけれど、僕のちょっとしたステップアップよりも、野蛮な素人として展覧会をつくりあげた方が、どちらかというと実りがあるんじゃないかという判断でした。

 

ART iT しかし、専門家と素人という区別をそもそもつけるべきではないと考えることはできませんか。誰もが社会に関わっているのですから。たとえば、素人も言い換えれば、市民の立場から発言する権利があるのではないか、と。

MA そうです。だから、美術とはそういうもの。発言、発表、とりあえずそこまで。専門家はもちろん必要だと思っているに決まってますけど。展覧会で美術家が発表することと、市民が市民運動などで声を上げることと、ツイッターで匿名の人が何かを言うことは同じこと。止めてはいけない、ということにおいて。

 

ART iT ここでボイスの話に戻りますが、会田さんは以前からたびたびボイスの名前に言及していました。

MA そうなんですね。ボイスのことを気にしだしたのは、2000年以降かもしれません。最近のインタビューやツイッターでも何度も言っているのですが、僕には「現代美術とはデュシャンとウォーホルとボイスの三角形のなかでだいたいのことが起こっている」と考えた方がわかりやすい。ごく簡単に言えば、僕は美大生のときはデュシャン寄りで、自分は頭がいいという立場から意地悪な嫌味を言うのがスタンスで、レントゲン芸術研究所で90年代にデビューした頃からウォーホル寄りで、村上(隆)さんとかと同じ頃にデビューしたので、オタクみたいなイメージを使って目立ってなんぼみたいな時期があった。それから、どういう変化なのか、ニューヨークに半年間滞在したり、結婚したりして、実際はボイスの評伝を1冊程度読んだだけなんですけど、ボイス寄りになった。ボイス個人にも興味を持ちましたが、「ボイス的アーティストの態度」に、肯定的であれ否定的であれ、気になるようになった。ニューヨーク滞在の何かがきっかけだったのかもしれないですけれど、中年になった、父親になったのが原因かもしれませんが、よくわからないですね。

 


Above: Artistic Dandy (2018) detail. Below: The video of a man calling himself Japan’s Prime Minister making a speech at an international assembly (2014).

 

ART iT 会田さんにはボイスとのある種の共通点があると思います。たとえば、若い世代の日本人作家にとって、ある種のグルのような存在になっているとも言えますし。アンチ・ボイスのようなところも。

MA ボイスは僕が予備校生のときに来日して、たしか僕が大学一年生のときに亡くなった。それで当時、日本の美大生の間ではボイスブームがあったんですよね。まずはそのときに一通り知ったわけだけれど。みんなが熱狂しているなかで、ちょっと冷ややかで、「カッコつけているおっさんだな」という反感もありました。

 

ART iT アーティストが詐欺師やグルとして存在することはよくないことでしょうか。

MA まず、詐欺師とかグルというのが僕の発明ではないと思うのは、ボイスの評伝を読んで、彼のことを存命中に嫌う人もドイツにいたことを知りました。カリスマがあるけれど、それが故に大きい話をして人をたぶらかす詐欺師的だという批判もあったと。自分は詳しくない領域の話だけれど、キリスト教のイエス、そういうものが連想されて、欧米特有のカリスマ観っていうのがあるのかなと。日本人でキリスト教信者でもない自分にはわからない、ニュアンスもあるのかな、なんて思っていました。まあ、日本では麻原彰晃とか宗教的カリスマ的詐欺師がいて。そういう小さいのならどこにでもいるでしょうけど、たぶんイエスくらい強大なカリスマは日本の宗教観には存在しない。せいぜい空海が天才だったというくらいで、あんまり個人への強い人気で宗教が成り立っているという状況は日本にはないような気がします。たぶんそれはアートの話にも繋がると思っています。

 

ART iT 天皇陛下はどうでしょうか。

MA 天皇陛下は、人格がないのが天皇陛下みたいなものだったのに、今の天皇は考え方とか割とクローズアップされたりして、本来の天皇制とちょっと違うような気がしているんですけれどね。

 

ART iT 会田さんはボイス的な、キリスト的な人物ではなくて、むしろ、アンチ・キリストでしょうか。

MA それはそうでしょうね。僕なんかグルではないですよ。Chim↑Pomとか、僕のことを気のいいおっちゃんくらいに思っているのではないでしょうか。親しみやすい、村上さんみたいに怒ったりしない。カリスマはまったくないですよ。なぜかというと、理由はいろいろあるけどやはり基本的に何かを強く信じたりしていないからだとも思うんです。さっきから、インタビューもかっこよくお答えできないし。もやもやとしているんですけれど。それは頭が悪いからということもあるんですけれど、なにか、これというものを信じて、それを一直線に語ることができない。そうすべきではないと思っていて。こういうのはカリスマから程遠い人格だと思っているんですけどね。

 

ART iT アーティストは自分の作品に対して、なんらかの責任を取らなくてもいいと思いますか。

MA 表現者として責任は取るつもりですけど。表現物、責任……。政治家が選挙中に言う公約を、選挙に勝ったのに守らないとか、そういう政治家は責められるべきだと思いますが、美術作品はやっぱり政治家の公約とは違うと思うので、そういう責任ではないと思うんですよね。では、どういう責任なのか……。今回作って公開した作品は、作ろうとしたことも公開しようとしたことも、確信を持って臨んだことなので、その責任は全部僕が取ります、ということでしょうか。

 


Ape Graduate of the Oil Painting Department (2018).

 

ART iT アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権を見ると、政治家の方が却って自分の発言に対して無責任になっているという状況が生まれていますね。「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」(2014)は良い例だと思いますが、会田さんは自分の作品に右翼的な象徴を取り入れたり、左翼的なことも取り入れたりして、そういう政治的な倫理に対して、アンビバレントな態度を一貫して示してきましたが、社会を見ると、左と右が交差しているかのようになっています。たとえば、アメリカのティーパーティーやトランプ支持者がある種のプロレタリア的なアイデンティティを手にしたり、政治的な立場が混乱してきている。会田さん自身の制作は、こうした状況に照らし合わせたとき、どのように考えられますか。

MA 言ってしまえば、僕はデビュー以来、意図的であれ、意図でないにしろ、混乱しています。偉そうに言えば、いや、これは偉そうだな……。でもいいや、偉そうに言おうと思っていたのは「世界がやっと僕の混乱に追いついた」とか言おうと思ったけど、これは言い過ぎですけど。でも……やっぱり偉そうに言うと、「こうなるのは当然だ」と、前から予感していたような気もします。なぜならば、右翼、左翼と簡単に分けるとして、若いときから両方に意図的に両足を突っ込むようなことをしたり、現代美術の世界にいるけれど、現代美術を批判するような、ヘンテコな立場にいるわけですけど。二重スパイというのかな。敵の陣営に潜り込むようなことをわざとやったりしてました。結論の出ない話ばかりですが……それこそ、昨日観た映画『ザ・スクエア』も、特に結論があるような映画ではなくて、もやっとしたみまま終わるんですけれど。この世はもっと良くなるという善意のアーティストと、それを支える美術館。その作品のテーマは「平等」なんですけれど、それを展示しようとしている現代美術の美術館が全然平等じゃなかったりする。アンビバレントな矛盾した状態を皮肉っている映画なんですけれど。だからといって、劇中の「スクエア」という作品をつくったアーティストが悪人なわけでもなく、彼にとっては善意のつもりなんだろうけど、実際は……という困った状況の話で。その監督のその感じは僕もよくわかったし、今後もこういう問題はいろいろ噴出してきて、そういう現代美術の立ち位置もこれから変わっていくだろうな、と思いました。この映画がヨーロッパで注目されて、カンヌでグランプリを獲ったりするというのも、ひとつの変化だろうな、と。現代美術が今後迎える危機を予感させるような映画だし、その危機は僕も注目してるし、その渦中のひとりのアーティストとして今後も活動したいと思っていますね。なんなら「待ってました」という気持ち。この危機は学生のころに僕が友だちの小沢剛とかに管を巻いて言っていたようなことです。ちょっとうまく言えませんが、小沢は今でもアートを愛していて、信じていますが、僕は「アートなんて信じられるかよ」とか言って嫌われていました。僕のその嫌味がだんだん現実になってきている。そんなことも踏まえて、今回は展示をした。そのわかりやすい例がボイスのカラオケでした。

 

 


 

会田誠|Makoto Aida

1965年新潟県生まれ。91年に東京藝術大学大学院美術研究科を修了。同時代の事象に止まらず、歴史への批評的な言及や、既存の文化や社会に疑問を投じる多彩な活動で知られる。近年は、森美術館での大規模個展『天才でごめんなさい』(2012)、ナントのブルターニュ公爵城で『Le Non-penseur(考えない人)』、新潟県立近代美術館で『ま、Still Aliveってこーゆーこと』(2015)などの個展を開催。『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』(東京都現代美術館、2015)、釜山ビエンナーレ2016、『Imaginary Asia』(ナムジュン・パイク・アートセンター、ソウル、2017)、『COOL JAPAN』(オランダ国立民俗学博物館、ライデン、2017)、『Japanorama: New Vision on Art since 1970』(ポンピドゥー・センター・メス、2017)などの企画展に参加している。そのほか、藤田嗣治が描いた少女画を語った『藤田嗣治の少女』(絵/藤田嗣治、編/会田誠、講談社、2018)や椹木野衣とともに「戦争画」を考察した『戦争画とニッポン』(講談社、2015)に加え、小説や漫画など著書出版物も多数。

2018年2月には、表参道の特設会場で個展『GROUND NO PLAN』(主催:公益財団法人大林財団)を開催。選考委員の推薦に基づき、建築系の都市計画とは異なる視点から都市におけるさまざまな問題を研究・考察し、理想の都市のあり方を提案・提言するという企画において、会田自身の考える未来の「都市」「国土」をドローイング、完成予想図、建築模型、絵画、インスタレーション、映像、テキストなど多彩なメディアを用いて表現した。

会田誠「GROUND NO PLAN」
2018年2月10日(土)-2月24(金)
表参道・特設会場(東京都港区北青山3-5-12青山クリスタルビルB1F、B2F)
主催:公益財団法人大林財団
http://www.obayashifoundation.org/urbanvision_adopt/event/2017_aidamakoto/

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