キム・ヘジュ インタビュー

波を読む
インタビュー / アンドリュー・マークル
翻訳 / 馬定延、良知暁

 


Song Min Jung – Custom (2022), mobile phones, video installation, dimension variable. Installation view, Choryang, Busan, 2022. ⓒ Sang-tae Kim All images: Unless otherwise noted, courtesy Busan Biennale Organizing Committee.

 

釜山ビエンナーレ2022は、朝鮮半島に接近する大型で強い台風と、熱い期待を背負いはじまったフリーズ・ソウルとともに9月3日の開幕を迎えた。理想的な幕開けとは行かなかったが、「波の上の私たち(We, on the Rising Wave)」と題されたビエンナーレは、その期待を裏切らないものだった。アートソンジェセンターの副館長を前職とするアーティスティックディレクターのキム・ヘジュは、過去から現代に至る国境を越える貿易や人口移動、衝突の数々の中に釜山を位置付け、ダイナミックかつ洗練された展覧会を纏め上げた。また、4つの会場はそれぞれ異なる性格や密度を展覧会にもたらすものであった。2018年の開館以来、ビエンナーレのメイン会場としての役割を果たしている釜山現代美術館は、1階から3階まで続くホワイトキューブでアルトゥロ・カメヤの没入型のインスタレーションからオトボング・ンカンガのパフォーマンスまで幅広い表現を受け入れていた。釜山港第1埠頭は、その骨組みは台風でぎしぎしと軋み、雨水がぽたぽたとしたたり落ちていたが、旧倉庫のだだっ広い空間に複数の作品が散りばめられた。同じく釜山港が見渡せる影島の工場跡地には、イ・ミレの建築現場の足場を組み上げたような巨大なインスタレーションや韓国と日本の醸造酒の製法を組み合わせた自家製のアルコールのボトルが並べられたChim↑Pom from Smappa!Groupのもぐりの酒場が設営された。そして、草梁地区の廃屋は、ソン・ミンジョンのプロジェクト専用の展示会場となっていた。キムのキュレーションは表題に付けた「波」を、テクノロジーの凄まじい変遷における情報の流れや釜山のなだらかな丘陵地形のメタファーに、国内外の69人/組の参加アーティストの実践を地元・釜山の文脈に結びつけるとともに、逆に地元の文脈を使いながら、ポストコロニアルの記憶、先住民族の権利、気候正義といった参加アーティストを結びつけるテーマを展開するものだった。

ART iTでは、ビエンナーレ開幕後のキム・ヘジュにメールインタビューを実施し、展覧会制作のプロセスについて語ってもらった。

 


 


Alexander Ugay – More Than a Hundred Thousand Times (2020), single-channel HD video, 35 min. 48 sec., video still. Commissioned and produced by Art Sonje Center, Seoul. Courtesy the artist.

 

ART iT あなたはパンデミック下で大型国際展を経験した数少ないキュレーターのひとりですね。このような特殊な状況は、あなたが釜山ビエンナーレ2022を準備したり、釜山を韓国国内および国際的な文脈に位置づけたりする上でどのような影響をもたらしましたか。

キム・ヘジュ(以下、HK) 私がアーティスティック・ディレクターに公募で選ばれた2021年4月は、まだパンデミックの最中でしたが、ワクチンが開発されて韓国でも接種がはじまったことで、状況が改善されていくのではないかという期待も膨らみはじめていました。一方で、このパンデミックはそれまでの盲目的な開発とそれによる環境破壊の結果だという反省的な議論が起こり、ウイルスの拡散の速さは個人間から国家間まで全地球的な繋がりを明らかにしました。釜山ビエンナーレの準備期間は、こうしてパンデミックに触発された現実に対する意識が高まっていた時期に重なっていました。私たちの間にある繋がりの強さを認識したことで、それが世界にもたらす作用を見つめ、それをどのように活用すべきかを問い直すきっかけになりました。

国境が閉ざされて、移動も制限されて、一部の国ではロックダウンまで実施されたことで、個人個人のごく身近な暮らしに対する新たな関心が生まれました。また、行動の範囲が狭まった影響で、地域の歴史に対する好奇心も高まりました。「波の上の私たち」という展覧会は、パンデミックについて積極的に語っているわけではありませんが、その準備過程で間接的に影響を受けたのは事実です。2022年10月現在、国境間の移動はふたたび円滑になり、パンデミック関連の制約も減ってきました。韓国では相変わらずたくさんの人々が外出時にマスクを着けていますが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対する恐怖はかなり薄まってきたように思えます。個人的には、パンデミックがきっかけとなったさまざまな憂慮、変化を促す要請、重要な問いかけなどが、短期間で霧散してしまうのではないかという気もしています。

 

ART iT 近年では、国際的なリサーチのためにキュラトリアル・アドバイザーのチームを組むといったやり方をよく見かけるようになってきました。パンデミック下で大型国際展を企画する機会が与えられたとして、最初に意識するのは広範なネットワークを組み立てることかもしれません。あなたがアドバイザーをクリスティン・トーメ、フィリップ・ピロット、ユク・ホイの3人に絞ったのは意図的なことだったのでしょうか。

HK 釜山ビエンナーレの場合、キュラトリアル・アドバイザーの招聘は、アーティスティック・ディレクターに任されています。たとえば2020年は3人だったのに対して、その前の2018年はアドバイザリー・コミッティーの形式を採用しました。私が声をかけたみなさんは、展覧会制作から学問領域に至るまでの豊富な経験とビエンナーレのような大型国際展の企画に関するノウハウを持っているので、必要な助言は十分にいただけると思っていました。もちろんより多くのアドバイザーを起用しなかった理由には、パンデミックの影響で自由な旅が制限されているため、彼らを釜山に招待したり、私から訪問したりすることができる環境ではなかったことや、まだオンラインのコミュニケーションに依存しなければならない状況もありました。公式なアドバイザーという形ではありませんでしたが、初期段階のリサーチでは、釜山の文化研究者、歴史学者、建築家など、さまざまな領域の専門家から助言を受けました。

 


Kim Dohee – Shrimp Fingers (2017), archival pigment print, 59.4 × 84.1 cm. Installation view, Pier 1 of Busan Port, 2022. ⓒ Sang-tae Kim


Hwayeon Nam – You Only Live Twice (2022), single-channel video, 6-channel sound, 47 min. 48 sec. Production still. Photo Gim Ikhyun, courtesy the artist.

 

ART iT 「波の上の私たち」では、釜山が戦略上重要な港湾都市として、これまでいかに国境を越える貿易や人口移動、衝突が発生する要所であったかを考察しています。展覧会制作の最初の段階で思い描いていた核となるような作品はありましたか。

HK 展覧会の準備段階において、「移住」、「女性と労働」、「都市と生態系」、そして「技術的変化と地域性」をリサーチの方向性として設定して、国内外のアーティストと作品を調べはじめました。

「移住」は、港湾都市である釜山の人口構成において重要な問題ですが、ビエンナーレ以前から私が個人的に関心を持ってきた主題でもあります。移住者の重層的文化と言語経験、そして各個人と歴史的な物語の接点が、作品としてどのように表出されるかに関心があります。コリアン・ディアスポラに関しては、高麗人3世のアレクサンドル・ウガイ、韓国人のハワイ移住をリサーチしてきたキム・サンファン、ノマドをテーマに制作してきたキム・ジュヨンの作品を思いつきました。

「女性と労働」に関しては、影島のカンカンイ村(原注:修理造船所が密集していた地域)を背景とするキム・ドヒの作品を思い出しました。チェ・ホチョルの作品も労働、とりわけ女性労働者という文脈で重要でした。チェは、労働者の権利闘争に参加したという理由で37年前に旧・韓進重工業(訳注:当時は大韓造船公社・現在はHJ重工業)から解雇されて、今年復職したキム・ジンスクという女性が、2011年に造船所のクレーンの上で行なった高空闘争の様子を扱っています。釜山の産業と歴史に関連して、カン・テフン、オ・ソックン、キム・イクヒョンら、「都市の生態系」に関してはイ・インミを即座に思い浮かべました。

こうしてまずは主に釜山をはじめとする韓国人アーティストのリストから充実させていきました。しかし、釜山を展覧会の出発点にするとはいえ、それは決して地域主義や民族主義を描き出すためではありません。むしろ、釜山という都市を描写する既存の言語から漏れているものを引き出し、そうすることで都市の多面的なアイデンティティとささいな物語を見直すことを意図していました。また、私たちが重要視していたのは、釜山が置かれた状況が釜山のみに特化したものではなく、ほかの地域や国が置かれた歴史的状況に接続しているという事実を明らかにすることでした。ある地域の特殊な状況に文脈を狭めてしまうと、閉鎖的なアプローチに陥ってしまいかねません。そこで、リサーチ旅行を重ねながら、そのような繋がりを持つ国外のアーティストの作品リストを作っていきました。

振り返ってみると、展覧会の中心となるアーティストがいるというより、4つのサブテーマをリサーチの軸に、心の中で作品と作品を繋ぐ地図を拡張していくことで、全体的な絵が出来上がっていきました。

 

ART iT 釜山港第1埠頭をはじめ、特徴的な雰囲気を持った展示会場と個々の作品とのバランスはどのように考えていましたか。

HK 釜山ビエンナーレは2018年以来、メイン会場の釜山現代美術館のほか、毎回、新しい都市空間を見つけて使用してきました。昨年、会場を探しているとき、釜山港第1埠頭の空き倉庫が使用可能だと知りました。2006年に釜山西部に建設された新港湾の運営に伴い、釜山では機能停止した埠頭の一部をパブリック・スペースに変える再開発が行なわれています。ところが近代釜山最初の埠頭である第1埠頭は、その歴史的な重要性が考慮されたため、しばらく開発が猶予され、関係者と地域住民との間で活用方法が議論されています。

釜山港第1埠頭の倉庫は、約4000平方メートルの広大な空間なので、実際に展示会場として使用することは大きな挑戦になりました。これまでに展示会場として使われたことがないだけでなく、物もなく打ち捨てられていた倉庫のために空間の状態も悪く大幅な修理が必要でした。それでも、この場所が持つ歴史そのものが、移住と開港を起点にした釜山という近代都市を出発点とする今回の展示に相応しいものだったので、熟慮の末に使用を決めました。また、展覧会タイトルにある「波」を具現化するために、個々の作品と空間の関係のダイナミックな変化やスケールの差異なども考慮して、民家、美術館、倉庫といった用途や規模の異なる空間を使用することにしました。釜山港第1埠頭の倉庫はずっと空っぽだったので、昨年12月に初めて訪れてから、空間のスケールに慣れるために何度も会場を行き来しました。だだっ広い空間の特徴を活かしつつ、予算を節約するために、仮設壁を使わずに作品を群島のように配置しました。

会場設営の際に展示空間で過ごしながら、鑑賞者の視線の中で作品がどのように組み合わされるだろうかと考えながらインストールしていく時間が好きです。第1埠頭では、区切られた空間の多い美術館と異なる文法の展示を試すことができました。空間の規模を考えて、小さな作品をたくさん配置するよりも、大きな塊を置く方が効果的だと考えました。ヒョン・ナム、チョン・ヒミン、キム・ジュヨンは、普段よりも大きなスケールの新作に挑戦してくれました。パキスタンのガダニの船舶解体産業を描いたヒラ・ナビの映像作品は、会場のどの場所からでも見えるように大画面にしました。造船業が発達した釜山と嶺南地域もまた、ガダニと同じく、いまだにその労働環境をめぐる問題が議論されているので、その点でも展示の文脈に合う作品でした。木の枝などの小さなものを集めたナム・ファヨンや、小さなスマートフォンを大きな木製デッキの先端に付けたソン・ミンジョンの作品は、空間の規模と文脈に呼応したインスタレーションの一例ですね。

 


Hira Nabi – All That Perishes at the Edge of Land (2019), single-channel video, sound, color, 30 min. 33 sec., video still. Courtesy the artist


Hsu Chia-Wei – Samurai and Deer (2019), two-channel video, 8 min. 50 sec. Installation view, the Museum of Contemporary Art Busan, 2022. ⓒ Sang-tae Kim.

 

ART iT 日本や大日本帝国の歴史を扱ったアーティストの作品が複数あることも印象に残りました。韓国のキム・イクヒョンとソン・ミンジョン、台湾のシュウ・ジャウェイ、マレーシアのオウ・ソウイー、そして、各国の日本家屋をリサーチしている鎌田友介。これは展覧会の重要なテーマとして考えていたのか、それとも偶然が重なった結果によるものなのか、どちらでしょうか。また、こうした作品はアジア太平洋地域の脱植民地化というより広い議論にどのように貢献することができると思いますか。

HK 釜山は日本から最も近い位置にある韓国の都市です。朝鮮時代から倭館(訳注:朝鮮王朝が日本との外交・交易のために設けた日本人居留地)を通じて日本と交流しており、都市の形成において日朝修好条規(韓国語表記:江華島条約)と1876年の開港が決定的な影響をもたらしました。こうして、日本との関係が都市形成の重要な要素として作用してきた釜山、特に近代以降の釜山を語る上で、植民地時代に言及しないわけにはいきません。今回、幾人かの参加アーティストが、家屋、鉄道、埠頭、産業施設、海底ケーブルなど、技術の導入とそれに伴う都市の変化を参照しました。当時の国際的な情勢から切り離すことのできない激動の近代が、シュウ・ジャウェイ、オウ・ソウイー、鎌田友介の作品を招き入れる文脈を用意しました。

キム・イクヒョンとソン・ミンジョンはどちらも30代で、幼年期から青年期の1990年代を釜山で過ごしました。韓国では1998年まで日本文化の輸入が禁じられていましたが、釜山は日本のラジオの電波を拾えるほど距離的に近く、比較的日本の文化に接しやすく、日本に往き来する家族がいる家も珍しくありませんでした。キム・イクヒョンは、灯台や鉄道などの近代技術を光や写真に結びつけた上で現在の視点から言及しています。彼はパンデミックによる国家間の移動の困難を日本在住の写真家、山本華とのコラボレーションを通じて乗り越えました。一方、ソン・ミンジョンはミステリーの形式を借りて、はっきりと区別できないふたりの人物の物語を日本語のナレーションで語り、スマートフォンを使って展示しました。

展覧会の準備過程や作品から連想した30個の単語を用語集の形でまとめて、ウェブサイトに「浮標たち」と題した目録として公開しました。その中にある、敵産家屋=日式家屋(訳注:日本人が韓国で所有していた建築物。1945年にアメリカ軍によって「帰属財産」として登録管理された後、1948年の大韓民国政府樹立の際に国有財産となった。)、芙蓉会(訳注:植民地時代に朝鮮人男性と結婚して韓国に住むことになった日本人婦人の会。名称は韓国の花でも日本の花でもない、第3の国である中国の花である芙蓉にちなんだ。)、玄界灘、開港、対馬などの単語は、日本に直接関係があります。他方、シュウ・ジャウェイは17世紀のオランダの東インド会社が仲介した、日本と東南アジア間の貿易に関する作品を、オウ・ソウイーは、第二次世界大戦中にイギリス領マラヤで日本軍の諜報員として活動した谷豊をめぐる実話がフィクションとして拡張していった展開を見せる映像作品を発表しました。こうして、植民地時代とその前後の時代における釜山の変化を、ほかのアジア地域の状況と比較したり結びつけたりすることがとても重要だと考えています。それによって、いまの私たちの世界、同時代のアジアがどのように形成されてきたのかを理解することができるだろうし、そのような理解が相互に影響を与え合うコミュニケーションを可能にしていくのではないでしょうか。

 

ART iT 「波の上の私たち」で強い存在感を残した作品は、ニューヨークに拠点を置くチョン・サップ・リムやカザフスタン出身のアレクサンドル・ウガイ、韓国人とオランダ人の間の養子であるサラ・セジン・チャン(サラ・ヴァン・デル・ハイデ)といったコリアン・ディアスポラのアーティストたちでした。ディアスポラの存在に対する韓国国内の意識はいまだに高いのでしょうか。それとも若い世代は積極的に知ろうとしない限り、馴染みのないものなのでしょうか。

HK 個人的にはディアスポラの話は韓国社会からどんどん忘れられているように感じています。特に中央アジアの高麗人3世たちがそうです。近年、そこからたくさんの人々がコリアン・ディアスポラとして韓国に戻ってきていますが、彼らは地域社会から外国人のように扱われています。展覧会を通じてディアスポラと移住を取り上げたのは、釜山が19世紀末から朝鮮戦争と産業化の時代を経て、さまざまな地域から移住してきた人々が暮らしてきた都市だという点を想起させて、そのような開放性と包容力を擁護し守らなければならないという考えがあるからです。釜山はかつて1979年に独裁政権に対抗し、釜山馬山民主化抗争を起こしたような進歩的な都市でした。ところが現在は保守化が進みつつある。私はその事実を懸念しています。釜山の人口は減少の傾向にありますが、海外から流入する人口は増えていて、特に漁船業の船員として働く移住労働者が多いです。そのような移住者に対する包容力が必要だというメッセージが、間接的にでも人々に伝わってほしいと願っています。

 


Gim Ikhyun – Into the Light (2022), single-channel video, rear projection, sound, 25 min. installation view, the Museum of Contemporary Art Busan, 2022. ⓒ Sang-tae Kim.

 

ART iT レクチャー・パフォーマンスの流行に表れているように、近年、アートは教育的転回の傾向にあります。歴史的な出来事から現代の社会問題まで、鑑賞者にあらゆる情報を伝えるためにドキュメンタリーの手法を利用した作品もそうした傾向のひとつですね。同時に、そもそも行政からかなりの額の助成金を受ける国際展は、地域の人々に現代美術を紹介し、どのように体験するものなのかを示すという教育的な機能を担ってきました。釜山ビエンナーレ2022では、美学的なものと教育的なもののバランスをどのように考えていましたか。地元の観客に展覧会はどのように届いていたと思いますか。

HK 個人的な経験として、特に事実から出発するリサーチに基づいた作品の場合、情報を伝達するという特徴が強く出る傾向にあると思います。例をふたつ挙げると、釜山の靴産業をアマゾンと東南アジアのゴム生産と繋げたフランシスコ・カマーチョ・エレーラの作品や、パキスタンの船舶解体労働に関するヒラ・ナビの作品ですね。また、今回の展覧会には釜山を拠点に活動するドキュメンタリー映画監督の作品も複数含まれています。総じて、展覧会のテーマの具体性が、作品のメッセージと物語の中の事実にはっきりと反映されていると言えるでしょう。もちろん、それと同時に、これらの物語や事実を織り交ぜる方法論はアーティストによって異なるので、どのような形式からどのようなメッセージが強調されるのかを観察することも興味深いです。観客が大きな関心を示したものとして、リズミカルなサウンドと画面構成を通じて現在のヨーロッパ社会に対する批判的なメッセージを投げかけたオーエン・ライアンの《Doggerel》(2022)と、情報的な性格の発話が豊富な含意を持つ複合的なシニフィアンとして作動する笹本晃のレクチャー・パフォーマンス映像《Yield Point(降伏点)》(2017)を取り上げることができます。

おっしゃる通り、一般的にビエンナーレでは通常の展覧会より幅広い多数の観客に来てもらうことができるので(原注:会期終了後の集計によると、今年の来場者数は約138,000人)、現代美術に対する理解の異なる多種多様な観客にどのようにアプローチすればいいかという点については当然考えさせられました。特に地元の観客にとって、この展覧会が各自の都市に対する記憶や経験を結びつけたり、都市そのものを再発見したりする機会になればという個人的な希望を抱いていました。結局、鑑賞者に何をどのように届けるのかを決めるのは作品自体かもしれませんが、展覧会全体を鑑賞するという身体的かつ感覚的な経験を通じて得られるものもあると思いました。意味と形式の両方における作品と作品の間の繋がり、イメージとメディアの変動から感じられるリズム、作品同士や空間同士の間のスケールの変化から立ち現れるリズム、これらすべてが展覧会の鑑賞において、ある種の情動的経験を生み出すことがあると思います。また、作品と作品の間に動線上の余裕を確保するようにも心がけました。ビエンナーレのような大規模の展覧会では、作品の数に圧倒されてしまい、結局見たものが記憶に残らないことがあるので、作品と作品の間で呼吸を整えつつ、思考を繋いでいくための余裕を与えたいと思っていました。今回の展覧会における、美学的なものと教育的なものの間のバランス、そして、観客の鑑賞体験に対する考慮というのは、おそらくそのようなものだった気がしますね。

 

 


キム・へジュ|Haeju Kim
1980年釜山生まれ。2017年から2021年まで、アートソンジェセンター副館長を務めたのち、釜山ビエンナーレ2022のアーティスティック・ディレクターに就任。2000年代中頃より、安養パブリックアートプロジェクト(2005)および釜山ビエンナーレ2006でのコーディネーター、ナムジュン・パイク・アートセンターのアシスタントキュレーター(2008)、韓国ナショナル・シアターカンパニーのリサーチャー(2011-2012)を歴任。アートソンジェセンターでは、『Dust, Clay, Stone』(2020)、『Night Turns to day』(2020)、『The Island of the Colorblind』(2019)といった企画展のほか、田中功起、ナム・ファヨン、ク・ドンヒ、リー・キットらの個展を手掛けた。そのほか、パフォーマンスとさまざまなヴィジュアルアートが交差する領域を探究する『Moving/Image』(ムルレ・アートスペース、ソウル、2016/アルコ・アートセンター、ソウル、2017、『This event』ソウル市立美術館、2020)なども企画している。

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