椿昇 インタビュー (2)

「10IN 2009」(2009) 撮影:四方邦熈、写真提供:京都国立近代美術館

ART iT 卒業してアーティストとして生きていこうという学生はいるのでしょうか。

NT います。続けていく彼らをどうやって支えていくかということを現在、考えています。絵画を制作しているアーティスト何人かで共同で住み込んで制作できる場所を大学に借りてもらうことを計画中です。大学院をでてからも制作を続けられる場所です。そうした場所は非常に重要だと思っています。
今回の卒業制作展では全部の作品に価格をつけました。価格付けの講習会を事前に行い、その後、自分自身で値段をつけてもらった。最初はすべて10万円以下です。将来値段あがっていくことを考えたら、最初から価格を高くするわけにはいきませんから、高い値段をつけないように言いました。最終的な全体の売り上げは150万円くらいまでにのぼったかな。今だけかもしれないけれども、大学で売るということについては買う方も倫理観を持って買ってくれます。明らかに投機目的というよりは、応援してあげようという気持ちで、関係者を中心とした人たちが買ってくれました。また、個々の作品がわかるカタログも作りました。毎年こうした形式を続けようと思っています。
今回それまで展覧会をやっていた京都市美術館から引き上げ、学内でアートフェア形式という形をとった展覧会にしたので、最初は大反対に遭いました。でも、結果は大成功に終わりました。
人気のある子は、そこでギャラリーがいくつも声をかけて来るわけですが、そこで浮かれるのではなく、自分の将来を見据えたかたちで、きちんと付き合えるギャラリーが来るまでは焦らずじっくり制作した方がよい、と言い続けています。最初の頃から作品をたくさん売るのではなく、腰を据えて制作しつづけろと言ってあります。

ART iT それは素晴らしいけれども、難しいことでもありますね。

NT 難しいけれど、そこでしくじって、オークションとかでぼんと高く売られたりすれば値段が張り付いて作品が塩漬けになってしまう。商業主義でないところ、育ててくれそうなギャラリーを見つけてほしいと思っています。最終的に選ぶのは学生自身ですが、ちょっといい話があったからといってとびつくな、と言ってあります。早く個展をしたりする必要は全然なく、きちんと作品を作り続けること、一冊でも本を読んで教養を深めることなどが大切だということを伝え続けているわけです。体力のないうちに飛ぶと焼け死ぬということを教えます。
その他にも京都の妙心寺・退蔵院で、若い絵師を採用してもらって、半年間の修業の後、3年間くらい給料を払って障壁画を描いてもらう。これまで日展に参加しているような年配の方がやっていた壁画の仕事を若い子にさせてもらおうとしています。寺が世界観を絵師に伝え、絵師がそれを描く。昔の日本がやっていたことですが、こうした制作を続けられる環境を少しずつではありますが整えたいと思っています。
そうやって我々は厳選した作品を仕入れて世の中に売っていく仕事をしています。そこまでが学校の任務だと思っているからです。どこの家にもある袋棚用に小さい作品をたくさん買ってもらう袋棚コレクション、それから作品のリースなど、さまざまなアイデアで細かく作品を普及させて、学生達が作品を作り続けていけるシステムを考えています。作家をやめずになんとか暮らしていけるようになる、それができるシステムです。会社に入って就職してしまったら、制作をやめてしまい、素晴らしい才能を持っていたとしても作家としてはつぶれていってしまいますから。
先ほど話したカナダの例のように、ある程度まで皆で支える仕組み、つまり共同体が作品を買ってくれるような所にいたら、作家としてつぶれないで制作活動を続けるわけです。そうして作家として続けて行く人を現在の2%から15%にのばすことはできると思っています。ただし、それを50%まで引き上げることができるとは思っていません。

ART iT そこまで手取り足取りしなければでてこないアーティストであれば、必要ではないのではないでしょうか。本当のアーティストは、どんなにしがみついても制作をやめないと思います。

NT そういう天才は別に教育もいらなければ、戦時下でも何でもどんな状況下でも必ずでてくるので、そういう人の話ではありません。でも、一方でJリーグができて、ここまでサッカー人口がひろがって、初めて世界の一流選手と肩を並べることができる長友選手がでてきたように、また、スケート熱心なお母さん達ががんばっていることで、愛知県から世界的なフィギュアスケーターが何人もでてくるように、裾野を広げた環境からでてくる人材が必ず存在します。東ヨーロッパでは国家がサポートしていたときはトップアスリートやすばらしい音楽家をたくさん輩出していたにもかかわらず、崩壊した途端にでてこなくなった。それが教育ということだと思います。教育はシステムを整えてそれに沿って行なうことによってある程度は人材を作り出す事が可能だと思っています。
教育はコストをかければ見返りがあると思います。それは先ほど例に出したJリーグも、フィギュアスケートも同じです。ただし、アートの場合はそうしたコストに見合ってレベルがあがっていないのです。掛け捨ての状態になっています。それが教育のシステム自体にもし僕らが関わっているとしたら、そして給料をもらっているのであれば、そこは自分たちが責任を持ってそこをブラッシュアップしていかなければいけないでしょう。そういう責任もあって、作家として生きていく人が15%くらいは必要ではないかと思い、その実現に向かって手だてを考えています。

ART iT 美術大学がきちんとプロを産み出す機関として成立するようにしたいということですか。

NT 例えば最近、京都市立芸術大学の油画専攻からギャラリーでも活躍する画家が出てきていますね。それは偶然ではなくて、システムができているのです。鶴田憲次先生という僕の先輩がいるのですが、彼が京都市立芸術大学の油画専攻の教育システムを作りました。チュートリアルシステムを作り上げ、かなり丁寧に育てていきます。だからそこから作家が何人か出てきています。ちゃんと仕込みがあるから育ってくるのです。野放しでは育ちません。数が揃ってくるとその中からさらによりグレートなアーティストがでてくるのです。従って、裾野を広げて数を増やすことは絶対必要なのです。
アーティストとしての仕事人生は長いから、学校を出てから、どれだけ一生かけて続けられるかその仕組みづくりも含めて考えている。いろんな工場の提供もあり、制作スペースもどんどん増えて行っています。大学院でてからとりあえず場所も確保して、みんなで支えていこうという仕組みづくりです。大学でやりはじめたら、こういう規模でできるということがある。


京都造形芸術大学 「グループワークショップ-京造ねぶた-」(2008年)

ART iT 作家としてのクオリティが未熟な場合はどのように指導しますか。

NT 未熟な場合も、いきなり変わる場合があるから面白い。最初はだめかもしれないと思っていてもある日突然何かのタイミングでブレイクしたりする。僕の直感とかは全く当てにならない。それが非常に面白くてこの仕事を続けています。

ART iT ほめ上手なのですよね。

NT もちろんほめ上手だけれど、それぞれ個人の良いところを見つけて、そこをのばす具体的なメソッドを伝えること。例えばメディアはこういうものを選べとか、具体的なアドバイスです。
人を変えるのではなくて、今いる人の認知の枠組みとかを変えるようなことです。思い込みから解放してあげることです。それを学生はもちろん、学内全体に広げていきたいと思っています。

ART iT 作品の話に戻りますが、2010年の瀬戸内国際芸術祭で、「ねぶた」の技術をつかった「高松うみあかりプロジェクト」が行なった試みについて、教育の観点からは肯定します。一方で、作品のクオリティを見たときにやはりどうなんだろうか、という疑問は残るわけです。作品のクオリティと、生き方や共同体を強くするプロジェクトとの結びつきやつながりと言ったものがやはり見えにくく、少なくても作品を見るだけでは、このプロジェクトが意図しているものは何であるのかということが鑑賞者にはわからないと思います。

NT 確かにそのふたつを繋ぐパイプを見せることはまだ出来ていないと思います。その繋がりがまだブラックボックスのままです。あの展示においてはその繋がりを示すパイプを顕在化できなかったということです。それが次の課題だと思っています。僕自身の課題でもあるし、その結節点を創造することは日本のアート全体を考えても非常に重要なことだと思います。そこを緻密にやっていかないと、旅行としてアートを楽しむ人はいいけれども、目の肥えた専門家が良い作品に出会うためにはそこの部分を超えないとだめだと思います。

ART iT 人がひとつ美術作品に出会って衝撃を受けること、というのは実際あるので、そうした視覚的な力はやはり作品に内在するものだと思います。

NT それは絶対的にありますね。先日、十和田市現代美術館に自分の作品「アッタ」(2008)の修理に行ったときに、外国から来た老夫婦が鑑賞していらして、僕が作品の横に館長といたら、館長が「この人の作品ですよ」と言ってくれたんですよ。そしたらその老夫婦は「この作品を見にきたんですよ」と言うのです。それは非常に嬉しかった。わざわざ十和田まで来て作品が見たいといってくれる人がいる。


「アッタ」(2008)

ART iT たとえばそういう風に、自分の作品を見てもらって嬉しいと思う気持ちと、ねぶたで人を巻き込んで作り上げる際のうれしさに違いはありますか。

NT 後者はエンドユーザーを増やすためのものですから、そこに手を付ける人が必要だった。瀬戸内国際芸術際における僕のミッションは非常にクリアでした。高松の人たちは、自分たちの税金を使っているのに島ばかり盛り上がって我々は関係ない、とそっぽむいていたものを、高松の人をどう巻き込むかということで自分に声がかかった。そうであれば非常に簡単で対面商売なわけです。どれだけ信頼してもらえる人が来るかどうかで測れるわけだから、学生たちと一緒にほぼ3ヶ月はりつきで頑張った。その結果、高松の人たちも一緒にやろうという風になったわけです。最終的に15チームあった中で、だれも離脱者がでませんでした。

ART iT 今回はそういうプロジェクトでの参加だったわけですが、作品を作ってほしいと言われるのと、どちらが嬉しいのでしょうか。

NT どちらが嬉しいとかではなくて、両方必要だと思っています。作品至上主義ではなくて、共存関係なのです。もちろんいい作品は必要ですが、レアル・マドリードのように、いい選手もいていいチームだけれど、スクールもきちんとしていてファン層も作って、常に見てくれる人を育てている。海外の美術館では教育プログラムに非常に力を入れていますが、それと同じで両方やらなければ駄目だと思っています。自分は、アーティストとして、常に作品制作だけではなくて、こうしたプログラム作りに関わっています。従って、僕にとっては両方やることは非常に自然なことです。エンドユーザーの現場を見続けてきているから、そこが薄くなると結果的にとてもいい作品をつくっているアーティストも痩せてくる。相乗作用が働くのです。だから作品制作以外のプログラム作りもやっておかないといけないと思います。高松の人たちとは信頼関係ができて、来年もやりたい、と言っている。それが自動的に動き始めたら、アートへの関心もでてくるし、価値判断も自分たちでできるようになる。
そういうことも皆で議論できるようになるし、アートが誰かのものではなくて、自分たちのものなのだとわかるようになる。だから実行していれば少しずつではあるけれども変わっていきます。
自分はアンダーグラウンドでがんばるリゾームのようなものです。地下茎がきちっとないとマツタケが生えないのです。マツタケは菌糸だから、見えないけれど地下に10メートルくらいの菌糸があるわけです。だからその地下茎がきちっとしてないと外にでるものもこけるわけです。植生のことも考えてこつこつがんばって僕はそこを豊かにするわけです。

ART iT 椿さんの作品制作と重なってくるわけですね。

NT 重なるというよりそのものです。生きることですから。作品は僕にとってはマツタケですが、一番大事なのは菌糸です。菌糸のところの一番中心に、作品もこのプロジェクトのシステムも同じところにあるわけです。だから作品はたとえ消費されても自分には影響がなくて、毎年マツタケとして出すことができます。作品がこどものように一番大事という考え方ではないわけです。だから自分の菌糸をなるべく大きくしたい。大学での教育もその一部で苗床みたいなものです。そうした活動を大きくすることによって、自分自身もいろんなマツタケをいろんなところに発生させることができる。学生達の作品が売れることもそうだし、その裏には「椿」印がなんとなくついていたり、そうすることで、シンジケートというか、きのこ仲間みたいなものが広がるわけです。


「mushroom」 (2009) 撮影:四方邦熈、写真提供:京都国立近代美術館

ART iT 展覧会を見続けているとやはり常に作品のことを中心に見るので、作品至上主義になっていきます。そういう見方では椿さんの活動は作品を通してという従来の形をとれないので、本質を見極めるのがそう簡単ではありません。

NT 作品至上主義は決して対立するものではなくて、いわば菌糸を支える骨格のようなものです。作品という形ででてくるマツタケの品質は保証しなくてはいけないわけで、アカマツで、国産で、といった質の保証と同じことで、それはもちろんします。僕の作品の最大の弱点は大凶作で3年に1回くらいしか僕自身の大きな作品として発表しないということ。天然のマツタケと同じなんです。

ART iT 教育にかけている時間の大きなよろこびはどこにありますか。突き動かすものは何ですか。

NT 変わる瞬間。予想を覆す瞬間です。人間というのは不思議な生き物で、僕自身の思い込みが覆されるとき、こんなやつがでてくるのか、と驚愕する時が面白い。そして教育現場で言えることはそこでかかわっている先生達も含めて基本的に心が温かい。そしてすごい才能や何かワクワクするものに出会ったとき、それは作品を通じてですが、それを見てそれを作る人間に会い、いろんなことが起こっていく快楽、それはすごい。それもアートに出会う衝撃です。

ART iT それは自分で作品を制作しているときの快楽よりも大きいのでしょうか。

NT いや、それは自分で作品を制作している時のほうが比べものにならないくらい大きい。ドローイングを描いて「俺は神だ!」などと思ったりするわけだから。

ART iT でも、その圧倒的な快楽を覚える作品制作の時間を削って、教育現場に居続けるというのは被虐的ですね。

NT そうです。全部売り渡している。毎年1回、すぐれた才能を世に出しながら、自分の身体と精神を全部学生に引きちぎられて自分は大凶作の状態が続いています(笑)。
そうやって身体をたたかれるキリストの様な心境です。自分はずっと苦難に苦しむ『ヨブ記』が好きだったので、そういう運命かもしれませんね。あれだけ叩かれぼろぼろになっていっても、屈服しないのは自分の哲学で、自分を削って出していく、という性質がもともと備わっているのかもしれません。だから自分の作品はマーケットから遠いのかもしれません。

ART iT でも美術におけるマーケットはひとつの要素でしかなく、現在はマーケット偏重ですがそれが長続きするかどうかはわかりません。しかし、人間の一生には時間的な制約がありますから、限られた時間を教育につかう、制作に使う、という選択は必要でしょう。そして椿昇という人間を残すことに興味はなくてもそのスピリッツを残そうとする場合、それはどういう形で残せると思いますか。

NT それは絶対に作品としてしか残りませんよ。5年に1回の凶作に耐えて残していく。ただ、それをせめて3年に1回くらいにする義務は僕にあると思う。

ART iT となれば、その合間に教育をすることで、椿さんの教えを受けられる幸運な人がいても、その人数は限られています。一方、残った作品によってスピリッツを伝えられる人数というのは、直接的な教育よりはもっとずっと大きく、さらには時間を超えて伝わっていきます。

NT それはその通りです。作品だけによって伝えられることは確かにあります。作品によって伝えられる教育も存在し、そこは非常に大きな問題です。質のいいマツタケの生産を増やさないといけないし、自分はしかもその良さを分かる人の所に行ってほしいと思っています。この問題については少しずつ考えています。マツタケというより奇妙なキノコですが、それを欲しいという人もいなくはないです。でもやはり常にいい消費者に届け続けたい。僕の作品の場合、マーケットがないことが幸いして、今のところ作品を純粋に欲しがってくれる人か、僕自身に興味がある人の所に届いています。

ART iT それはアートにおいて非常に基本的な考えで、そこには奇妙さは感じません。一方で、大学で行なっていることはよりマスを対象にしていて、アマチュアを育てているようにも見えます。

NT それは違います。アマチュアを育てているわけではありません。学生の中から目利きを育て、質の高いものを出していきたいと思っているのです。マーケットとしては小さいし、それぞれの価格は低いですが、質は維持します。大量にプロダクトを作ろうという方向では決してなく、継続的にやっていくことで質を上げていこうと思っています。すべては二律背反ですから、背反することを同時にやっていかないとエネルギーが生まれていかない、と思っています。

(2011年3月9日収録)

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