欧州滞在中のふとした出会いをきっかけに、パレスチナのヨルダン川西岸を訪れたアーティストの中島りか。長年イスラエルの軍事支配下に置かれ、戦争犯罪によるジェノサイドが継続中のパレスチナで、芸術はどのようにあり、どのようにありうるのか。ジェニンの難民キャンプでの子供たちに向けたワークショップを含め、現地の人と交流を重ねながら、芸術にできることは何かと考え続ける中島に、ひとりの青年がある問いを投げかける。
細長い腕が伸びた肩にライフル銃を背負った青年は、私が乗る車を止めた。
隣で運転していたユーセフとその青年は知り合いで、アラビア語で会話を始める。
理解できない言語のやりとりを想像しながら聞いていると、青年はふいにこちらに目を向けて英語で尋ねてきた。
「なぜこんな危ない場所に来たの?」と、その表情は冗談とも皮肉ともつかない笑みを浮かべていた。
私の目の前に立つ青年は見るからに若く、10代後半の年ごろのようだった。
一方で、若々しい顔つきとは異なり、何かを見据えるような、奇妙にも随分と大人びた印象を持つ。
青年の何かに圧倒された私は、どうにもすぐに声が出ず、笑顔で相槌を返すことしかできなかった。
帰国してから、あの場所で遭遇した青年を何度も思い出す。
しばらくして、青年は軍に殺されたとユーセフから聞かされた。
そこで、あの時に自分が何に圧倒されていたのかを理解する。
青年が背負っていた、死への静かなる覚悟を。

人が殺された。また殺された。次は、100人まとめて殺された。ーーーこの殺人者はどれだけ人を殺しても罪が問われないらしい。1年と8ヶ月が経ち、私の感覚はだんだんと麻痺してきたように思う。今、どれほど悲惨なニュースを知っても、驚いたり、動揺することはないかもしれない。それでも、どんどん悪化する状況を知れば知るほどに、言葉にできない感情が積もっていくばかりだ。2023年10月7日以降、パレスチナ・ガザ地区で起きているイスラエルの戦争犯罪によるジェノサイドで、今年6月25日時点で5万6,200人(パレスチナ保健省)、パレスチナ政策調査研究センター(PCPSR)協力の独立調査では、今年1月までに約8万4,000人の推定死者数が報告されている。[1] 今この瞬間も、人々が軍事暴力と飢餓に苦しめられている。
2024年7月、私はパレスチナ・ヨルダン川西岸[2]にいた。同年4月から3ヶ月間、スイスにアーティスト・イン・レジデンスのプログラムで滞在していた私は、そこで偶然にも東エルサレムを拠点にしているNGOで働く人物と知り合い、友達になった。それをきっかけにパレスチナ行きが決まり、その2ヶ月後には現地を訪れていた。短い滞在ではあったが、エルサレムをはじめ、ベツレヘム、ヘブロン、ラマッラ、ジェニンの各都市に友人の紹介を通して出向き、現地の人と交流をしながら滞在した。目的のひとつは、西岸北部のジェニンで文化センターを運営するユーセフと友人からの提案による難民キャンプの子供たちに向けたワークショップの実施だ。ベツレヘムで知り合ったパレスチナ人のアーティストには、ジェニンの状況は10月以前のガザに似ているから、行くのはやめた方がいいと言われた。西岸地区の中でも、ジェニンは特にイスラエルの軍事侵攻が頻繁にあるため、友人と前日まで状況を確認して相談しながら、行くことを決めた。
出発当日を迎え、ラマッラから相乗りタクシーに乗ってジェニンに向かった。目的地まであと10分というところで、ユーセフから「イスラエル軍が難民キャンプ内に来て、数人が殺された」と速報が入る。後でニュースを確認するとその日は7人が殺されていた。突然の報せに動揺し、隣の乗客に声をかけて、車内の6人の乗客と運転手にも伝えてもらったが、皆、慣れているような、落ち着いた反応だった。ここでは、「死」と隣り合わせの毎日が、彼らの日常なのだと痛感する。タクシーはジェニン手前の郊外で私以外の乗客を降ろし、市内の目的地を変更して、郊外のユーセフの家に到着した。ユーセフは出迎えて早々に「聞こえる?」と空を指差した。遠くから、イスラエル軍のドローンの音が、綺麗な晴天の空に響いていた。
翌日、ワークショップのために難民キャンプを訪ねた。会場は、女性労働センターの施設の中にある多目的室で、50人ほどの子供たちが出迎えてくれた。子供たちはシュプレヒコールのような歌を、出迎えにも見送りにも歌ってくれた。ワークショップでは、伝言ゲームを応用し、聴覚や触覚を使った即興的なアクティビティを行なった。言語の壁は大きかったものの、その場は常に子供たちの笑顔とエネルギーで活気に溢れていて、気づけば私は与える以上にたくさんのものを受け取ったようだった。事前に、ワークショップに集まる子供たちの多くが、両親を亡くしトラウマを持っていると聞いていた。日常のイスラエル軍による暴力から、怒りや憎しみを背負って成長する彼らは、未来や夢をみることができずに将来の夢を「殉教すること」と答える子供も多いという。目の前にいる子供たちが、そのような境遇にあることは信じがたく、しかしそれは紛れもない事実だった。


難民キャンプに入った時、ある境で写真や動画を撮らないでと言われた。理由は、武装した人を誤って撮影してしまわないようにするためだ。一方、ジェニンの街角のいたるところにポスターやバナーが貼られている。そこに写っているのは殉教者たちの姿だ。生前は表に出ることのない武装した青年たちの姿もそこでは公然と写っている。死後に殉教者のイメージを家族や仲間が公共空間に配置していく風潮は、パレスチナだけでなく中東を中心とするイスラム圏において多く見られ、中東文化における新しい追悼手段にもなっている。殉教者を賛美することは、テロリズムを助長するプロパガンダであるとしてイスラエル側の干渉も多い。そのため、多くのポスターやバナーは剥がされ、黒スプレーで塗りつぶされ、破壊されている。
アラビア語で「シャヒード(殉教者)」という言葉は、抑圧する者によって命を落とした犠牲者の概念であり、英雄性をその言葉は強調する。ソーシャルメディアを運用するMetaは「暴力的な言葉に関連する」として、一時的にその言葉の使用を禁じたこともあるように、西洋中心主義の社会では危険視されている。しかし、パレスチナで実際に見聞きした中では、それは単にイデオロギーや宗教心では説明できないように思う。占領下の生活環境・暴力・絶望が深く影響していて、それが、救いを求める彼らができる「唯一」の選択ともいえるかもしれない。この選択が問題とみなされるのであれば、それは彼ら自身を改めさせるのではなく、イスラエルの占領や軍事侵攻を真っ先に止めることが最優先されるべきだ。しかし、恐怖を語源とする「テロ」という言葉によって、抑圧する者の悪事は無視され、抵抗する者に対する大きな偏見が世界中に蔓延っている。
日常に存在する暴力に、子供たちはどう向き合うことが理想といえるのか。ジェニンでは、終わらないイスラエルの占領下の中で、子供たちに向けた教育に「芸術」の価値が見出されている。それは「ケア」の役割が強く、子供たちが自らと向き合い、自己認識を高めることで、彼ら自身の未来を考える力がつくと考えられている。また、ジェニンを拠点に劇場及び文化センターとして活動を続けるフリーダムシアター[3]の現プロデューサー、ムスタファ・シェタは2023年のインタビューでこう答えるー「私たちは彼らに『自分は誰か? どんな価値をもたらせるか?』と考えさせるようにしています。なぜなら、殉教という選択は、彼らが自分の命にどれほど価値を認識していないかに根ざしているからです。」[4] 2023年10月以降、ヨルダン川西岸でもイスラエル軍の襲撃は増し、12月にはフリーダムシアターの劇場も標的となり破壊された。ムスタファを含む3人の関係者が捕えられ、2023年12月13日から2025年3月31日までムスタファはイスラエルの刑務所にて罪や理由もないままに拘束されていた。
2004年にフリーダムシアターが制作したドキュメンタリー映画『Arna’s Children』を観てほしい。この映画は、ジェニン難民キャンプの子どもたちに向けた演劇プロジェクトとして始まったフリーダムシアターを設立したイスラエル人の活動家アルナ・メールとプロジェクトに参加した子供たちのストーリーである。1992年から2002年までの10年間にわたって撮影されたフリーダムシアターと参加した難民キャンプの子どもたちの成長を追った記録、そしてアルナの死後に息子であるジュリアノ・メル・カミスが子供たちのその後の人生を追跡する映像で構成される。
『Arna’s Children』(フリーダムシアターのYouTubeアカウントより)
映画の中で、イスラエル軍によって家を破壊されたばかりのアラーという少年に、アルナが問いを投げかけていく。アラーは途中から言葉を発せず、アラーの隣にいた友達のアシュラフが代わりにこう答えた──「彼ら(イスラエル兵)を殺したい。彼らを呪ってやる。」アルナはその言葉を受けとめ、自分をイスラエル兵だと思ってやってごらんと促す。すると、アシュラフはアルナを押し倒そうと立ち上がり、ふたりがじゃれ合うような光景をみて、黙っていたアラーの表情が微かにほころぶ瞬間が、とても印象深い。そして、フリーダムシアターに参加していた子どもたちのうち、アルナの死後、4名が武装して抵抗運動に加わって亡くなっていたことが、映画の後半で明らかになる。イスラエル兵に殺されたアシュラフ、ある子供の死をきっかけにイスラエルにて自爆攻撃を決意したユセフとニダル、そして武装組織の指揮者となり亡くなったアラー。彼らの死は、それぞれ映画の中で、過去の様子やインタビューと共に少しずつ語られていく。
殉教したユセフが生前にインタビューを受けている場面では、質問者がためらいながらも「シアターは抵抗する手段として暴力よりも優れていると思うか?」とユセフに質問し、質問の意味が理解できないとユセフは返答する。それに対して、質問者は言葉を変えて「シアターであなたの怒りや抵抗を表現できるか?」と問い、ユセフはフリーダムシアターで学んだことによって自分の感情や考えを言葉にすることができるようになったと返答している。質問者は、暴力ではなくて芸術へと誘導したかったのに対して、最終的に殉教という手段を選んだユセフは、ケアにとどまる芸術の外にある暴力にこそ、自分にとっての表現を見出したのかもしれない。このやりとりは暴力をめぐる芸術の限界を示唆している。
「芸術でどうにかする」という投げかけは、あまりにも空虚で、ただの理想論に聞こえてしまうかもしれない。それでも、この映画を初めて観たとき、フリーダムシアターというプロジェクトの挑戦に、私は深く心を動かされた。一方で、実際にジェニンへ足を運んで知ったのは、そこに渦巻く複雑な現実、イスラエルとだけでなくパレスチナ人同士にも存在する政治的対立や多層的な葛藤であり、そうした背景はこの映画の背後にも色濃く影を落としている気がした。アルナの死後、フリーダムシアターを継承していた息子のジュリアノは、2011年4月に武装した覆面の人物によって難民キャンプ内にあったフリーダムシアターの目の前で命を奪われている。

作品を作る立場として、私は文化・芸術を信じている。それは「ケア」となり、現実の問題に対しての抵抗手段にもなり得ることも。しかし、表現の自由も人権も奪われ、死と常に隣り合わせで自由がない現状のパレスチナではどうなのだろうか。あの日、ジェニン難民キャンプで私の目の前に現れた青年に武器を捨てることを勧めることが、私にはできなかった。なぜ私はジェニンに来たのか。青年の質問にちゃんと答える勇気が私にはなかった。自分が今考えられる答えを何通りも出してみて、想像してみる。アーティストで日本人の私がどう答えていたら、青年はどう返してきただろうか。青年と同じ土を踏んでいてもなお、あまりに特権的な私の立場は青年のいる場所には立つことができない、そう感じたあの時の感覚が、今も蘇ってくる。
青年が殉教したことを知って、私はユーセフに青年の写真など残っているものはないか聞いた。しばらくして、ユーセフからソーシャルメディアに投稿されていた動画のリンクが送られてくる。それは、生前の青年が映った動画だった。青年は、カメラに向かって次のように自分の思いを語っていた。
神が望むなら(インシャアッラー)、勝利の時に殉教したい。
すべてに勝利したい。神が望むのならば。
どう言えばいいだろう。勝利したい気持ちはある。
でも同時に、殉教もしたい。勝ちたいけど、殉教も望んでいる。
殉教者になりたい。
意味のない死に方はしたくない。
ただ、神が望むなら、殉教者として。
つまり、勝利した後に殉教したい。
僕は16歳の人間だ。
17歳になったらこの状況に飛び込むかもしれない。
17歳。あなたは17が何を意味するか分かる?
誰も失うことなく、尊厳のある人生は送れない。
僕はただシンプルに生きているだけなのに。
どうしてこんな現実を目の当たりにしなくてはいけないのか。
翌日には、誰かが殉教する。
いとこを見たと思ったら、彼も殉教している。
兄弟を見たら、彼も殉教している。
誰かが倒れて、目の前で血を流してる。
誰かが僕のそばにやってくる。
そして彼は殺される。
僕だって自分を守らなきゃいけない。
当然だ、自分を守るのは当たり前だろ?
自分自身と、この土地と、僕たちのすべてを守るために。[6]

*0 パレスチナについて知るには、市民がつくるパレスチナ情報サイト「OLIVE JOURNAL」のウェブサイトを推奨。https://olivejournal.studio.site/learn
*1 Rachel Fieldhouse「First independent survey of deaths in Gaza reports more than 80,000 fatalities」nature、2025年6月27日、https://www.nature.com/articles/d41586-025-02009-8
*2 イスラエルの占領によってガザ地区とは切り離されて位置するヨルダン川西岸も、長年イスラエルの軍事支配下に置かれ、現地のパレスチナ人は、監視され、土地を奪われ、人々が殺されている。https://ccp-ngo.jp/palestine/westbank-information/(「パレスチナ子どものキャンペーン」ウェブサイトより)
*3 フリーダムシアターのウェブサイト https://thefreedomtheatre.org/
*4 Virginia Pietromarchi「Why do some Palestinian teens in Jenin dream of ‘martyrdom’?」Al Jazeera、2023年7月14日、https://www.aljazeera.com/news/2023/7/14/why-do-some-palestinian-teens-in-jenin-dream-of-martyrdom
*5 Rana Barakat「Jenin and Her Horse: The Power of Symbols」Jadaliyya、2024年2月6日、https://www.jadaliyya.com/Details/45774
制作時の様子はこちらの動画で確認できる。https://vimeo.com/1045334265(Galerie Nagel DraxlerのVimeoアカウントより)
*6 ジェニン文化センター代表のユーセフに原文のアラビア語から英語に訳してもらったものを筆者が日本語に翻訳した。
中島りか|Rika Nakashima
1995年、愛知県生まれ。アーティスト。理性主義や資本主義に基づいて形成された公/私の境界に疑問を抱き、都市空間におけるそのあいだの曖昧な境界(閾=いき)をテーマに、主にインスタレーション作品を制作する。現代における生と死の概念を手がかりに、西洋における安楽死制度への関心を深め、近年はスイスやイギリスでのアーティスト・イン・レジデンスを通じてリサーチを行なっている。主な展覧会に「INTERSTICE」(le ventre、ヘーゲンハイム、2024)、「□より外」(TALION GALLERY、東京、2023)、「I tower over my dead body.」(Gallery TOH、東京、2021)など。2022年よりプロジェクトスペース「脱衣所 – (a) place to be naked」を始動し、以降はメンバーとともにさまざまな企画を手がける。2023年10月以降は、パレスチナへの寄付金を募る企画やイベントの運営にも注力している。
https://www.rikanakashima.com/