田中功起「不安についての短い手紙」

あなたは不安に思っているかもしれない。展示が見られなかったことを怒っているかもしれない。
あなたはおそらく観客のひとりだろう。ぼくが遅れて行う「再設定」のアクションをあなたはどう思うだろうか。
ひとつの決断をするにはさまざまな要素を検討しなければならない。そもそもこのプロジェクトはひとりのものではない。まずは出演者とコラボレーターたちがどのように考えるのかを聞く必要があった。行動には早さと同時に遅さも必要だと思う。いずれにせよ、決断はぼく自身の責任において行う。

扉は半分だけ開けておきます。映像はリンクで見れるようにします。このリンクは、ここで展示を見ることができなかったあなたのためのものです。
https://vimeopro.com/kktnk/abstracted-family(編注:現在リンク先の映像視聴はできない)

ひとつの出来事には、それに関わった複数の視点がある。事態の推移はとても早く、この手紙があなたに届く頃にはまったく思いもしない事態に変化しているかもしれない。ぼくもどのようにその新しい変化を受け止めているのかはわからない。どんな行動をしているのかもわからない。そもそも混乱しているということだ、ぼく自身は。

 
政治利用に対する抗議

表現の自由は守られるべきである。これは大前提である。
ぼくが閉鎖を決意したひとつの原因は、政治家たちによる自らの政治主張として芸術が使われたということだ。それは歴史を否定し、差別を助長し、人びとの気持ちをかき乱し、分断を生む。そこに未来のヴィジョンはない。

 
再設定

この状況に抗議し、自分たちの問題として考えるためには、展示自体のフレームを再設定することが必要であるとぼくは思う。ぼくは、このような現状を追認するためにいままで活動を続けてきたわけではない。これは私たちの問題であり、ここで行われるさまざまな選択と行動は、未来の誰かにも深い影響を与えることになる。

今回のぼくのプロジェクトは、フィクショナルな単一民族としての「日本人」像を解体し、出演者たちが曝されてきた差別について、観客が耳を傾ける行為を促すものである。そこで、もともとは展示の拡張として構想されていた二日だけのイベントを、毎週末のアッセンブリーとして拡張し、展示空間で行おうと思う。映像を通して出演者たちの声を聞き、そこで語られたこと/語れなかったことを考え、彼ら/彼女たちの言葉をガイドにして、観客同士がお互いに話せる場所にする。展示としての機能(開館時間内にランダムに行き来ができる鑑賞形式)は制限される。しかし限定された時間の中で「展示」を「集会化」する。これが、現在のあいちトリエンナーレが置かれている状況への、ぼくの暫定的なリアクションである。

 
組織運営の問題

「表現の不自由展・その後」が閉鎖された経緯には、コミュニケーションの問題が横たわっている。あいちトリエンナーレの実行委員会と不自由展の実行委員会は、相互にコミュニケーションを取れていたのか。安全性についての事前準備、問題が生じたときの対処方法、それらに不備はなかったのか。そして二つの委員会は、不自由展参加アーティストと連絡を取れていたのか。

 
コミュニケーション

そう、ぼくは今回の事態の本質には、それぞれにコミュニケーションがしっかりと取れていたのかどうかという問題が大きいと思うのだ。お互いの置かれている立場、状況を相互に理解する努力をしていたのかどうかということ。運営する側、参加する側、現場スタッフ、ガード、キュレーター、ボランティア、ディレクター、エデュケーター、アシスタント・キュレーター、アーティスト(他にも誰か抜けているかもしれない)。さらに、県、市、国、政治家、市民。展覧会の観客と、一連の事件を遠くから眺める観客、あるいは実際の展示を見ることなく反応する人びと。二つの実行委員会。そして複数の言語、文化環境や経験してきた政治背景の違い。

国内のアーティスト、海外のアーティスト、世代の違うアーティスト、ジェンダーの違うアーティスト、政治思想の異なるアーティスト、宗教の違うアーティスト、文化の異なるアーティスト。私たちは、どれほどお互いのことを知っているのか、知らないのだろうか。

 
検閲と自己検閲

思い出されるのは、2016年にぼくが書いた言葉。

「私たちは今の社会の中で、自由に発話している、と思っている。しかし私たちの自由は、いったいどの程度、自由なのだろうか。あなたは本当に自由に発話しているだろうか。あなたのその自由は社会の抑圧との交渉の中にあるとは言えないだろうか。あたなは、自主規制の名のもとに、自らを検閲していないだろうか。あるいは、あなたが自由に発話できたとして、その自由はほかの誰かを傷つけてはいないだろうか。」
(ARTISTS’ GUILD+NPO法人芸術公社編『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』torch press、2016年、p8)

検閲とは権力によってあからさまに行われるものだけではなく、ぼくやあなたのなかで(ためらいとして、あるいは「安全」の名もとに)自ら起きるものでもある。私たちは自由ではない。だから繰り返しこの問題について誰かと話してほしい。ぼくも話している。何が起きているのか、何が隠されてしまったのか、何をあなたはためらっているのか。

 
ばらばらであったとしても

それでも今回の出来事は、参加アーティストたちの中に多くの議論を生み、通常の国際展ではまったく話すこともなかったであろうアーティストたちの間にさまざまな繋がりを生み出した。それはぼくにとっては災害ユートピアのようなものに見えた。知恵を出し合い、対処をする小さなグループたち。
一方で、作品を見せることを中断することは人びとをがっかりさせるかもしれない。でもときには迂回も必要だと思う。

さらなる連帯のためには、正直な気持ちを話し、一度分かれ、そのあとで握手をすればいい。わたしたちはばらばらの個人だ。ならば、ばらばらのままであっても、共にいることを模索することもできるだろう。そしてこのような行動は、いつ、どこで、誰の作品に起きたことであったとしても、実行されていたと思う。今後、近い、あるいは遠い未来に起きた場合でも、ぼくは、あなたは、共に考え、共に行動し、ときにばらばらのまま、連帯できればと思う。

 

田中功起
2019年8月17日


*このテキストは「あいちトリエンナーレ2019」にて、田中が自身の出展作「抽象・家族」に対して「展示の再設定(入口となる扉を半分だけ開き、そこから内部は覗けるが中には入れない状態とした)」を行った際に用意された、観客向けの配布印刷物である。この「展示の再設定」は、同芸術祭内の展示のひとつ「表現の不自由展・その後」が開幕後に中止されたことに対する、田中からの応答であった。詳細については当サイトの「連載 質問する 田中功起 質問する 17-2:2019年8月19日のあなたへ」も参照のこと。

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