ライアン・ガンダー インタビュー (2)

モビリス・イン・モビリ
インタビュー/アンドリュー・マークル

II. 我は人間なり。人間的ないかなるものをも我に無縁とは思わず


Aesthetics and ethics, looking good is just not enough (2011), ceramic, display vitrine, plaque. A redesigned ashtray for Café Aubette by Theo van Doesburg (1883-1931) from 1927, from the perspective that Van Doesburg and Mondrian had never met. Photo © Keizo Kioku.

ART iT エルメスのグラスを例として、あらゆる物は世界を形作るたくさんのシステムの大系の一部と理解できること、そしてある物を美術空間に置くことによって、その物が持つシステムの大系との固有の関係性に注意を引くことができるという話をしていました。今回の展覧会には「Aesthetics and ethics, looking good is just not enough」(2011)という、1927年にファン・ドースブルフがストラスブールのカフェ・オーベットのためにデザインした灰皿の再解釈の作品を出品しています。ある意味では、これもまた単にエルメスのグラスを展示することからそうかけ離れてはいませんよね。 ただ、この作品の場合は、その物の歴史にあなた自身が介入しています。

RG とても気に入っている作品です。通常、灰皿とはテーブルの中央に置くものなので二三本のタバコを置けるようになっていますが、この灰皿には一本分しか置き場所がありません。でも、作品が表す、並行可能な世界におけるその灰皿の見解では、ファン・ドースブルフはモンドリアンに出会うことはないので、あくまでも一人のための灰皿となります。実際には、ファン・ドースブルフはカフェ・オーベットのためにその灰皿をデザインしたわけですから、カフェのテーブルに置くために、何本もタバコを置けるようになっていたはずです。
この作品の裏には、モンドリアンは殆ど病的なほどに厳格なフォーマリストだったという話があります。ファン・ドースブルフはモンドリアンその人とその作品が大好きでしたが、彼自身はもっと表現的でカジュアルでありたくて、色んなことを試してみたかったのです。ファン・ドースブルフが斜めの線を描き始めたことにモンドリアンが反対して、二人は酷い口論の末、二度と口をきかなくなってしまいました。
そこでわたしは、もしその二人が出会っていなかったらどのような現実になっていたか想像してみました。わたしの灰皿は、高圧的な父親のような存在だったモンドリアンのフォーマリズムの美学の影響を受けていない、並行可能な世界のファン・ドースブルフが作ったかもしれない灰皿というのを具現化したものです。だから、爆発的な勢いで文字がデザインを飾っているのは、彼がフォーマリズムの美学の呪縛から逃れて自由になったためなのです。

ART iT そのように、並行可能な世界におけるファン・ドースブルフとして物事を考えるのは、ライアン・ガンダーとして作品を作るのとは異なるのでしょうか? 例えばサント・スターンやスペンサー・アンソニーといった他の人物として作品を作るのとも違うのでしょうか? どうしてそういった人々の考え方を探求されるのでしょうか?

RG 本当のところ、もしファン・ドースブルフがモンドリアンに出会っていなかったら、全てが違ったはずです。それはあらゆるかたちで世界を変えるでしょう。これは戦争や条約や人種問題や政治の話ですらなくて、ただ美術の話をしているだけですが、それでも全世界が全く違うものになると思うのです。つまり、わたしの灰皿を超えたところにそうした一連の思考が広がっているのです。
でも、あなたの質問にもっと一般的な返事をすると、わたしは同じことを何度も何度も繰り返してするのが大嫌いだということもあります。そんなのは退屈ではありませんか。アイディアならたくさんあるし、色んなことを試して、いちかばちか掛けてみることが好きです。美術家としては、何かを作ってそれが成功すると同じことを何度も繰り返すのは安易な選択でしょう。そうすればお金が手に入りますし、知名度も上がって良い職業になりますから。でもそれはわたしにとってのアートを制作する意義とは異なります。アートを作るということは、何か難しいことをするリスクを負うよう自分に挑戦して、美術史に進展をもたらして何かを変えるということです。それは本当に難しいことですが、ずっとエキサイティングなことでもあります。
だから、それぞれ違う物をたくさん作るのが好きなわけですが、それはわたしがたくさんの人になる方が実現しやすいのです。朝起きて、好きなだけたくさんのキャラクターになることに決められて、それらの視点から作品を作ることができるわけですから。いつもわたし自身として作品を作っていたら、考え方を変えるのはかなり難しいことになるでしょう。わたしたちだって人の子ですから。


Portrait of Spencer Anthony Somewhere Between 1970-73 (2003). © Ryan Gander, courtesy the artist and Annet Gelink Gallery, Amsterdam.

ART iT 他人のあり得たかもしれない考え方を取り入れるということは、自己批評の要素も含むのでしょうか? ライアン・ガンダーが自分一人ではできないかもしれないことをしようと挑戦しているのはもちろん、そういった多様なキャラクターの間の体系的な関係も把握していなければならないということもあります。

RG 今の時点ではだいたい12人から15人くらいのキャラクターがわたしの頭の中に存在していて、人物設定の概要も書いています。彼らが何を着て、朝食には何を食べて、どこに住んでいるのか知っています。死んでいる人もいれば、生きている人もいます。全員制作をしていて、それぞれ全く違って見える数々の作品を作っています。
そのアーティストたちの中にわたしにとって特に重要なのはアストン・アーネスト[Aston Ernest]とサント・スターン[Santo Sterne]の二人です。アストン・アーネストはわたしより優れたアーティストで、サント・スターンは美術についてわたしが嫌いなところの全てを体現しています。二人の名前はお互いのアナグラムになっていますが、一人はわたしのアーティストの好きな性質を全て持っていて、もう一人は嫌いな性質を全て持っているわけです。だから、彼らを通すことで、わたしが作ることのできる作品よりも優れた作品を作ることも、わたし自身が毛嫌いするような作品を作ることもできます。
酷いアートを作るのは簡単ですが、それを作ったことがあまりにも情けなくて、その事実に耐えるのが大変です。でもそれこそが作品なのです。その酷いアートそのものではなくて、目に見える結果以上の目的のためにわざと酷いアートを作っているわたしが作品なのです。

ART iT サント・スターンから生まれるアートは、ライアン・ガンダーのシステムの具現化と言えるのでしょうか?

RG 広い意味では、そうですね。

ART iT ここで再び、ありふれた風景に潜むというコンセプトに戻りますが、これは「Locked Room Scenario」(2011)や『Alchemy Boxes』のような作品に文字通りのかたちで現れるほか、ある意味では題名が鑑賞者に作品の物理的な体験を決定付けることなく、その解釈のために必要な情報を全て与えると言える、TARO NASUの壁と床に矢を埋め込んだインスタレーション「Ftt, Ft, Ftt, Ftt, Ffttt, Ftt, or somewhere between a modern representation of how a contemporary gesture came into being, an illustration of the physicality of an argument between Theo and Piet regarding the dynamic aspect of the diagonal line and attempting to produce a chroma-key set for a hundred cinematic scenes」(2010)のような作品に、比喩的なかたちで存在します。

RG その題名は、実際には、その建築への介入について三つの解釈の可能性を提示しています。そしてその向こうには更に千通り以上の解釈があります。もしあなたが弓の射手なら、インスタレーションに使った矢が安物であることが分かるでしょう。歴史上の戦いを再構築する人なら、近代の矢だということが分かるでしょう。全てあなたが誰かによるわけで、題名が指し示す三つの解釈は出発点に過ぎません。鑑賞者が頭の中で題名にどんどん付け足していくこともできます。
ありふれた風景に潜むというのは、何かを潜ませているのはわたしではないということだけでなく、潜められているものは全て鑑賞者たち自身の中にあるというところが面白いと思います。鑑賞者がそれを見つけ出す気力があるかどうかというだけの問題なのです。でもそれこそが現代美術の意義ですよね。映画館に行って、座り心地のいい席に90分間、口を開けたまま眩しい光と大きな音を見つめて座り続けるということではありません。それはまるで眠るかのように簡単なことです。美術は難しくあるべきものですし、難しくなければそれは多分、良いアートではないでしょう。


Top: Ftt, Ft, Ftt, Ftt, Ffttt, Ftt, or somewhere between a Modern representation of how a contemporary gesture came into being, an illustration of the physicality of an argument between Theo and Piet regarding the dynamic aspect of the diagonal line and attempting to produce a chroma-key set for a hundred cinematic scenes (2010), installation view, Taro Nasu, Tokyo. Photo ART iT, © Ryan Gander and courtesy the artist and Taro Nasu, Tokyo. Bottom: Locked Room Scenario (2011), installation view. Image Julian Abrams, © Ryan Gander, courtesy the artist and Art Angel, London.

ART iT 展示を見に行くことは出来なかったのですが、「Locked Room Scenario」は鑑賞者が歩いて廻ることはできても実際に入ることのできない、趣向を凝らした演出の展覧会という作品と理解していますが、そこには意図的な演劇性があったようですね。それは映画とどう違うのでしょう?

RG 全く違います。何も見当たらなかったという理由で大勢の人が返金を求めましたが、皮肉なことに、そこには鑑賞者に見てもらうために作られた150点ほどの物や状況がありました。架空の美術作品、何かを渡しに来る俳優、鳴る電話、トイレで話す人、夕食の約束、落とされた手紙、窓の中の新聞のクロスワードパズル。鑑賞者は会場に来る二日前に既に携帯のメールを受信して、バーのカウンターの中の人と話しに行かされました。それでもなお、何も見当たらなかったと言った人もいたわけです。悲しいことです。わざわざどこかに何かを見に行こうと思って、会場に行くためにわざわざ地下鉄に乗って、それでも着いた先ではもう見ることに対する関心も気力も失ってしまうだなんて、全くおかしな話ではありませんか。

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