連載 田中功起 質問する 8-5:西川美穂子さんへ3

今回は『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』の企画者・西川美穂子氏との往復書簡です。これ自体が田中功起出展作のひとつ。そして会期終了後も対話は続きます。田中さんは、同展を基にひとつの「見取り図」を広げて西川さんに質問します。

往復書簡 田中功起 目次


今回この往復書簡自体が『MOTアニュアル2012』展の田中功起・出展作品になります。

件名:まずは地図を広げる

西川美穂子さま

ひとまず展覧会、お疲れ様でした。
美術館での展覧会は終わったわけですが、そのあとも展示キャプションはここに残りつづけ、展覧会(?)は続いていきます。ツイッターなどと比べて、このようなメールでのやりとりは遅さを伴いますよね。だからこうしてぼくらは物理的な場所で行われた展覧会の後もやりとりをつづけられる。会期はここで拡張されているわけではなく、いわばぐずぐずと遅延しているだけなのかもしれませんが、遅さはこうして武器にもなります。


「質問する」を客観的に写真に撮ると。

位置づけ

ぼくからの返信をどうしようかなと思いつつ書き上げた手紙を、実は思い直して消してしまいました。そこで書こうとしたことは「電気の消された部屋」についての、少し感傷的なぼくからの応答でした。ひとつの展覧会を終えるたびにどうしても少し感傷的になります。でもこの展覧会をまだ続いているものだとするとそんな反応はおかしい。

なので、改めてもういちど、この展覧会で目指されていることを確認したいと思いました。それももう少し俯瞰的な視点から。西川さんはこの展覧会がどのような場所に位置づけられると思っていますか? おそらく「(美術館での)展覧会」を始める前にそれは目論まれたものであり、「(美術館での)展覧会」が終わったあとだからこそ、それを反省的に見直すことができるんじゃないかとも思います。もちろん「展覧会」途中で書かれた、カタログのための西川さんのテキストにもそれは書かれていますよね。でもぼくはそれをより具体的に見てみたいと思っています。ぼくはどちらかというと同世代の、あるいは少し先行世代との関係の中でこの展覧会を見直してみます。西川さんはもうすこし歴史との関係性の中でその位置を見出しているかもしれませんが。

奇しくも前回ジョン・ケージのことについて西川さんは書いていましたが、ぼくはこの『風』展がデュシャンとの関係で語られたことに違和感がありました。むしろこれはジョン・ケージとの関係の中で語られる方がわかりやすいのではないかと思ったからです。ものすごくおおざっぱにぼくのケージ理解を書いてしまえば、彼が目指したことは、自己表現において作者主体をまず括弧に入れ、世界に溢れるノイズを受け入れる(「聴く」)ことで、世界の可能性を見出し開いていく、ということだったと思います。「表現する/作る」ことではなく、いわば世界を享受する、ということを「作る」ことの基本に据える。そんな態度が彼の制作の中心にあります。「4分33秒」は、演奏されない音楽というわけではなく(反音楽ではなく)、全ての音を聴く(素朴な音楽?)ための仕掛けだったわけですし。デュシャンのように便器を横に倒す(転倒させる)必要はなく、ノイズを聴く(受け入れる)という細部への気づきが拡張されればよかった。それが結果として「音楽」という制度を再考することにもなったし、「表現する主体」から離れることで共同作業や偶然性が重要な位置を占めた。

フルクサスやアラン・カプローなど触れるべき後続世代はいるし、その流れを国内外問わず丁寧に見てもいいですが、それはまた別の場所でやるとして、だいぶ時代を下って、『吹けば』展世代に大きな影響を残したアーティストをひとりだけ挙げるとすれば、フェリックス・ゴンザレス=トレスになるでしょう。いや、国内的にはそれほど大きな影響はなかったのかもしれないですが、少なくともぼくも含む一部では大きな影響がありました。ともあれ、ケージの問題系は遠く離れたフェリックスの中にも受け継がれ、実は、この彼の中にこそ、いまの世代にさらに受け継がれる包括的な方法論が詰まっているとぼくは思っています。ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』でもひとつの章が割かれていますし。
ぼくなりに彼の方法論を、ちょっと暴力的に単純化/分類化してみます。

a. 身体を使う非物質的な表現
b. 個人史を再編集する
c. 制度(主体)を扱う
d. 共同作業
e. 政治的なものを詩的なものへと変換する
f. 制度(美術館)を扱う
g. 歴史を使う

例えば有名なキャンディの作品にはさまざまな時期のものがありますが、「untitled(Ross)」(1991)を仮に取り上げれば、このキャンディは観客の参加を促すこと(d)で最終的には消えてしまう(a)可能性がある作品です。しかし展示をする者は自由にキャンディを追加できる上に(c)、どのように展示をするのかという責任を負わされます(f)。なおかつキャンディの重さはエイズで亡くなった彼のパートナーの体重と同じ重さを理想とし(b)、キャンディを口に含むという行為とのアナロジーを通して、観客にゲイの問題(ホモフォビアも含めて)を身体的に受け入れる/理解する可能性を開いていく(e)。この全体の形式がキューバ人アーティストという偏見(当時、アナ・メンディエータの活躍もあってなのか、キューバ人ということで土着的な身体表現を求められたらしい)と無理解に対するある種の抵抗として組織され(e)、ボディ・アート全盛期にいかに単に「身体を使う」のではない身体的な表現が可能かという問いから(a)、ミニマリズムとコンセプチュアル・アートの批判的継承が必然的に選択される(g)。これらがとてもシンプルな見えと自然な観客へのアフォーダンスを伴って設置される。見る者は何の気なしに、ある一定の量で床に置かれたキャンディを拾い上げ口にしてしまう。
行為(というか享受)のあとに物事への再考が促されるというのは、まさにケージの問題系を受け継いでいますよね。ひとつの作品の中に複数の層が折り重なるように設計されている作品。ここにさまざまなヒントも転がっていて、ぼくは、現在のアーティストが問題としていることのほとんどは彼の実践に含まれると思っています。もうすこし一般的なフェリックス理解でもある「複製」や「プライベートとパブリック」など、もっと多くのことから紐解くこともできるし。1996年に亡くなった彼の実践は地下水脈のように現在へと流れています(そういえば中原浩大さんが表だって発表するのを控えたのもこのころでしたね)。

この実践の分類化を、『桶屋』展のアーティスト(+少しわかりやすく同世代外国勢も)に適応してみたいと思います。異論もあるだろうけど、まあ、大まかなものだと思ってください。

a. 身体を使う非物質的な表現|森田浩彰 ティノ・セーガル ニナ・バイエ&マリー・ルンド パク・シュウン・チュエン
b. 個人史を再編集する|佐々瞬 ジュン・ヤン サイモン・フジワラ
c. 制度(主体)を扱う|奥村雄樹 ライアン・ガンダー フジワラ
d. 共同作業|奥村 森田 田中 アローラ&カルサディーラ ジュン リー・キット
e. 政治的なものを詩的なものへと変換する|下道基行 アローラ&カルザディーラ
f. 制度(美術館)を扱う|森田 田中 セーガル ニナ・バイエ&マリー・ルンド ジュン
g. 歴史を使う|ナデガタ・インスタント・パーティ 田村友一郎 マリオ・ガルシア=トレス

先行世代では、フランシス・アリスは上記のeを代表し、dやfの要素も合わせ持っています。ローマン・オンダックは、aを中心にしながら、fやdも含み持ちます。
個々の作品にはとくに触れません。ぼくの誤解もあるだろうし、ここに収まらない部分をもっている上記のアーティストもいるでしょう。それでもある程度は、上記の実践の分類に当てはまるところがあるはず。これは便宜的なもので、そもそも上記の分類は不可分にいろいろなアーティストの中に含まれているわけですし、日本の同世代や、先行世代もここに分類して見てみたい気もしますが、それはまたにしましょう。

これが意味することはなんなのか?

このざっくりした見取り図からぼくが何を確認したかったのかと言うと、『儲かる』展の国内受容がどうあれ、それがここ10年ぐらいの美術史の流れとパラレルであったわけです。さて、その上で何が目指され、何が実現し、何が実現しなかったのでしょうか、あるいはこれから何が実現するのでしょうか。
まずこれは西川さんも同意すると思いますが、この展覧会は必ずしも新しい動向を示そうとしたわけではないですよね。言ってしまえば、いま展覧会を組織するときには『風』展のような傾向のものが当然のものとして選択されるだろうし、アニュアルとして扱うにはちょっと遅かったとも言える動向なわけです。美術館以外の場所では(例えばオルタナティブ・スペース、ギャラリー、アーティスト・イン・レジデンスなどでは)、『吹けば』展参加者はもうある程度キャリアを積んできている人たちだし。
お笑い芸人にたとえれば、「大阪」ではある程度キャリアもあり、下積みも長かった「芸人」たちと、共通点のあるここ最近活躍している「新人芸人」たちを集めた全国区の「テレビ番組」を作るようなもの。素地のできている問題系を見出し、それを「テレビ番組」(展覧会)として組織する。美術館という場以外の場所ではすでに起きていたことについて、一部の人たちにはあたり前のことであった傾向を展覧会としてパッケージ化する。このパッケージ化によってその「あたり前のこと」は、広く一般化され、見えやすくなったかもしれない。けど、見えにくくしてしまった部分もあるかもしれない。ぼくがこの展覧会を手放しでは喜べない原因もそこにあるのかもしれません。冨井大裕さんはあえてこの展示を「普通」なものとして見ることで、もっと内容について、個々の作品について語るべきだと、美術館での会期が終わる日のトークで言っていました。それは、グループ展としてパッケージ化された「傾向」として受け入れられてしまうものを、一度その単純化をせず丁寧に見直すことを促す発言でもあったと思います。

また、この展示が行われるべくして行われたものだとして、見取り図のとおり、それは日本以外の他の都市でも起きていたこと、起きていることでもあります。逆に言えば、ただそれを取り上げただけではこの傾向は、単にひとつの流れとして埋もれてしまうかもしれない。だから、西川さんがどのようにこの見取り図を見ているのか、そこにどんな期待があるのか、聞いてみたいとも思っています。

未来の話/地図を修正する

作品がないとか、スケジュールを配るとか、アナウンスをしないプロジェクトとか、カタログのテキストとか、この連載とか、最終日のトークを裏で仕切るとか、あらゆる意味でぼくのしたことは「ずるい」ことだったかもしれません。迂回と回避の方法。この展覧会を自分のものにするためのあらゆる戦略的な関わり方をしている、ようにも見えかねない。ただ、ぼくは、もはや、作品を出して、それを理解してくれ、ってことだけがしたいわけではなくなってしまったのかもしれません。
でもユーロスペースでの上映では、ぼくは、ここ数年展開してきた仕事をきちんと見てほしいと思った。あの場にいた2日間の合計200人弱の人びとは、MOTアニュアル2012展入場者総数の24,512人とくらべれば遙かに少ない。でも少なくとも、あの200人弱にはなにかが伝わったと思います。あそこで伝わったなにかは、その後のぼくの活動への無理解や誤解と比べてもおつりがくるぐらいのなにかをぼくに残しました。だからと言って、その200人弱の人びとのために今後も作品を作っていきたい、などということが言いたいわけではありません。ただ、個人的なことはそれでもおつりがくる。理解されるというのはそういうことだろうと思ったのです。

『桶屋』展が開いたことのひとつに、展覧会に対してああでもない、こうでもないと言うってことがあります。もちろん、それはいままでもあったけど、ネットがそれを可視化し、より多くの言葉を保存した。「展覧会」についていままで騒がれる場合、たいがいはアートとその外側との接触による、モラルとか法律とかの問題が持ち上がる。古くは「千円札裁判」ですよね。そこで話される議論「アートか、否か」は、いつもあまり変化しない、なぜならそこには蓄積がないからです。このくり返しでは残念ながら実りがあまりない。果たしてそうした外部がどの位の規模(アートの外側にあり、アートとモラル/法律の齟齬に興味のある人びと)なのかわかりません。100万人なのか、100人なのか。だから少なくとも、『儲かる』展に来た2万数千人という数(内輪と呼んでいいのかどうかわかりませんが)、ひとまずそのぐらいの大きさから考えてみることもいいんじゃないかって思います。この人数はぼくの田舎の人口程度です。でも町です。2万人規模の小さな町だとしても、その中でさまざまな作品が作られ、絵画も彫刻もあって、「作らない作品」もあって、見るひとも研究者もいて、キャリアを重ねたアーティストも若手もいて、互いが遠慮せずにざっくばらんに話ができる環境っていうのもあってほしいと思う。展覧会はそういうことに開かれているべきだし、その上で、ぼくらも展覧会を考えてもいいと思う。

本当は、ではどんな意欲的なことができるだろうか。地図を広げた上でできることを考えてみよう。とか、って話もできたかもですが、まあ、それはまた今度会ったときにでも。

では次回の返信も楽しみにしています!

田中功起 2013年2月 少し肌寒いロサンゼルスにて

参考:Hans Ulrich Obrist Interviews Volume 1, Fondazione Pitti Immagine Discovery, Edizione Charta, pp.308 -316

近況:ひとまずヴェネツィア・ビエンナーレ日本館のための制作の残りと『2013 カリフォルニア・パシフィック・トリエンナーレ』(オレンジ・カウンティ美術館)の準備も少しずつしています。

※『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』展は、2013年2月3日まで、東京都現代美術館にて開催された。

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