連載 田中功起 質問する 8-6:西川美穂子さんから3

今回は『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』の企画者・西川美穂子氏との往復書簡。続けてきた対話の一旦の最終便では、西川さんが改めて同展の意味と、そこで得た展望を綴ります。

往復書簡 田中功起 目次


今回この往復書簡自体が『MOTアニュアル2012』展の田中功起・出展作品になります。

件名:「遅いイメージ」で大いにつくる

田中功起様

風桶展の会期が終了し、少し時間が経過しました。美術館ではフランシス・アリスの展覧会が始まり、風桶展に参加した作家たちの多くは東京を離れ、それぞれの新しい仕事に邁進しています。ヴェネツィア・ビエンナーレももうすぐですから、功起さんもますます多忙な日々を過ごされていることでしょう。こうして別々の場所で異なる仕事をしながらも、あたかも同じ風を共有しているように感じているのは私だけでしょうか。


風桶展会期終盤の2013年1月25日、展覧会場で勝手に行われた「基礎芸術 Contemporary Art Think-tank」による企画、「RECALL #1/ re-curate 『Making Homelesses, Editing Sequences 天災は忘れた頃にやってくる』」。成相肇と橋本聡が「キュレーター」と称し、風桶展を別の文脈で説明するギャラリー・トーク。展覧会主催者側とはまったく関係なく行われた(写真は筆者が携帯カメラで撮影したもの)。

美術館での展覧会が作品を相対化する

功起さんがあげたフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品における特徴は、たしかに風桶展の作家たちに通底するものだと思います。同世代の作家では、サイモン・フジワラらに加え、私はサイモン・スターリングを想い起こしたりしました。繰り返しになってしまいますが、功起さんのトレス論を下敷きに現在の作家たちの作品が持つ特徴を私の言葉で整理してみましょう。

作家、鑑賞者あるいは第三者の身体を使う非物質的な表現(a)。作家自身やその他の人物の個人史を編集する(b)。それと関連して、作家の主体を一度括弧に括る、あるいは棚上げしてみる(c)。その際、協働作業(d)が生まれることがある。政治的なものを詩的なものへと変換するように(e)、時に美術の制度を利用し(f)、制度を非制度的なものへと転換する。その一つとして歴史を再編集し(g)、大きな歴史と小さな歴史、あるいは史実とフィクションとを等価に扱う。これらにより、分配と享受が相互に継続的に行われる状態をつくりだす。

このような傾向は、国内外を問わず多くの作家たちの間にすでにおこなわれてきたもので、風桶展はそれを美術館という場所で取り上げたものと言えます。いわば、すでにあるものをすくい上げたわけですが、その結果、同時代の作家の態度に対して、彼らの活動を客観視し、相対化することができたのではないかと思っています。美術館の役割の一つに、作品を分類し歴史の文脈に位置づけることがあげられます。このように言ってしまうと、いかにも風桶展がすでに大文字の「歴史」の中に主流派として刻まれたかのように受け取られてしまうかもしれませんが、もちろん私が意図したのはそのようなことではありません(一時的にそのように受け取られる危険は承知の上で(*1))。

ギャラリーでの展示は小さいながら個展で行われることが多いですし、地域振興と結びついているトリエンナーレなどでは作家数が多くその幅も広くなります。美術館(あえてここではホワイトキューブと言ってもいいでしょう)での展覧会は、作品を個別に味わうことにも適していますが、同時に作品同士を相対化して見ることにも有効です。「展示」という行為を通して、ばらばらにあったものが何らかの関連性を帯びながら、ゆるく結び合わされることになるのです。展示を入れ替えたり並べ替えたりすることによって別の文脈が見えるわけで、展示されないことが評価から外れているということにはならないし、展示で示された一つの文脈が絶対的なものでは決してありません。歴史は常に更新され、書き換えられるものですから。風桶展で、国内外にすでにある傾向を取り上げ、美術館で展示したのは、私自身がそのような表現が、今、なぜ生まれるのかを考えたかったからです。美術館という制度に馴染まない部分がある傾向だからこそ、それを行なうことで、制度についての再考を促すことになるだろうという目論見もありました。展覧会というのは、それがつくられる過程で多くの発見が与えられるもので、批評や文献に基づく研究とは異なるかたちで、作品についての新しい解釈がもたらされるという意義があると思っています。

風をあつめて

今回、風桶展を通して見えてきたのは、作家たちが何を表現しているかというよりも、何を回避しているかという点でした。イメージが固定化することをいかに遠ざけ、イメージをどのように更新可能で流動的な状態に置くかということを行っているのです。イメージ過多の時代、イメージは次から次へと消費され、その中で他者と共有できるものはごく限られています。そのことを知った上で、作家たちはあえて遠回りにも見える方法で、いわば「遅いイメージ」をつくりだしているのではないでしょうか。功起さんが「迂回路」とか「だらだら」という言葉を用いたり、この往復書簡について「遅さが武器になり得る」とおっしゃったりしているように。

風桶展が目指したことのもう一つは、グループ展としてのあり方です。この往復書簡でも確認してきたように、強いメッセージ性でもって作家を括るのではなく、作家と作品の選定により一定の空気を醸成するという方法をとりました。その点は、ドクメンタ13のキャロライン・クリストフ=バカルギエフ、第8回光州ビエンナーレや今度のヴェネツィア・ビエンナーレのマッシミリアーノ・ジオーニらが行なっていることとも呼応しているかもしれません。作品を歴史と取り結ぶ彼らの手腕や、そこに浮かび上がる空気の深度には及ぶべくもありませんが。作家自身がグループ展という要素を作品に取り込み、その展覧会の空気を醸成する共犯者となるには、制度を含めたその場の特性を知り得る経験値が必要になるとも言えますね。その意味で、田中功起という経験豊富な作家が入ることにより、展覧会そのものにいくつかの仕掛けをほどこしてもらえたことは幸いでした。

また、風桶展では、「物」より「事」で表現する傾向を持つという共通点を出発点とし、同時に作品が持つ本質的なテーマから、私たちの時代の空気のようなものを浮かび上がらせることを目指したつもりです。異なる価値観を持つ人々が偶然居合わせ、何かを協働しなければならない状況とか、当事者は誰かということを考えざるを得ない局面とか、3.11以降、私たちが感じている感覚(とくに東京における)を2012年のMOTアニュアルでは表しておきたいと思いました。経験とは何か、記録は可能かという問いも、その感覚から浮き上がってきました。佐々瞬とNadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)、田村友一郎の3組からはことに、「物語」の可能性が示唆されました。ほかの4人(森田浩彰、田中功起、奥村雄樹、下道基行)が「つくる」ことに対して徹底して自分を律し、それを避けようとするのに対し、佐々さんたちはより積極的にフィクションを取り入れ、ナラティヴを肯定しているように思えます。記録は可能かという問いに対してのポジティヴな答えの一つのように感じられますし、「一体何を見ることができるのか」という期待をもたらしてもくれます。サイモン・フジワラの魅力の一つも、作家の個人史かのように見える虚実入り交じる魅惑的な物語が用意されている点でしょう。もちろん、功起さんたちの作品にも物語が内包されているわけで、その点でもフェリックス・ゴンザレス=トレスの系譜に連なっているのです。状況の制作や編集を通じて新しいナラティヴをつくり出しているのであり、風桶展は「つくらない」かのように見せて、じつは大いに「つくっている」展覧会なのでした。物語作者としての主体の存在について上手く説明できなかったことが、作者の主体を解体する態度を取りながらも、それが作者の権威と象徴性を強化しているといった批判(*2)を生んだのかもしれません。

もう一つ反省的に振り返るとしたら、展覧会も作品も迂回路をあえて選びながら、もしかしたら、その道案内をし過ぎているのではないかという点があげられます。迂回路だからこそ、それに付き合ってもらうためのわかりやすさや説明が必要になるのは当然のことですし、鑑賞者が何に出会うかということを意識したその設計に、鑑賞者の側が上手く乗ることができれば深い体験が生まれるでしょう。しかし、そこでは作品と鑑賞者との間のある種の共犯関係のようなものが必要とされるわけで、それに違和感を持つ人もいるはずです。鑑賞者の幅に合わせて多様に対応できる設計が作品内でなされているわけですが、そのようなシステムを必要としない強靭な何かを獲得できたとしたら、それこそが時代を超えて残り得る傑作誕生の時と言えるのだと思います。

いずれにしても、私たちは前に進むために、日々の選択と実践(何を回避するかということも含め)を続けていかなければならないわけです。風桶展もその実践の一つとして行われた、いわばスタディだったと思います。ヴェネツィアは、功起さんのここ数年のスタディをまとまったかたちで見ることのできる機会となるでしょう。ロサンゼルスを拠点とし、日本を客観的に眺める立場に身を置く作家の国際展での発表について、国内でも自分たちのこととして注目し、正統に批評するというあたり前の状態があって欲しいですね。

今度ご一緒にお仕事するのは、いつ、どこになるでしょうか。起きるかもしれないし、起こらないかもしれないけれど、お互いのスタディがタイミング良く重なる時がまたあることと思います。その時を楽しみに、一度筆を置くことにいたします。お元気で。

2013年4月
西川美穂子

  1. 冨井大裕さんは、風桶展をめぐり複数の場所で発言してくださり、「物より事」を重視するような風桶展に見られる傾向が「主流」とみなされること、そして今度は「物を重視」するような反動が起きるような状態への危惧を述べられていました。方法論についての議論よりも、作品そのものの良し悪しをきちんと見ていこうという冨井さんの指摘は重要だと思います。

  2. 沢山遼「主体の編集『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』展」、『美術手帖』2013年10月号、pp. 228-229ほか。

近況(今後):相変わらず展覧会業務に忙殺されていますが、自分の企画の展覧会の予定はありません。靉嘔展、風桶展で考えたことを深める時間にしたいと思っています。フルクサスやアラン・カプローのことなど。

※『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』展は、2013年2月3日まで、東京都現代美術館にて開催された。

編集部よりお知らせ
本連載はここで一旦、小休止に入ります。田中さんは現在、来る6月に開幕する、第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示「抽象的に話すこと ― 不確かなものの共有とコレクティブ・アクト」の準備の真っ最中。これが落ち着いたころ、また本連載の進行についてART iTから皆様にお知らせします。

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