連載 田中功起 質問する 2-2:成相肇さんから

件名:作ることと見ること

田中さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

田中功起さま

お久しぶりです。まずは、今回の企画へのご指名ありがとうございます。そして、あけましておめでとうございます。そちらの年越しはいかがでしたでしょうか。2000年から10年の一区切りがついたわけですね。日本では呼び名が「ゼロ年代」でほぼ定着しているようですが、そちらアメリカではZeroes、Double O’s, 2Ks, Aughtsなど一定しないまま新年を迎えてしまったとか。その後どうなったのやら。


焼き鳥屋だらけの帰り道

四方山話はさておき。「展覧会」という制度についての疑問から始まって、「作る」ことが持っている可能性、という話題でした。「作る」という行為そのもの、あるいは「アイデア」を、どうやって時間的空間的に限定しないか。
 そもそもこの問題設定自体が田中さんの「アイデア」だともいえますが、過去の例を持ち出すなら、これに近いものはありますよね。フルクサスの「スコア」や「インストラクション」とか。例えばナム・ジュン・パイクが「路上や床の上で人間や楽器にひもをつけて引きずる」という指示を残す。パイク以降の時間と場所においては自由に誰でもこの指示を実行できる(この意味でインストラクションは更新されていくので、フルクサスに対して「過去」というのは語弊があるかもしれません)。解釈もアレンジも基本的には自由。もちろん、パイク以降は、と断りを入れねばならない時点で結局これはパイクの「作品」で、インストラクションに基づく行為は原則としてすべて並列で優劣もないはずとはいえ、やはりパイクという作者がおり、応答の仕方もその都度「作品」として評価される。けれど少なくとも、その総体を物理的に限定することはできず、どこにも切れ目が無い。記録に残さず、誰にも見せない状況でやることもできる。つまりは田中さんのいう行為、アイデアのレベルを保持するひとつの方法と考えることができるでしょう。ART iT読者はハンス・ウルリッヒ・オブリストの企画を真っ先に思い浮かべるのかな。『do it』なんかまさに今書いたようなことの展覧会化ですね。

田中さんの考えていることに沿っているかどうかはわかりませんが、それこそアイデアとしてはいろいろあると思うんですよ。演じられるたびにランダムに読み替えられる(その都度あらためて「作る」)台本、部分的には見えるけれども残りの部分は絶対に見えないようになっている(未限定の想像を誘い続ける)構造をもつもの、草稿の状態だけが残っているために未決定の状態を保ち続ける可変的なもの……いや、ここではどうしても「作品」を頭に入れて考えてしまっていますね。じゃあ美術とか芸術とかの枠を取っ払ってみたらどうなるでしょう。例えばトランプなんかどうですか。トランプはもはや誰が作ったのかわからず、「作品」ではなく、「即物的」な、誰もがゲームや占いを作り出すためのアイデアそのものといえるかもしれない……いやいや、ここに挙げてきている事例や仮定は、おおもとの何かを「作る」ことと、その何かを通じて「作る」ことという別の位相にある「作る」を一緒くたにしてますから、田中さんのいっていることとは問題をすり替えてちゃってますね。

とまあこうして例えば例えば、と「方法」に重点を置いて例示していくだけではあんまりおもしろくないのでちょっと視点を変えてみることにします。話題にしたいのは、受け手、見る側のことです。思うに田中さんが今考えているようなことが実現され得るとしたら、大きく変質するのは作品の形態や内容や方法よりも、作品を取り巻く「関係」であり、「観客」じゃないでしょうか。

これまでの書簡を見ていると、田中さんはアーティストとしての立場から、「展覧会」を「見せる」制度として規定しているように感じたのですが、じっさいには「見る」制度としての側面の方がより大きい。「展覧会」の前提は「見せる」ことよりも「見る」もしくは「見られる」ことの方にある。他の美術館やら個人宅やら国外やら、あるいは作家の頭の中やら、あっちこっちにあるものをとにかく一堂に集めてきて、ある時ある場所にある秩序を設ける。それは、なるべく効率的に複数の人たちが見て、何かを共有するためにできた制度です。字義的に見せる側の主体が強いように思われる「展示会」に対して、美術館が「展’覧’会」という言葉を使い続けているのは「見る」ことを基本にしているためでしょう。

その上で、田中さんはここで、観客とか鑑賞者とか呼ばれる人たちのことを議題に掲げているのじゃないかと思ったわけです。基本は「展覧会」の制度が閉塞的だから何か別の方法を考えよう、という話ですが、もしかして田中さんは、作る人がいて見る人がいる、という無根拠に想定されてしまっている関係の仕方を槍玉に挙げているんじゃないか。「展覧会」に対して田中さんが閉塞感を感じているのは、鑑賞者が自ら「鑑賞者」であることを信じた上でほとんど無意識に「鑑賞者」を演じ、また一方で作者が「鑑賞者」を信じた上で成り立っているその関係が固定化してしまっているからじゃないですか?

この意味でこそ田中さんがヒントとして引っ張ってきた宇川さんの言葉につながってくるのだと思います。ウェブ上ではすでに確固とした「受け手」など失われつつある。「作品」を境目にしてそれを与える側(作者)と与えられる側(鑑賞者)がはっきりと線引きされるのが一般的な理解とすると、ここではその線引きがきわめてあやふやで、権利の所在が不明瞭になっている。それこそどこにも属さない「アイデア」(動画投稿サイトでいうところの「素材」)として漂流している(じっさい僕が宇川さんのジ・オーブのミュージック・クリップを知ったのは、その動画にperfumeの歌を合わせたMADからでした)。それぞれの動画にはむろん成功か失敗か、おもしろいかおもしろくないかの判断が下されますが、ある時点では失敗であってもすぐさま誰かが手を加えて成功としてよみがえり得る。ずっと「作り途中」です。

ウェブの話はひとまずおいといて、「展覧会」の話に戻しましょう。都合よくというべきか、ぼくはまさに「作品の成立以前の状態の行為」を見せることに関わっています。田中さんには以前(ぼくが勤務する前のことですが)関連イベントをやっていただいたことがあるのでご存知でしょうが、府中市美術館には公開制作室という部屋があります。その名の通り作品が完成に至るまでの過程や試行錯誤の様子を公開する部屋で、まだ完成する前の段階を動いた状態で見せられるという点で展覧会とは違った面白さのあるプロジェクトです。しかしなかなかこの部屋の運営が難しい。というのもこの部屋は順路上まったく展示室とは別のフリースペースにあるために、展示室で開催されている展覧会には特に用事のない人、カフェに寄っただけとかトイレを借りにきただけだったりする人が前を通っていく場所なんです。作品を見ようという心構えの特にない人が(そもそもそこに「作品」はまだないわけですが)そこに出くわしたらどうなるか。ほとんどの場合無視して素通りです。単に広報努力不足などもあるでしょうけれど。一方でじっくり見る人は、作家のことを知っているかこの部屋のことをあらかじめ知っているごく限られた人がどうしても中心になる。こちらの方が理想的かというと必ずしもそうではなく、こちらの人々の多くはあくまでもやがて完成する「作品」を想定して見るのですね。行為を行為として見せることはどうにも難しい。で、担当者としてはやはり多くの人々に見てほしいので苦心します。素通りする人たちにも立ち会ってもらうための一番手っ取り早い解決方法はというと、超有名人を呼ぶか、パフォーマティブな要素を強調すればいい、という話になっちゃう。でもそれだと「作ること」の次元は下位に追いやられてしまう。つまり、「作者」(与える側)を厳然と明確化することによって「鑑賞者」(与えられる側)を作り出すわけですね。これがすなわち、田中さんが第1回の書簡で挙げた、ピクサーと現代美術のふたつの展覧会の構図です。ピクサーの展覧会を開くことと現代美術を囲い込むことは、いずれも作り手と受け手の関係を固定化するという点においてまったく同じことだとぼくは思います。

さて、田中さんは絵画の例を挙げて、作品がスタジオで完成し、事後的に「展覧会」というものがある、と書いていますが、はたしてどうでしょう。それを「展覧会」と呼ぶかどうかは別にして、誰も見ていない段階で作品が成立するとはぼくには思えません。物理的な「完成」であっても、作品の「成立」は見る人がいて初めて起きるのではないですか。物質の方ではなくて関係の方を「作品」と呼ぶのではないでしょうか。だからこそ、「常に与えられる者」としての「鑑賞者」という観念は、とても怪しい。固定した関係であるはずもないのに、「作る」側も「見る」側もあらかじめそれを信じてしまうところに落とし穴がある。

とかく人は「分け」たがります。というより、分けて名付けて秩序化していかないと物事は理解できないし生活していけない。2000年からの10年間をなんとか名付けないと気持ちが悪い。でも一方でその弊害もあって、うかうかしていると観念が固定して、それに従って付き合い方も固定化する。例えば絶対的な「鑑賞者」というものが、知らないうちに定着してしまう(ここ数年でますます目につくようになってきている「日常」などその最たる例でしょう。一定の「日常」というものが設定できるのかどうか。「日常」が展覧会のテーマになるという事態がぼくには信じられません。)。そこでぼくは、現在ではまったく「分けられている」ものの代表といっていい排泄物を通して、「分けない」という態度をとてもうまい具合に見せてくれる泉太郎さんと奥村雄樹さんに可能性を感じて、あのような文章を書いたわけです。田中さんが拾ってくださった「交感的」という言葉は、「分ける」思考を前提にした単純な情報交換ではないやり取り、という意味で選んだものです。
 「鑑賞者」のない世界、をぼくは想像します。それは見る人がいなくなるということでは決してなくて、役割みたいに「作る」側と「見る」側を分けないところに生まれます。そしてそれは、田中さんのいう「成功と失敗のない世界」でもあり得る。自分の企画経験がまだとても少ないために実践の話につなげることができないのが辛いところですが……。

最後に、ここまで書いてきたことと絡めて田中さんに聞きたいことがあります。僕に宛ててくださった書簡の中で田中さんが繰り返し(3回も!)述べられている「創造性」とはどういうことでしょうか?
 今回の話題に関連するサブテキストとして、田中さんが最近書かれた「作ること」という文章(註)を読みました。この中で田中さんは、「作品」と「作ること」をひとまず分けた上で、「作る」ことを擁護したい、と書かれています。そもそも作ることはよこしまさがなく、よいことだから、価値判断をしたくない、と。ここに「創造性」はどのように関わってくるのでしょう。それは「作る行為」と同義なのでしょうか、あるいは田中さんの実践にあるような偶然性のことを指しているでしょうか。もう少しお聞かせいただけませんか。

それでは。お返事お待ちしています。

2010年1月20日 東京より
成相肇

註:田中功起「作ること」(『REAR』No.22所収、2009年10月)
http://kktnk.com/podcast/related_to_shitsumon.html


なりあい・はじめ(府中市美術館学芸員)

1979年生まれ。専門は岡本太郎を中心とする戦後日本のアヴァンギャルド。最近の担当企画展に『第4回府中ビエンナーレ』『純粋なる形象 ディーター・ラムスの時代―機能主義デザイン再考』など。

関連リンク
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/

近況:ART iTでもブログをご執筆中の青山悟さんの公開制作を開催中。最終日の2月14日(日)にはアーティストトークを予定しています。皆様ぜひともよろしくお願いいたします。

往復書簡 田中功起 目次

・質問する 2-1:成相肇さんへ

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