連載 田中功起 質問する 5-1:沢山遼さんヘ 1

国際的に活躍する気鋭のアーティストが、アートをめぐる諸問題について友人知己と交わす往復書簡。ものづくりの現場で生まれる疑問を言葉にして、その言葉を他者へ投げ、投げ返される別の言葉を待つ……。第5回の相手は、美術批評の沢山遼さん。約3ヶ月の間にそれぞれ3通の手紙で「作品と批評との関係」について意見交換を行います。

件名:批評の役割について

沢山遼さま

このたびはこの企画にご参加いただきありがとうございます。
いままでこの企画は「作ること」をめぐって基本的には進行してきました。前回の冨井大裕さんとのやりとりでは作ることを作り手がどう捉えているのか、そもそも制作とはどういう営みなのか、お互いのプロセスを中心に書いてきました。そこで図らずも見えてきたのは、お互いのアーティストとしてのあり方の違いです。冨井さんはあくまでも「アーティスト」であることを引き受けた上で自身の制作を位置づけているのに対して、ぼくは「アーティスト」という便宜的な存在を一度忘れた上で、制作とその他の存在する営みを同じように捉えてみたらどうなるのか、ということに終始していたように思います。冨井さんも書いていましたが、それはいわば表裏の考え方かもしれませんけれども。しかし今回、沢山さんと考えてみたいのは批評のことです。とは言ってもぼくは批評家や評論家ではないので、あくまでひとりの作り手の立場から考えられることを投げかけてみたいと思っています。


たまにはLAらしい写真を。

英語で「Critical」というとき、そこにもう既に「Productive」という意味が入り込んでいます。つまり批評性は生産性をも意味する。もっと単純化してしまえば、言葉は制作を促す。おそらく逆もそうですね。その意味で批評は必ずしも批評家だけのものではなく、生産性も必ずしもアーティストだけのものではない(*1)

まずは三つの点を軸にここ最近気になっていることを書いてみます。

1)作り手と言葉

たとえばぼくは建築家と美術家との違いについて考えています。日本では、どちらかといえば、建築家は社会性があり、自身の制作を言葉にすることに自覚的であり、美術家は個人的な、あるいは美学的な問題に拘泥し、制作を言葉にすることに無自覚である、と思われがちです。もちろん建築にはクライアントが必ずいるので、その相手にまずは説明することが要求される。ひとりではできあがらないものなので、言葉には自覚的にならざるをえないし、雑誌メディアなどにおいてもテキストを書くことが求められたりする。しかし美術家、とくに画家であれば、制作は通常ひとりで行われるものです。その意味で自らの制作・作品を言葉にして他者に説明することは必要ないことと、一応は思われる。まあ、しかしこれは、いわば制作をしない人たちのある種の偏見です。作り手は言葉にしなくてもよい、というような考え方が日本の中で一般に広まっているのは、少し考えれば不思議ですが、たとえ制作をしているときに生じる自問自答であっても、作り手は少なからず言葉に自覚的なはずです。美術史をひもとけば、多くの画家は自らの営みを言葉にしてきたわけですから。

一方で今を生きるアーティストは、多かれ少なかれ、より建築家に近い立場にいると思います。作品制作は必ずしもアーティストひとりでできるものではなく、プロセスの中に複数の他者が入り込んできます。プロジェクトベースの制作ではそれはほとんど建築と同じ過程を踏むことになる。ひとつの作品を作るのには様々な交渉が必要になる。また今となっては作品がただ純粋に作品として存在することはできないので、ぼくらは少なくとも自らの立ち位置を表明せざるをえない。単に絵画を見せるということであっても、それがどのレベルにおいて行われているのか、このアーティストはどの立ち位置から「絵画」を選んでいるのか、最低限の背景の説明が必要にもなる。もちろん「俺はそんなこととは関係ない。絵を見れば分かる」という古風なステイトメントでさえも、無自覚なものではないわけです。その発言が結果的にしめる位置はけっして純粋無垢な場所ではない。

さて、建築家のように今を生きるアーティストも自らの制作を分析する能力があるとします。その場合、制作は単に自らの内面の吐露ではないので、そこには必ず批評的なアプローチがある。たとえばフェリックス・ゴンザレス=トレスの紙の束は、そのままでは単なるミニマルな彫刻ですが、人びとが持ち帰ることで作品として存在する。このとき批評の対象となっているのはミニマル・アートやアートマーケットだけではなく、作品の存在そのものです。絵でも彫刻でも、通常、作品は不動産です。変化をせず、それだけで自律して存在する。だけれどもフェリックスがここで目指したことは、変化をし、なくなってしまう作品のあり方です。プリントされ用意された紙の束自体は、作品の一部でしかなく、この部分はむしろ交換可能で、なくなればまた足せばいい。つまりこの作品は実体のレベルではなく、その作品を存在させるシステム、あるいはコンセプトの次元で成立している。作品そのものが「作品」という存在自体を批評的に言及しているわけです。このように作品が批評性を持つとすれば、このとき批評家はなにを書き加えることができるのでしょうか。

2)批評になにができるか

批評とは、作品の分析を通して(隠れた・隠された)構造を明らかにする行為であり、その構造が明らかになる過程において作品の持つ問題(評価点/批判点)も浮かび上がる、そういうものだと思います。なので、批評は必ずしも批判ではないが、結果的に批判的な色を帯びることもある。あるいは逆にそもそも批判をしようと思って書かれたものでも、その批判ポイントを明確にするために作品は子細に分析されるはずだから、結果的に作品が持つ別の側面、評価できるポイントが見いだされる場合もあるでしょう。

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」にシネマハスラー(*2)という映画評のコーナーがあります。この映画評が面白いのは、批判的な評を聞けば聞くほどその映画が見たくなるという点です。通常、否定的な発言は細かい分析を伴わず、一刀両断で終わってしまう。「ダメなものはダメ」。しかしここでは、ダメなものほど時間をかけて分析され、むしろ言葉が大量にあふれ出す。その結果、そのつまらない、めちゃくちゃに見えた映画に備わる別の側面が前面化する。

たとえば余計で無意味な演出が多々ある映画があるとします。通常の映画の文法からすればまったく評価に値しなくとも、メタ的な視点から俯瞰すれば別の評価を下すことができる。「アイドル映画」というのはそのアイドルがどのようにその映画の中に存在するのか、ということを見る映画であり、映画的な文法を越えてその点で評価される。先の過剰演出の映画も、その監督の過剰演出を見るための「監督アイドル映画」と捉えれば、この映画を評価することができる、いや、この映画を好意的に見る人がいることも理解できる。このようにひとつの映画を別の視点へとずらすことで、その映画が潜在的に持つ可能性が引き出される。それが否定的な言葉によって導かれた結果であっても、分析の結果見えてきたその視点によって、少なくともぼくらはその映画を興味深く見ることができるようになる。つまりダメな映画を興味深く見るための指南、それが宇多丸さんの骨子だと思います。啓蒙的でもあり、エンターテインメントでもあり、なおかつ批評そのものとして自律さえもしている、とぼくは思います。だからこそポピュラリティも持つ。


3)すべてを見ることはできない

ある日、ツイッターにとあるアーティストの作品について批判的なことを書いたことがあります。その展示は日本で行われたものなので、ぼくは見に行くことができませんでした。しかし、この展示は「見える/見えない」という問題を含み持つ展示だったので、ぼくが見えない立場から書くことには意味があるんじゃないかと思ったのです。その上で、その作品のアイデアが持つ構造的な無頓着さが気になったのでさらっとそのことを書きました。当人からなにかしらの反応があることを期待していたわけではなかったのですが、「作品を見てから批判してください」と反応がありました。

見ていない作品については書かない、というのはもっともな話ですが、その一方で、見ていないと断った上で、少なくとも見ずにも分かるアイデア自体に潜む問題について書くことはできるんじゃないかとも思います(いや、そもそもその作品のアイデア自体が「見える/見えない」ということを問題していたので、展示に足を運んだ人でさえもそれぞれの身体的な能力の限界によって、物理的に、作品体験が限定されるようにできている。だから健常者にはAのように見える・体験できるものが、障害をもつものにはBのように感じられる。この展示に足を運べない人はいわば「障害」があって物理的に見れないのだから、後者として「見ないで書く」可能性をも含んでいる、いい意味で)。

言うまでもなくぼくらはすべての展覧会や作品を見て回ることができない。それこそ海外まで視野に入れたら、果てしないことになります。この点、批評家やキュレーターはどう捉えているのかなあともときどき思います。上記のようにアイデアについては見ずにも書くことができる、でもこのことが作品自体のあり方に影響を与えているとも言えます。よくもあり、悪くも、今のアートはアイデア重視なものが増え、体験的・経験的なものが減っている。

さて、以上の三点はここ最近、批評について考えながら気になっていたことです。この三つはそれぞれに重なる問題を含んでいますので、どれかひとつに絞ってやりとりを進めても自ずと関係してくるんじゃないかとも思います。
お返事楽しみにしています。

田中功起
2010年12月 ロサンゼルスより

  1. ぼくが沢山さんのカール・アンドレ論を読んで感じたのはまさにその生産性です。つまりアンドレを通して、その場その場でくり返えされる制作、そのかたちに残らない行為を「労働」と読み直すことで、この視点を共有できるであろう何人かの他のアーティストを思い出したからです。そのひとりは前回の冨井さんです。ぼくらはどうしても結果としての作品を気にしてしまいがちですが、そのプロセスに焦点を当てることで、制作が別の方向へと開かれていくかもしれない。
    沢山遼「レイバー・ワーク カール・アンドレにおける制作の概念」は美術出版社のサイトからダウンロードして読むことができます。
    http://www.bijutsu.co.jp/bt/hyouron_effect.html

  2. 「『ザ・シネマハスラー』で評判の悪い作品をあえて取り上げる理由とは?」の回 2010/9/11分
    http://www.tbsradio.jp/utamaru/2010/09/post_730.html

近況:
ここ最近は2011年2月からはじまる個展の準備をしています(『Dog, Bus and Palm Tree, etc』The Box、ロサンゼルス)。1/23からはグループ展『MAKING IS THINKING』(witte de with、ロッテルダム)に参加します。

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