月を射る @ KAG

森田玲音《People》

 

月を射る
2026年5月19日(火)–8月16日(日)
KAG(岡山県倉敷市阿知3-1-2)
https://gallerykag.jp/
開館時間:12:00–17:00(入館は閉館30分前まで)
休館日:月

 

KAGでは、尹東柱(ユン・ドンジュ)が1930年代末に記した散文詩「月を射る」を起点に、戦前・戦中の教育映像やプロパガンダ、パフォーマンスから現代のフィールドワークまでを横断し、かつて「帝国」が形成した管理モデルと、その地平に芽吹いた今日の問題に通底する「植民地主義」の精神構造を考察する企画展「月を射る」を開催する。

日本統治下の朝鮮半島に生まれた尹東柱(1917~1945)は、日本留学中にハングルでの詩作活動を続けるなか、治安維持法違反の疑いで京都下鴨警察署に逮捕され、1945年2月16日に福岡刑務所で獄死した。本展の起点となる散文詩「月を射る」は、尹が1939年に朝鮮日報学生欄に「달을 쏘다」として発表。夜空で「あざわらっている」月を、自作の弓で射ようと試みた。

本展は、砕いてもなお元の形に戻る月を射抜こうとするその孤独な身振りに、個人の力では変えがたい支配の構造や歴史の重力に対し、内面の痛みがいかにして抵抗のかたちを読み取り、国家や行政、あるいは社会的な「規範」というフィルターによって、かつて上映を禁じられ、記述を削除され、あるいは存在そのものを拒絶されてきた「検閲の記憶」を内包した作品を中心に構成。帝国という巨大な重力が消失したとされる今日においてなお、私たちの思考や身体が、かつての植民地的な構造のうちに閉じ込められているとすれば、その要因はどこにあるのか。尹東柱が月をめがけて放った矢の軌跡を辿るように、歴史の暗部を射抜き、これからの共同体を再定義するための意識の共有を試みる。

 

井上莞《空の少年兵》
崔承喜
亀井文夫&吉見泰《日本の悲劇》

 

出品作家や出品作品は以下の通り。

尹東柱と同じく日本統治下の朝鮮半島出身の井上莞(李炳宇)(1912–1999)は、映画を学ぶために日本へ渡り、プロレタリア映画運動に参加するが、戦時中は記録映画監督として、本展出品作品の《空の少年兵》をはじめ、帝国の理想を映像化した作品を手がけた。かつてはプロレタリア映画運動に身を投じた彼が、帝国の翼となる少年たちの「純粋性」というフィクションを構築したという事実は、観客にプロパガンダが内包する残酷なまでの自己同一化の回路と、そこから零れ落ちるアイデンティティの破綻に対する思考を促す。

同じく日本統治下の朝鮮半島出身の崔承喜(1911–1969)は、近代舞踊の父・石井漠に師事し、伝統的な朝鮮舞踊にモダンダンスを融合し、「半島の舞姫」として世界を席巻。植民地支配下という過酷な状況において、帝国の宣伝塔としての役割を期待される一方で、自らの身体を通じて民族の誇りと近代的な美学を体現しようと試みた。映像に残された崔の身体表現は、美的な身体表現が国家のプロパガンダとして消費される——芸術が政治的な野望に回収されていく際の捉えがたい境界線の存在について問いかける。

東宝教育映画等で活動した記録映画の先駆者、亀井文夫(1908–1987)と吉見泰(1913–没年不詳)。両者が敗戦直後に共同で監督・編集した《日本の悲劇》は、戦時中のニュース映画の断片をモンタージュし、敗戦に至るまでの狂騒と転落を描き出したものの、その過激さゆえに占領下のGHQによって上映禁止処分を受けた映像作品。熱狂する群衆と、責任の所在が霧散していく権力のありようを冷徹に繋ぎ合わせた映像は、特定の政治的状況下で、個人の主体性が消失していく過程を、歴史の残酷な教訓としてわたしたちに突きつける。

一貫してジェンダーや労働者の視点から社会を凝視した厚木たか(1907–1998)は、写真化学研究所(P.C.L.)などで記録映画の脚本家・評論家として活動。戦時下の1945年に女性工員たちの姿を捉えた《わたし達はこんなに働いてゐる》では、彼女たちの抱いた素朴かつ切実な疑問が、国家の検閲というフィルターによって「滅私奉公」の象徴へと変貌させられていく。戦後、厚木は独立プロ運動や反戦運動に身を投じるなど、メディアが権力や社会構造とどう向き合うかを問い続けた。

 

藤井光《帝国の教育制度》
山本聖子《Monument-隻眼の神々》写真:長野聡史
T.T.タケモト《Looking for Jiro》

 

映像メディアを中心にアーカイブ資料や歴史、記憶を再解釈する作品で知られる藤井光(1976年生まれ)は、ワークショップや演出など多様な手法を用い、社会的事象を未来への展望として提示する活動を展開してきた。本展出品作品の《帝国の教育制度》は、戦前、日本の教育制度についてアメリカ陸軍が軍内部での情報共有のために編集した資料映像と、藤井が韓国で行なったワークショップを撮影した記録映像を素材に構成した映像作品。均質化された空間で繰り返される規律訓練の痕跡を、現代の視座で再演し、かつての帝国が目指した理想の身体が、いかにして今を生きる私たちの立ち居振る舞いの中に流れ続けているかを露わにする。

山本聖子(1981年生まれ)は、自身が育った均質的なニュータウンでの身体的違和感を起点に、場所の「気配」を映像や彫刻で表現。近年は明治以降の産業近代化に関連する資料をリサーチし、時代の変遷とともに人間の身体がどのように変容してきたのかを問い続けている。《Monument-隻眼の神々》は、さまざまな形で製鉄に関わった人々へのインタビューや資料をもとに、「鉄」を巡る歴史とその記憶を辿り、近代化の象徴であった都市の文化的な実態を捉え直す。発展という名の下で、個人の身体がどのように時代の要請に従事させられ、また変容を遂げてきたのかという歴史の位相を浮き彫りにする。

サンフランシスコを拠点とするT.T.タケモト(1967年生まれ)は、人種やクィア・アイデンティティを巡る問題をアーカイブの再解釈を通じて探求している。《Looking for Jiro》は、第二次世界大戦中の日系アメリカ人強制収容という負の歴史に、クィアな視座を投じる映像作品。収容所という極限的な管理空間において、プロパガンダ映像や肉体訓練といった全体主義的な記号の中に、個人の欲望や生存の術を見出すその映像体験を通じて、排除と統合の論理によって消し去られてきた個の声を現代に呼び戻す。

 

森田玲音《太田川改修闘争》
ガタロ《731部隊》

 

森田玲音(1998年生まれ)は、広島の原爆を巡る「大きな物語」から零れ落ちた、周縁の人々の歴史を森田玲音は絵画によって紐解く。被差別部落の人々による闘争や、権力による「選別」によって拒絶された記憶を描き出すその筆致は、平和の聖域化が孕む欺瞞を暴き、特定のイメージがスペクタクルとして消費される影で不可視化されていく個を、再び歴史の前景へと引き出す。

ガタロ(1949年生まれ)は、広島市基町アパートの清掃員として数十年にわたり働きながら、労働の現場を描き続けてきた。本展では、戦時中の「731部隊」をテーマとした作品を発表。日々労働のなかで培われた圧倒的な肉筆を通じ、歴史の闇に葬られた凄惨な事実を、記録を超えた逃れようのない生の執念としてキャンバスに刻印する。

白川昌生(1948年生まれ)は、地域社会に埋め込まれた歴史的な記憶を掘り起こし、特定の土地が負わされた植民地的な地層を照射してきた。《群馬県朝鮮人追悼碑》は、県立群馬の森公園に設置されていた朝鮮人追悼碑(「記憶 反省 そして友好」の追悼碑)を行政が強制撤去したという暴挙に対して、白川が制作した撤去された碑と同型の彫刻。撤去後、前林明次、伏田昌弘との共同作業によってデジタル空間に再構築する試みは、物理的な破壊という名の検閲によっても消し去ることのできない歴史の事実を現前させ、公的な空間からいかなる力が記憶を排除しようとしているのかを問いかける。

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