萩原弘子『展覧会の政治学と「ブラック・アート」言説 ―1980年代英国「ブラック・アート」運動の研究―』(文 / 藤井光)

 

萩原弘子『展覧会の政治学と「ブラック・アート」言説―1980年代英国「ブラック・アート」運動の研究―』
文 / 藤井光

 

本書を「研究書」として論評する学識は私にない。アーティストとして萩原弘子の著書・翻訳書は、創作活動に活力を与えてくれる「実践書」になる。実際、著者の論文に触発されて作品を制作したこともあり、[1] 自分の創作を萩原ならばどのように図像分析(解体)するだろうかと想像することで作品の弛みを締め直してきた。もちろん、本人が現実に作品を批評したならば、作者である私には見えない美学的・美術史的な盲点を透視するだろう。[2]

著者は本書で「展覧会」を論じる。1980年から1994年までにイギリスで開催された「ブラック・アート」展を対象としており、何らかの言及のある展覧会の数は100を越える。15年間もの時間の流れのなかに点在するイギリス各地で開催された展覧会を繋ぎ、「ブラック・アート」概念の形成と変化を考察する壮大な試みだ。時代と場所を特定したこの規模の展覧会論を私は見聞きしたことがなく、概略的に内容を解説するだけでも意味があるが、ここでは今後の創作活動にいかにして本書が作用するかを示しておきたい。

今日の現代アートの展覧会はシステム化されている。観客に作品が鑑賞されるまでの一連のプロセスは技能別に分業化され、アーティストが自分で展覧会を企画し、展示スペースを確保して、必要な費用の調達(申請と助成)からプレス広報・図録の刊行まですべてを担わなくても済むように設計されている。

システム化された展覧会に招かれると、アーティストは自分自身の制作に集中できる一方、ある種の依存関係が成立し、愚鈍化を引き起こす。展覧会という社会的行為に関わるさまざまなアクターの間に生じる不均衡の力関係、すなわち「政治学」に対しての批判的距離(視線)を見失っていく。

数世紀に遡る人種的抑圧と移民労働者階級の搾取を被ってきたブラック・コミュニティ出身のアーティストたちには、その政治性がはっきりと見えていた。なぜなら、権力と権威の中心から「一貫する拒絶(consistent rejection)」を被り、イギリス美術機構(美術館、美術史、助成制度、美術ジャーナリズムなど)の外側に追いやられてきたからだ。

仮にその片隅に入れようとも「エスニック・マイノリティ・アート」という非白人のために用意された西洋美術の伝統ある「小部屋」に通されるまでだ。そこでは、かつてヨーロッパ美術の歴史を塗り替えた前衛アーティストたちが借用したアフリカの伝統文化の焼き直しが求められる。「エスニック・マイノリティ・アート」は、アーティストに特定の文化的役割を押し付け、主体的に現代的文脈で表現する創造力を周到に抑えこむ。

ブラック・アーティストたちはモダニズム芸術が現実に対して無力なことも知っていた。歴史に名を残した白人アーティストたちと同様に、都市から都市へと国境を超えて移動し、あらゆる伝統・エスニシティ・ナショナリズムを断絶し普遍性を追求しようとも、その革新的な芸術ですら「原始的な」ものと一体だと見なされる。西洋世界の外で再定義されたモダニズムは、結局のところ美術史記述の帝国主義的力学によって「エスニックな他者」として閉じ込められていく。

世界は今でも人種主義とナショナリズムの暴力が吹き荒れている。その一方で、今日の現代アートシーンはその現実世界に「対抗」しているかに見える。植民地化されたエスニシティ概念を解放させ、新しい概念を構築するリベラルな場として受け入れられているようにも見える。しかし、果たして本当だろうか。人種的抑圧の増幅に加担してきた美術(視覚芸術)が自らの変革を成し遂げ、問題は過去のものとなったのだろうか。それとも、かつてブラック・アーティストが「白人の人種主義はそんなわれわれの言葉よりもはるかに先を行っており」と自省を込めて警告したように、警戒を緩めてはいけないのか。私たちはもう少し「ブラック・アート」について知っておく必要があるだろう。

1981年にロンドン・ブリクストンで起きた蜂起/暴動と同期するように「ブラック・アート」運動が始まったことは、政治状況と芸術が切り離せないものとして動いたことを示している。アーティストたちは、それぞれの内発的な動機から「ブラック・アート」を標榜し、自主的にグループ展形式の展覧会をイギリス各地で開催していく。

作品展示に適さない公民館や雨漏りの修繕が間に合わない集会場での展覧会には図録もなく、史実が歴史の闇に消えていってしまう。ガリ版印刷のチラシ、小部数だけ作成したスクラップ帳、地方新聞に掲載された短い展覧会評など、著者は残された僅かの記録を突き合わせて「ブラック・アート」運動を歴史文脈に位置づけていく。それらは実に多元的な芸術運動だった。

世界の「アフリカ人」と繋がりイギリス少数移民集団という周縁化を打破しようとする「ブラック・アート」もあれば、そのアフリカニズム的姿勢を共同体主義的なものとして批判するブラック・アーティストもいる。地域の公立美術館を変革のための闘技場とするアーティスト・コレクティヴもあれば、ブラック女性アーティストの連帯を求める展覧会もあった。彼女たちの作品は、白人のフェミニズムに対する抵抗であるだけでなく、男たちの「ブラック・アート」に対する抵抗でもあったことが著者の図像分析で明らかになっていく。

アーティストたちが自主的に始めた展覧会は、それでも限られた観客しか知らないローカルな展示だった。SNSの無かった時代、新聞や美術誌の展覧会評の役割は大きいが、そもそも主要メディアは取材に来ない。美術は美術だけで力になることはない。美術は社会と結びついて初めて力となるが、社会とアートの変革を求めた「ブラック・アート」運動は、行政府とイギリスの主要な美術館と結合していく。

その頃、労働党はサッチャー政権に対抗するための党内改革を進めていた。その新たな試みとして「反人種主義とエスニック・コミュニティに奉仕する」という姿勢を打ち出す。労働党を基盤とする自治体主導の文化支援として「ブラック・アート」展を各地で開催するようになる。公的支援を基盤とする一方の美術館は、政体の動き(要請)に敏感に反応する。現代アートを展示してきたリベラルの面子を保つ上でも(1985年頃には「ブーム」の兆しもあり)、主要な美術館も「ブラック・アート」展の開催を計画する。しかし、そこにブラック・アーティストの作品を知る専門家はいなかった。

この知的基盤の「不在」こそが問題の核心だった。しかし、その問題は問われることなく、美術館はブラック・アーティスト数人を「作品選定者」として招き「ブラック・アート」展を実現させていく。展覧会を自主企画してきたブラック・アーティストにとって、美術館からの展覧会の誘いは、帝国時代からの常套手段として(食ってはならぬ)毒饅頭だと運動内で相当な議論(分裂)があったと私は想像している(スティーヴ・マックイーンの映画アンソロジー『スモール・アックス』(2022年)はその時代の雰囲気を捉えているのではないか)。

しかし、作品を公開することに意味があると考えられた美術館の企画をアーティストが拒否することは困難だったろう。全国を巡回することにもなる主要美術館展は、ブラック・アーティストの社会的認知の広がりが期待できることも運動に合致している。そして、なによりも、美術館での展覧会は作品がこの世界に生まれたことを肯定するものであり、先行きの見えない不安定なアーティストの未来を明るくしたに違いない。

美術館と作品選定者の権力構造がどうであれ、アーティストにとって作品が観客と出会うその瞬間にすべてが打ち消される、そう思いたい。しかし、展覧会の「主役」は決して作品ではない。作品選定者でもなくアーティストですらない。

私たちがしばしば忘れるのは組織にも「法人」という人格があることだ。それ自体が意志を発動する。美術館の「周縁化されたマイノリティを可視的な存在にする」という態度が形になるとき、ブラック・アーティストの作品を一堂に集める「総覧展形式」の展覧会が現れる。アーティストをエスニック集団として一括化する人種分離主義的な展覧会として、それは、新たなエスニック化を意味した。

マイノリティを集結させる総覧展形式の展示は、日本のような家父長体制下での「女性アーティスト作品」展の意義を重ねて考えると評価は簡単ではない。しかし、その状況は、多彩な作品が乱立する「若手アーティスト」展に近かったのではないかと私は推測している。美術館、キュレーター、アーティストの3層の権力構造は固定化され、その処遇(展示スペース、謝金など)にアーティストの決定権はなく、美術館が展覧会の主導性を覇権する操作的な展覧会だった。

イギリスで総覧展形式の「ブラック・アート」展が頻繁に開催されていた時期にあって、アーティストのルベイナ・ヒミドが作品選定者として関わったICAギャラリーの展覧会『A Thin Black Line』展(1985年)は、アーティストの自主性と主催者側の主導性が緊張関係にあったようにも思える。ブラック女性だけで構成する展覧会を自主的に企画してきたヒミドに与えられた展示スペースは、エントランスと食堂を繋ぐ「薄暗く細長い廊下」だけだったが、その不利な状況を逆手に取り、人種と性を理由にブラック女性が周縁化されてきた経験を「テーマ」とする展示を成し遂げている。

今日、私たちが知るテーマ展、あるいはアーティストを個として見せる個展へと展覧会の形式が変化していくには、現場でのさらなる抵抗とユーモア、苦々しい検閲と妥協を繰り返さなければならなかったが、展覧会をめぐる「政治学」はそれだけでは動いてない。著者はイギリス芸術助成組織である芸術評議会の政策文書から、迫られる内部改革、政府との関係の変化といった大きな政治的文脈の重要性を示す。

植民地統治の長い歴史のあるイギリスは国家政策として、エスニック・マイノリティを文化的他者として、「一応は」可視的な存在にするという思想/政策が存在した。それに対して「ブラック・アート」を多様な差異のひとつとする対抗言説も力を持つようになり、政府と芸術評議会は「文化的多様性」なる概念を採用するという変化が起きていく。

90年代は各国の主要な美術館が「世界の文化の多元性」に関心を向ける時期でもあり、その国際主義と「文化的多様性」なる概念がもつれ合い、人種・移民・難民問題を抱えるヨーロッパ全体において多文化主義が唱えられる時代が到来する。

日本のように旧植民地出身者を管理・抑圧・排除しようとする思想/出入国管理令(1951年)を引き継ぐ入管法を「改正」し、移民・難民をさらに「不可視な存在」としようとする国からすれば、30年前のヨーロッパですら進歩的に映るが、多文化主義の思想/政策をもってして、ヨーロッパの歴史的・美学的な枠組みが変化したように見えるならそれは違う。

スチュアート・ホールの多文化主義批判を引用する形で著者が述べるように「個のアイデンティティはエスニシティばかりでないいくつものコミュニティ(階級やジェンダー)との交差する関係性のなかで形成される」という人間の複層的な在りように対して、「文化的多様性」はエスニック・マイノリティである個の一意的帰属を想定するエスニシティ概念を温存し続ける。政府と芸術評議会が振興する「文化的多様性」によって、「ブラック・アート」が試みる社会とアートの変革が新たな段階へと進展したかというと、そうではないと著者は分析する。

本書が扱う展覧会は90年代前半までだが、私はその後の10年間をヨーロッパで過ごし多文化主義の失敗を見てきた。しかし、植民地化されたエスニシティ概念を含蓄する「文化的多様性」なる概念は、別の形をした「表面的正義」を装って生き延びているようにも見える。

今日の現代アートシーンは、作品選定者を外部から招き、「文化的他者」を結集させる展覧会がスタンダード化している。それは80年代の「ブラック・アート」展と何が違い、何が同じなのだろうか、本書が追求したように展覧会の「政治学」を詳細に広域に分析する必要があるだろう。

最後に本書を通じて私に見えてきたもうひとつの地平がある。それは、現代アジアの片隅で私自身も「表面的正義」を掲げ、国内のアジア系マイノリティをスクリーン上に結集させる映像作品を制作してきたことをどう内省するかという問題だ。簡単には言い切れないが、あえて端的に言い切れば、その動機の背後には「他者性」を絶えず必要としてきたモダニズム芸術の矛盾の継承がある。それは帝国の歴史に連なる「日本人・男性」という強者が依存するリベラル思想の欲望と結びついている。

それに対して本書は「ブラック・アート」展に関する情報収集とそのアーカイブ化、研究、出版、教育を可能にする知的基盤と組織基盤が不十分な現実世界に応答する。私にとって本書が存在論的に批評作用するのは、「ブラック・アート」を歴史文脈に位置づけようとする著者の追求そのものが、今なお未完の変革を一歩進めるための社会実践であるということだ。

 



*1 萩原弘子「南蛮屏風の黒人図像 : 視覚イメージの存在と研究言説における不在をめぐって」『異文化研究』2巻、山口大学人文学部異文化交流研究施設、2008年 https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/10625
*2 萩原弘子「共鳴する言説、交差する視線 : 藤井光『南蛮絵図』(2018年)を中心に」『人文学論集』38巻、大阪府立大学人文学会、2020年 https://researchmap.jp/read0020478/published_papers/29225301/attachment_file.pdf

 


 



萩原弘子『展覧会の政治学と「ブラック・アート」言説―1980年代英国「ブラック・アート」運動の研究―』すずさわ書店、2022年

萩原弘子|Hiroko Hagiwara
1951年神奈川県生まれ。大阪府立大学名誉教授。博士(学術)。専門は芸術思想史、移民文化論、カルチュラル・スタディーズ。主著に『ブラック——人種と視線をめぐる闘争』(毎日新聞社、2002)、『この胸の嵐——英国ブラック女性アーティストは語る』(現代企画室、1990)、共著に『美術史を解きはなつ』(富山妙子、浜田和子著、時事通信社、1994)、主な翻訳書に『視線と差異』(グリゼルダ・ポロック著、新水社、1998)、『女・アート・イデオロギー ——フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』(ロジカ・パーカー、グリゼルダ・ポロック著、新水社、1992)。

 


 

藤井光|Hikaru Fujii
美術家。東京都生まれ。さまざまな国や地域固有の文化や歴史を、綿密なリサーチやフィールドワークを通じて検証し、同時代の社会課題に応答する作品を、主に映像インスタレーションとして制作。近作は、米軍が東京都美術館で開催した日本の戦争絵画展を再現した《日本の戦争美術 1946》(東京都現代美術館、2022)、福島からの避難民に対する不条理な差別を構造化させた《あかい線に分けられたクラス》(水戸芸術館、2021)など。第10回アジア・パシフィック・トリエンナーレ(クイーンズランド州立美術館、2021)に参加、森美術館開館20周年記念展 「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」(会期:2023年4月19日から9月24日) に出展する。

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