連載 田中功起 質問する 18-4:馬定延さんへ2

第18回(ゲスト:馬定延)―アーティストへの質問、あるいは「これまで」と「これから」の間には何があるのか

映像メディア学研究者の馬定延さんとの往復書簡。田中さんからの二通目の手紙は、ベルリンでの最新プロジェクト(イベント)を紹介しながら、映像の「展示」と「上映」をめぐるある視点について綴ります。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:惑星的な思考について、そして新しい映画

 

馬定延さま

 

お返事がたいへん遅れてしまいました。
現在ベルリンにいます。ベルリンのコロナの感染者数は一時期収まっていたようですが、秋口にさしかかってどんどん増えてきてます。地下鉄やバスなどの公共交通機関ではマスク着用が義務づけられていますが、お店などではマスクをしているひとは少なく、飲食などを介して感染が拡大しているのかもしれません。こちらにきてからは鼻ぬぐいのコロナ感染テストをほぼ毎日しています。安価であるというのも理由ですが、ミーティングも多く心配なのもあります。


「Where is the Planetary? A Gathering」で作られた原始的スープを参加者や観客が食べています。

 

さて今回の滞在は、世界文化の家(Haus der Kulturen der Welt、以下HKW)でのライブ・イベント企画に関わっていたためです。昨年から1年ぐらいをかけて議論を重ねてきたもので、なかなかタフなミーティング数だったのでやっと形になってほっとしてます。ほぼ週一でやってました。
馬さんとのやりとりのなかで出てきた映像の「展示」と「上映」をめぐる話、それに対してちょうど別の視点を提供するのではないかと思うので、このイベントについて書いてみます。

 

Where is the Planetary?

 

「Where is the Planetary? A Gathering」というこの企画は、いわゆる「人新世」をめぐる知の共有を目指して組織された「Anthropocene Curriculum」(以下AC)というHKWでの10年間のプログラムの最後を飾るものでした(*1)。今年の終わりにはHKWの総合ディレクターが交替するため、各部門のキュレーターを含むそれぞれのチームも解体されます。ACは人新世についての地質学調査から、研究者同士の意見交換をかねたシンポジウム、アーティストや演劇関係者などの文化実践に関わるひとたちと科学者との領域横断的なネットワーク作りまで、多岐にわたるプログラムを行ってきました。いわばぼくはその最後の最後に遅れて乗船したようなものです。

一見、惑星規模の気候変動などを問題にする人新世とぼくの制作実践は結びつかないように見えるかもしれません。でもHKWのチームがプログラムの背景におくのは、ジャマイカの思想家シルビア・ウィンターによる「Being Human as a Praxis」(人間とは実践である)という考え方です。日々の活動や実践こそが人間であることを規定する。それが惑星的思考の根底にあります。

ぼくには当初、この惑星における居住性をめぐる5つの問いが与えられました。具体的には「居住性の条件とは何か?」「居住可能性はどのように計測できるのか?」「どのような惑星規模のダメージが修復しうるのか?」「どんな行動をとるのかの意思決定を行うのは誰か?」「どのようにして私たちは惑星の物語を語れるだろうか?」というもので、その問いに対応するある種の思弁的なモデルを探ることが数日間のプログラムとして設定されていました。

ぼくはそれらを5つの行為として捉え直し、例えば居住性の条件はレシピとして、あるいは意思決定をめぐるモデルは身体の疲れとして導き出される、というように多少飛躍をともなう詩的な行為とモデルを提案しました。結果、以下のような状況が生まれました。地質学者と文化史研究者とアーティストが共に料理をし、居住性の条件についてのレシピを書き、古生物学者と人類学者とデザイナーと精神分析医が持ち寄ったオブジェの意味を語りあい、フィクション・ライターと哲学者と演劇研究者が意志決定のプロセスを身体を使った協働のパフォーマンスに置き換え、歴史家と地理学者たちが惑星的な物語をどのように語るのかを議論する。3日間のイベントの真ん中に位置するアクティビティの日は、それらが同時進行する少しカオティックなものでした。

さらに、会場となった劇場空間にはたくさんのカメラを配置し、クイア/フェミニストの映像コレクティブ、TINTとそのネットワークを介して集められたチームが記録撮影を行いました。TINTのチームには、通常の撮影のように、その場にいるのにあたかもいないかのように振る舞うのではなく、普段着でカメラやマイクを操り、ライブイベントの重要なアクターを担ってもらいました。

AC参加者たちが10年間、研究を重ねてきたデータや理論をいわば人間レベルのコミュニケーションと実践に落とし込む。それがぼくの行ったことです。惑星的思考と個人的なことの間をどうつないでいくのか、それがぼくの狙いでした。

 

ライブ・イベントと映像製作

 

さて、今回の話題に関係する部分は、ライブ・イベントと映像製作という二つの関わりあいです。
「Where is the Planetary? A Gathering」はあくまでもライブ・イベントとして企画されてます。映像製作はそれに含まれるひとつのレイヤーであって映像にすることが目的ではありません(結果として映像が作られるとしても)。ライブ・イベントなので観客もいます。タイムテーブルがあり、シアター・マネージャーがいて、ドラマトゥルグもいます。緩やかな進行表に従って一日は過ぎていきます。撮影による中断(例えば撮り直し)はありません。

対照的なのは2017年に参加したミュンスター彫刻プロジェクトでのぼくの試みです。こちらは映像製作が中心であり、出演者たちは9日間のワークショップに参加しつつも、マルチ・チャンネルの映像として編集された上で展示されることを理解してます。撮影準備のための中断があり、出演者たちには、撮影にかかる時間と、編集後の映像内での時間経過の差も実際に経験してもらいました。階段を降りる、という日常的な動作であっても、階下へのカメラの移動やアングルを変えるための時間など、実際にはなかなか先に進みません。現実と撮影の時間を実際に体感することで、あくまでもこれは映像のために行われているんだってことを実感してもらったわけです。

映像とライブ・イベント/ワークショップの関係性を考えるとき、この二者でベクトルが逆転していることがわかります。
わかりやすくするために同意書についても触れておきましょう。ミュンスターでは出演同意書は事前にサインしてもらってます。一方、「Where is the Planetary? A Gathering」ではイベント参加と撮影許可についてはHKWと参加者との間で契約が交わされてますが、最終的に編集される映像への出演同意書は後日改めて交わす予定です。前者は撮影前に映像としてまとめることが前提になっていますが、後者は映像としてまとめ上げることが前提になってません。

ではライブ・イベントと映像製作の上記のようなベクトルの違いは、どのように展示と上映への議論に関わるでしょう。
ライブ・イベントを優先した映像製作と、映像製作を優先したワークショップ。もちろん作られる映像のトーンは大きく異なるでしょう。前者は「イベント記録」と呼ばれるかもしれない。後者は「ワークショップ映画」と呼ばれるかもしれない。しかし、この双方の間を考えることはできないでしょうか。つまり、ライブ・イベントと映像製作の一方向へのベクトルではなく、双方向的なあり方を探ることはできないでしょうか。映像製作としてのライブ・イベント、あるいはライブ・イベントとしての映像製作。

 

展示と上映を行き来する

 

簡単に振り返っておくと、展示空間において観客は出入り自由であるため、映像作品を途中から見て途中で出ていくのが基本です。映画館においては観客は上映の始まりから終わりまで見るというのが基本です。

展示空間に複数の映像が一つのインスタレーションとして展示されている場合、観客は、その複数の映像間を自由に移動するため、ある意味では自ら編集しているとも言えます。ぼくはそのように途中から見て途中で出ていくことを積極的なこととして捉えています。一方映画館では、観客は作者による編集をストレートに経験することになる。それを窮屈に感じる人もいるかもしれないし、わかりやすいと感じる人もいるかもしれません。ぼくの編集技術で言えば、展示空間で観客が経験するほどの自由度を映画館での上映には提供できていないと思います(良し悪しあると思いますが)。

ただ、映画館での上映に対して、展示空間での映像経験と比較して、何かが足りないと感じることもあります。それはどれだけ現実空間と映像内で語られていることが地続きとして経験されるのか、という点です。映画の良さは、そこで繰り広げられていることがこの現実とは別の世界であることを想像的に経験させることです。同時に、その距離によって現実に影響を与えることができる場合もある。映画として対象化されているからこそ、目の前にある現実も同じように対象化し考えることができる。没入と距離によって、映画はぼくたちにこの現実への対処の仕方を教えてくれる。でもいまどれだけの映画がそれを可能にしているでしょうか。

展示と上映を行き来することは、その間で考えることを促します。先に書いたライブ・イベントと映像製作の間もそうです。いずれにも対応しようとすることには、無理が生じます。でもだからこそ、別の映像/映画が生まれるように感じています。映画監督が片手間に映像の展覧会をやるのでもなく、現代美術作家が映画製作の文脈に則って映画を撮るのでもなく、何かその間にあるものを目指すこと。

ゴダールもこの世を去った。それでもぼくたちにはまだ別の、新しい映像/映画を生み出す可能性はある、そう思います。まあ、それは映画業界のよそ者だからこそ言えることかもしれませんが、といま飛行機の機内で夢想してます。

次回は馬さんからの三通目になりますが、さて、どうしましょう。まだまだやりとりしていないことはたくさんありますが。

 

田中功起
どこかの空の上で 2022年10月


 

近況:11月はバンコクで行われている「Ghost 2565」に参加します。夕方6時に集まって、翌朝6時まで過ごすというイベント「Eating an Apple While Lucid Dreaming」を行う予定です。

 



1. 「Where is the Planetary? A Gathering」、世界文化の家(ベルリン)、2022年10月14日〜16日
「Anthropocene Curriculum」のウェブサイトでも「Where is the Planetary? A Gathering」に関するステイトメントやインタビューを公開している。

 


【今回の往復書簡ゲスト】

馬定延(マ・ジョンヨン)
1980年韓国ソウル生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科修了(博士・映像メディア学)。著書『日本メディアアート史』(アルテスパブリッシング、2014)、共編著書『SEIKO MIKAMI: 三上晴子—記録と記憶』(NTT出版、2019)、論文「光と音を放つ展示空間—現代美術と映像メディア」(『スクリーン・スタディーズ』東京大学出版会、2019)、「パノラマ的想像力の作動方式」(『To the Wavering』展カタログ、ソウル市立美術館、2020)、共訳書『Paik-Abe Correspondence』(Nam June Paik Art Center, 2018)、『田中功起:リフレクティヴ・ノート(選集)』(アート・ソンジェ・センター+美術出版社、2020-21)など。現在、関西大学文学部映像文化専修准教授、国立国際美術館客員研究員。

※企画・進行で関わる表象文化論学会 第16回研究発表集会(関西大学)が2022年11月12日(土)、13日(日)に開催予定。オンラインでの無料参加可能プログラムもあり。

 

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