椿昇 インタビュー (1)

生産現場を耕す
インタビュー/編集部


「12」(部分)(2009) 撮影:四方邦熈、写真提供:京都国立近代美術館

ART iT 椿さんは京都造形芸術大学の教授として積極的に動き回っていらっしゃいます。作品を制作する以外に、さまざまなトークなどのイベントにも参加しています。

椿昇(以下NT) 教育とは直接関係ないかもしれませんが、今日も広告代理店から話をしてくれと言われました。今、広告代理店で働いている人というのは秀才が多いのです。秀才は優秀すぎて皆ができることがすぐにできてしまう。データベースから最適な答えをひっぱってくることが得意なんですね。でもすぐできることはどこかで見た事がある、既存のものしかでてこないのです。そういう意味では、昔の電通はすこし変わった人が混じっていました。そこに創造性があったわけです。
しかし最近は秀才ばかり集まって、創造性が失われてしまった。それは代理店全体が抱える危機感に繋がっていて、もっと創造性を持った人はどのようにしたら生まれてくるかを考えているのだと思います。

ART iT そもそもアート的クリエイティブに広告代理店を初めとする企業が興味を持ち始めたのはいつ頃からでしょうか。1970年代、80年代に広告ブームがあって、アート的な広告がたくさん制作されました。

NT それは簡単ですよ。貧乏になってからです。不況や出口がなく、自信を失ってからです。80年代の広告ブームは真剣ではなくて、バブル経済でお金があまっていることからおしゃれなものに飛びついたわけです。いわばアート的なものでありアートそのものではなかった。だから景気が悪くなるとひっこんだわけです。アートはそんなものではありません。アートはどんなに不況でもやめてはいけない、やめられないものなのです。

ART iT では今の方が企業はアートに対して真剣だということですか。

NT はい、本気度が高くなっています。きちんと話を聞き、実現のために動こうとしていると思います。金銭的な面というより、一緒に汗をかくという地味な取り組みにも一緒に関わってくれるのです。それは悪いことではありません。

ART iT 作品制作だけでなく、大学での活動や、そうした企業とのコラボレーションなどを通じて椿さんが目指しているのはどんなことなのでしょうか。

NT 僕が一番やりたいのはアートによる内需拡大です。みんなが普通にアートを買って、アーティストが生活できるようにしたい。明治以降に始まった団体展を中心とした海外の動向とは全く相容れないガラバゴス的な作品の流れと現代美術が全く乖離しすぎている。美術はその二者択一ではなく、皆の暮らしの中にも存在するアートができないといけないと思っています。
これだけ世界で最も美術館に行くとされている日本人が作品を買わない。多くのギャラリーのほとんどの売り上げは海外への販売です。それはおかしいでしょう。だから、内需拡大を推進しようと考えました。まず内需がなくては輸出もないと思っているわけです。日本は全体の経済規模にくらべてアートを売買している規模が小さすぎます。
日本人が作品を真剣に買う仕組み、つまり真剣に自分の価値観や美学、人生を鑑みて、納得してこのアーティストの作品が欲しい、この人に関わりたいという場合に、しっかりしたマッチングができる仕組みをこれまで我々は作ってこなかったと思います。それは教育機関も美術関係者も怠慢であったが故です。そうしたエンドユーザーを作らず、日本人にはアートがわからない、と言い続けてきたのがこれまでのアート業界だと思っています。そうした状況を、買い手になりうるエンドユーザーは冷たく見ていたと思います。レベルの高いものはまだ日本にはいっぱいありますし、日本には素晴らしいエンドユーザーがたくさんいる。我々は今までのことをきちんと反省して、これから将来に向けて、どう掘り起こしていくのかが今の課題だと思っています。具体的には、僕は学校という生産現場にいるので、生産者である学生や卒業生とエンドユーザーをつなぐ取り組みをしています。

ART iT アーティストが作品を売却して生活していることはもちろん重要なことです。しかし一方で、金銭的に自立していけることがアーティストのゴールであってはいけないのではないかという疑問が生じます。

NT そういうことではありません。例えば農業では、最低水準だとしても200万円を稼ぐ農家があり、自給分も併せれば、それでなんとか生きていけるわけです。
たとえばトロントにいる僕の友人であるアーティストは、毎週日曜日に公園で作品を売って年間200万円程度稼げる。それだけである程度生活していけるわけです。そうして活動しているうちにギャラリーがつく。でも、日本ではそれすらも成立しません。「アートのことはわかりません」「アートは特別な人のものです」と皆がいい、関係者もアーティストもそれに安住している。そうしてアートを特権的なものにしようとする動きには僕は徹底的に反対します。19世紀まではそんなことはなかったと思っています。それなのに、それ以降「芸術」「美術館」とすることで普通の人から美術を簡単に享受できる機会を奪ってしまい、消費の対象でなくしてしまいました。アートにおいて「消費」がよくない、という人が多いですが、僕は消費して初めて成立するものがあると思っています。そもそも日常生活であらゆるものを「消費」している人々が、なぜアートに対しては「消費」をいけないものにするのか、理解に苦しみます。そうした根本的なことから弄っていこうとしています。

ART iT 作品を通じてというよりもシステム改革を実践していくことが活動であるわけですね。

NT 活動というよりも、僕はアート=システムの問題として認識しています。認知の枠組みの変換、システムの変換こそがアートであって、みやげものの量産はアートではないと思っています。ほとんどの人がアートと無縁だとすると、みやげものの量産体制でプロダクトとしてのアートが流通してしまう。それをどうこういうつもりはないけれども僕が考えるアートというのはそれとは別のものです。

ART iT それでは、椿さんが考えるアートというのはどういうものでしょうか。

NT やっぱりシステムですね。ベーシックインカムなどの考え方を考えた人はすごいと思います。しかし、アーティストはシステムだけでなく、プロダクトの量産も両方やらなくてはなりません。
現在、美術は危機的状況にあると思います。マーケットがとても強くなっていて、展覧会やキュレーション自体が崩壊している状態です。こういう世の中で果たしてアートは成り立つのだろうか、などと考えます。でも逆に言うと、この状態がおかしいと自覚して僕に同意してくれる人もたくさんいるので、その意味では多様性がでてきています。僕は自分のやり方で生き延びていくのです。
マーケットもいろいろあると思いますけれど、僕の場合はアートをトイレットペーパーにしようと思っているわけです。呼吸するように、ないと困るものになってほしい。多くの人が、人生の節目節目でアート作品を購入していくようになってほしいと思っているわけです。でもそれは、インテリアとして壁掛けの作品を買ってほしいというのとは違います。


「GOLD 2004/2008」 撮影:四方邦熈、写真提供:京都国立近代美術館

ART iT 一方で椿さんの構想とは逆に、作品をたくさん売って金銭的に豊かになる学生ほど順列が上に行くような誤解を与えてしまいませんか。

NT いや、全く反対で、トイレットペーパーになってほしいわけだから、トイレットペーパーは儲からないよ、ということも伝えています。アートを消耗品にしてやりたいと思っているわけです。アートをトイレットペーパー化にすることは僕の中でもっとも革新的(ラディカル)な考え方なのです。駅で配られるティッシュの様に作品を扱われて、平然とできること、大量につくることが大切だと思う。作家性など考えず、アノニマスで存在してもいい、ということです。

ART iT では、作品が私の子供であるといった思い入れはいらない、ということですか。

NT 思い入れなんて全部はさみでぶちぶちと切り離します。画力とかセンスなどといったものはもちろん必要条件ですが、本能や思い込みだけで作品を作ることはやめさせています。少なくとも学生のうちは大量に生産することが大事だと思っています。呼吸するように制作し、それに耐えろ、ということです。あとのことは目利きの専門家がなんとかしてくれるのです。現場で僕らがやっていることは、軸の太いブロッコリーをつくることです。苗として太いものを作って世の中に出す。現場は生で、人と人との付き合いです。
作品、というのはそうした人と人との付き合いの結果という考え方で、芸術というのは作品よりも人だと思っているし、作品よりも人間のその奥にあるものに興味を持っている。僕の場合は身近にあるものということでたまたまアートをやることになったけれども、自分の概念や価値観を出すのに、法律学者、政治学者になっても経済学者になっても同じだったかもしれない。けれども僕の場合はやはりアート以外だったら、ストレスを感じたと思います。アートは自分で考えたモデルというものを非常にダイレクトな形で実践できるわけです。それをやりながら反体制運動家ともよばれずに生き延びる仕組みを作れるわけだからアートというものはすごいです。

ART iT 徹底的な現場主義を貫いていくわけですね。

NT ただ現場にいるだけではなく、一緒にやらないとだめです。率先垂範でやらないと説得力がない。ルールは対等でなくても身体的な面では対等にやらないと皆がついてきません。人間同士にはそういう泥臭い部分での説得力があります。
美術大学には幻想を持って入ってくる学生が多くいるので、1年生の前半は「考え方を考える、作り方を作る」というテーマで、モノを作る前の考え方の前提を組み替えることから始めます。それによってアーティスト幻想をつぶす。しかし、美大にはいってくる子は精神的に弱い子も多いので、それらと1対1で話しながらカウンセリングのようなことをすることもしばしばです。
大学1年生で学科を超えたワークショップ形式の「ねぶたプロジェクト」をやることで出席率があがります。今は社会全体から共同体という概念が失われているからアナクロではあるけれども、共同制作である「ねぶた」をやることによって、学生は身体的に覚醒をしていきます。身体と脳が離れているのをマッチングさせるわけです。それはすごく効果があり、弱さを克服できるようになる。それでもやはり登校しなくなる学生がいます。彼らと正面で向き合うのが我々の仕事であるので、丁寧に対応をしていますが、それを教育といわれると違和感があります。そうした正面の向き合いを毎日続けているので、どちらかというとカウンセリングなどの医療行為に近い感じだと思っています。少なくても僕の周りには上から指導するといった形で学生と向き合っている人はいません。
そもそも、自分が中学や高校で教えていた時も、中学生や高校生にとって、逃げ場の場所と言えば保健室と美術室でした。そういう意味で美術教育というのはそうした逃げてくる子を受け止め、向き合う受け皿として必要だと思うのに、今は美術の授業時間を減らされたり、専任教師を減らしたりしている。逆だと思いますね。


京都造形芸術大学 「グループワークショップ-京造ねぶた-」(2008年)

ART iT 教育の場合、高校でも大学でも、教師として学生に拘ることができる時間は限られていますよね。したがって、「ねぶたプロジェクト」で大きく改善されたとしてもその高揚感も含む身体的な改善が持続するのでしょうか。

NT そこが現在の問題です。「ねぶた」のような身体的な体験の後のプログラムがまだ未整備です。従って燃え尽き症候群になる学生も出てきます。「ねぶた」は学科横断のワークショップですが、夏以降については各科でのプログラムなので、それぞれにがんばってもらわないといけません。

ART iT 椿さんが目指している教育を実現させるためには大学という枠組みが必要なのでしょうか。独自に、たとえば私塾という形をとってもできることではないでしょうか。もしくはまったく逆に公立のシステムのなかで行うということなども考えられませんか。

NT 公立ということにはまず興味がありませんし、向こうも僕のことは嫌でしょう。しかし大学という枠組みは必要ですから私立大学で行なっていきます。なぜ大学かというと、まず、高校生とその親とは保守的なもので、僕が私塾を開いても絶対来ないと思います。大学というパッケージは僕が考えることを実現するために必要なのです。美術大学の難しいところは、美術だけを学びに来るところと思われていて、他の学問をやりたくて、でも少し美術に興味がある、という人は来ないところです。特に男子学生は多くの場合、家族も含め圧倒的に保守的で、大学でアートを学びたいなどと言えば親族会議などに発展するくらい大きな問題になってしまいます。そうした保守的な考えに未だに大きく捕われています。一方、比較的家族の許しが得やすい女子学生は、そういうしがらみがなく、自由なので、入学してから伸びる学生が多くいます。多くの学生がいるというスケールメリットは、大学という枠組みならではであり、それは学生同士で切磋琢磨できる点など、いろいろな意味で魅力的です。
現代美術は美術だけではなく、建築、文学、哲学、映画などすべての分野を網羅した横断的なものですが、最近の学生は自分の専攻分野だけしか興味をもたない人が多いですね。だからなんとか考えさせることも含めて、それを総合的につなげていく作業をしています。

ART iT 気が遠くなるような作業ですね。

NT そうです。自分が自信を持って言えるのはそれを現場で泥まみれになって行なっているということです。それも偏差値50以下の学生の面倒を見てきたこと。彼らをアートによって救い出すような仕事をしているわけです。彼らは偏差値では判断できないような非常に魅力的な直観を持っていたりするので、そういう部分を見ることができるのはこちらも非常に力をもらいます。ブラジルの『シティ・オブ・ゴッド』(2002)のように危ないけれども、生きている実感があります。

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