ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ インタビュー

まなざしの平等性を求めて
インタビュー / アンドリュー・マークル


Cinema Olanda Film (2017), digital projection, 17 min, installation view in the Dutch Pavilion at the 57th Venice Biennale, 2017. Photo Giacomo Frison. All images: © Wendelien van Oldenborgh, courtesy the artist and Wilfried Lentz Rotterdam.

ART iT あなたの作品について調べているとき、日本や世界各地の1920、30年代のアジトプロップ美術やプロレタリア美術のことを連想しました。労働者のストライキや組織化を描いたそれらの作品は、表象や記録ではなく、観客にそれぞれの状況に合わせて使える道具として提供することを意図して制作されていました。あなたの映像制作のアプローチも、そうした美術と同じように、参加者が制作過程の一部として内容を構成、分析するというワークショップ形式に基づいていて、観客に表象メディアに関する自分自身の働きを認識するように働きかける。自分の実践とここで挙げた過去の実践の遺産とのあいだに何かつながるものを感じませんか。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ(以下、WvO) いいえ。アジトプロップ美術には常に効果的に伝えようとする非常に明確なメッセージや政治的姿勢がありましたが、それに対して、私は開かれた作品をつくろうとしてきました。あなたが言う通り、私の制作過程には、たしかに参加者が積極的に芸術生産に関わり、観客にも自分の立ち位置を見つけてもらいたいと考えています。しかし、私の狙いのひとつは、常に、複数の声、すなわちポリフォニーの可能性の余地を残しておくということにあります。ポリフォニーとは、差異がたったひとつの声に集約されることなく、差異が差異のまま留まることができるように、差異を創造し、生産する潜在的な可能性のことだと理解しています。さまざまな社会状況に差異が存在していてほしいし、それが豊かなものであってほしい。それが狙いで、「これこそが正しいメッセージで、あなたが信じるべきものだ」と言うのとは違うし、まさにそうならないようにしています。

ART iT しかし、あなたが制作を共にする人々が通常プロフェッショナルな役者ではないとしても、映像やメディアのなかに表れれば、彼らは表象となる。彼らは何を表象しているのでしょうか。

WvO 私はポリフォニー的なアプローチをとることで表象に抗おうとしています。このアイディアは作品に登場する人々の主体性を複数のものとして見せるもので、一方、表象はこうした複数の主体性をなんらかの種類やもののたったひとつのイメージへと還元してしまう。「From Left to Night」(2015)は良い例です。この作品の主要人物のひとり、ディーンは、自分の人生を演じる役者にでもなったかのように芝居がかった調子で話したり、友人とおしゃべりしたり、スタジオでラップを歌ったりと、同じ作品のなかでさまざまな声を使う。いかにある人物が私たちの想像するようなひとりの人物像に収まらないか。彼はただラッパーというだけじゃなく、人生を通じてある経験を積んできた、恥ずかしがり屋で思いやりのある男で、そして、今、彼は異なるバックグラウンドから来たほかの誰かとある特定のやり方で答えている。重要なのは、彼がいわゆる「表象的なもの」のひとつのかたちに還元されないこと。当然、映像は表象であるという問題はありますが、私はそのような表象の単一性を揺るがせようとしています。


From Left to Night (2015), HD video, 32 min.


From Left to Night (2015), HD video, 32 min.

ART iT 「From Left to Night」の別の場面では、参加者のひとりである、学者兼アクティビストのデニーズ・フェレイラ・ダ・シルバが、多文化主義は1980年代に影響力のある運動として現れたのち、メインストリームへと吸収されることになったと断言しています。

WvO デニーズはすばらしい女性で、彼女が映画で語る1980年代のアクティビズムに直接関わっていました。彼女はそれを表象的な運動だと捉えていて、なぜなら、多文化主義の運動に関わった人々は、自分たちの起源、それを社会のなかでどのように表現し、認識させるかといったアイディアに焦点を絞っていたから。そして、彼女はそれが失敗に終わったと感じています。そこで、今、彼女は政治を行なう別のやり方を見つけるために執筆や思考といった自分自身の仕事を調べていて、私自身も政治的なものへの新しいアプローチを探っていたので協力することにしました。デニーズは自分の書いたものや学術的な研究といったかなり難解な、理論的な仕事を通じて新しいアプローチを探り、一方、私はデニーズに比べるとやや理論的には劣るけれど、映像制作を通じて探ったり、物事は私たちが現在理解しているようなアイデンティティ・ポリティクスにそんなに還元可能なものではないという考えを伝えようとしたりしました。しかし、新しいアプローチを獲得する方法は常に問われています。そして実際、私はカメラの前に人々が探求しうる状況を設け、それによって何が起き、そこにいる人々次第でどこまで深くいけるか、どのような言語となりうるのかを試しています。

ART iT そこに私はプロレタリア美術の残響を聴きました。この映像を見ている人々は自分たちの複数の主体性を掘り下げるために結集することができる。言い換えれば、あなたが描くプロセスを観客が真似できるということ。

WvO 映像作品の外で反復可能だということですか。

ART iT その通り。その上、あなたの映像に出演する誰もが「専門家」だということではありません。さて、同じ「From Left to Night」のなかに、教養豊かな老学者と売れないミュージシャンが隣り合う場面がありますね。

WvO はい、その組み合わせは気に入っています。私たちが使うことができる知識もさまざまな種類のものがあることを示すのは大事なことでした。それは学術的なもの、政治的な、既存の知識に限定されることなく、数々のかたちをとりうる各人それぞれの意図や言語にも拡がる。それこそ、私が幅広いタイプの存在や語り、あるいはカメラの前の存在を含めようとした理由です。

これは「Bete & Deise」(2012)という映像作品でも追求しました。ふたりの女性がいかに異なる仕方で政治的となりうるか、と。ベテ・メンデスは元女優のアクティビストで、実際にブラジルの代表制政治に参加している政治家。一方、デイズ・ティグロナは若きシンガーで、自分自身を決して政治的な人物だと考えたことがない。代表制における経験や自身がキャリアを通じて積み重ねてきたものによって、ベテは政治が代表制を通じて、当然それはある一定だけれども、機能すると信じていますが、一方、デイズは歌を通じて表現するその身体や存在それ自体がある種の政治的運動。

いささか単純かもしれないけど、このふたつの語りを引き合わせ、互いに遠慮なく話し合ってもらうことで、もうひとつ別の政治性が生まれうるかどうかを見てみるのは面白いのではないかと思いました。しかし、そこで起きたことは実際にはかなり見るに耐えないもので、撮影の間に、ふたりの距離がどんどん明らかになっていきました。ある種の政治に強く関わった年上の女性は、すぐ目の前にいるにもかかわらず、彼女の政治の対象相手を自分のことのように感じることはできなかった。ベテは社会的弱者支援に関わっていると言いましたが、自分が博愛的に世話をしていると想像しているグループの一員と会話をすることさえできない。目の前に立つ女性が耳を傾ける、あるいは共有する価値のある彼女自身の知識を持っていると認めない。これこそまさに、このような政治から生じる問題です。しかし、完成した映像作品のなかで、政治の失敗をここまで明白なかたちで目にすることができたことに私はとても満足しましたし、観客もそうであってほしいと思います。

ART iT 多文化主義に関して、それはあくまでも象徴的なものにすぎず、決して実際の社会に影響を及ぼさない、あるいは、むしろその逆で、象徴として物足りず、私たちの象徴に対する慣習を変えるところにまで至らないということがあります。


Bete & Deise (2012), HD video, 41 min.


Bete & Deise (2012), HD video, 41 min.

WvO オランダでは、そしてイングランドでもそうでしたが、当時の政策決定に問題があり、そのために多文化主義に関する政策が実際には差異の境界を強化してしまいました。たとえば、オランダでは各グループのための助成金が、結果として各グループをそれぞれ隔離する効果をもたらしました。1970年代のオランダのアクティビズムを扱った「Prologue: Squat /Anti-Squat」(2016)を制作したとき、当時はさまざまなグループの間に数々の連帯が存在したことに気づきました。たとえば、当時の女性運動のなかでさえ人種差別があったので、あらゆる非白人女性は自分たちの立場を強くするために結束しました。しかし、現在はあらゆるグループがとても隔離していて、モロッコ人女性もスリナム人女性も自分たちのための運動に取り組んでいる。文化活動や特定のグループのためのコミュニティセンターを対象とした助成金システムがその原因で、そして、今、あらゆる助成金が打ち切られ、より大きな混乱が生じています。これは、もはや多文化主義が政治としていかに機能していないかを示す一例です。それからもう一方で、あなたの言う通り、象徴的な領域もより深く掘り下げていく必要があるというのは、まったくもってその通りです。現在、オランダでは非常に露骨な反黒人差別運動が現れてきただけでなく、あらゆる人種差別の存在を認めない人々がいます。ですから、私たちは「オランダ人」という虚構や、オランダ人らしさの証という考え方と戦っているのです。

私が取り組んだあらゆる問題を「Prologue: Squat/ Anti-Squat」も出品したヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ館で提示しました。たとえば、スクウォッティングは「オランダらしさ」のとても重要な要素です。なぜなら、それは開かれた社会の一部で、アムステルダムという都市のイメージに多大な影響を与えました。しかし、スクウォッティングに関する言説には、黒人によるスクウォッティングのことが決して含まれない。スクウォッティング自体が社会の主流に対するオルタナティブだと考えられているにもかかわらず。スクウォッティングの場合ですら、その言説に白人以外を含められなかったことは、私に多くのことを語っています。

ART iT 他者のなかにさえ、他者がいるということですね。

WvO まったくその通りです。そして、それはスクウォッティングの現場に極めて顕著でした。私にはただ1970年代に起きた大規模なスクウォットについて学びたいという好奇心があったので、それは必ずしもこの作品を制作した理由ではないのですが、調べれば調べるほど、話をすればするほど、オランダのスクウォッティングの歴史に人種の問題が記されていないことが不可解に思えたのです。


Still from Cinema Olanda Film (2017).

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ インタビュー(2)

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ|Wendelien van Oldenborgh
1962年ロッテルダム生まれ。ファン・オルデンボルフは出身地のオランダ、インドネシア、ブラジルなど、さまざまな地域における植民地主義や資本主義、政治的な運動に関連する出来事を掘り下げたマルチメディア・インスタレーションを発表している。異なる背景を持つ被写体との協働を制作過程に積極的に取り入れた映像作品が多い。ロンドンのゴールドスミス・カレッジで学んだのち、ヨーロッパ各地やサンパウロを経て、2010年にロッテルダムに戻り、現在も同地を拠点に制作活動を行なう。2000年代後半より、国際展や世界各地の美術機関での企画展に参加し、2011年には、第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ・デンマーク館の企画展『Speech Matters』に「Supposing I love you. And you also love me」(2011)を出品。あいちトリエンナーレ2016では、前年のロンドンのThe Showroomでの個展の際にコミッションワークとして制作した「From Left to Night」を出品した。2017年には第57回ヴェネツィア・ビエンナーレ・オランダ館で個展『Cinema Olanda』を開催。スリナム出身でアメリカ合衆国共産党の創設に関わったオットー・ハイズワウド(Otto Huiswoud)の生涯と、インドネシアの独立を機にオランダに送還された人々が生み出したインド・ロック現象やヘリット・リートフェルト設計のオランダ館の建築を結びつけ、「オランダらしさ」という概念に疑問を投げかける新作「Cinema Olanda Film」などを発表した。
本インタビューは、東京都現代美術館主催の『Après la reprise, la prise』のために来日した際に収録した。同展では、東京藝術大学上野キャンパスのアート&サイエンス・ラボで「Après la reprise, la prise」を発表。そのほか、スクリーニングやトーク、若手アーティストのためのワークショップを実施した。

MOTサテライト 2017秋 むすぶ風景
2017年10月7日(土)-11月12日(日)
会場:清澄白河エリアの各所、東京藝術大学上野キャンパス、アーツ・アンド・サイエンス・ラボ
展覧会URL:http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot-satellite-2.html

インタビュー協力:東京都現代美術館

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