テア・ジョルジャッツェ インタビュー

親密さに残された最後の距離
インタビュー/アンドリュー・マークル

I


Deaf and dumb universe (2008) Installation view at 5th berlin biennial for contemporary art, Neue Nationalgalerie, Berlin

ART iT まずは「Der Knacks」(2007) の話から始めましょう。この作品のタイトルは、F・スコット・フィッツジェラルドが人生を崩壊の過程として描いたエッセイ集『崩壊』(1936)を連想させますが、このエッセイ集に何を見出し、どのようにそれを作品へと転換したのでしょうか。

テア・ジョルジャッツェ(以下、TD) 最初に読んだときは圧倒されましたね。ドイツ語版の『崩壊』には、ジル・ドゥルーズが『崩壊』について触れた「磁器と火山」という『意味の論理学』の中の一章が同時収録されていて、これは強力な組み合わせでした。どちらの文章も、いかに私たちが運命づけられていて、それでもただ生き続けなければならないことを扱っています。これらを読んでいる時期に、床に置いて乾燥させていた制作中の作品を期せずして壊してしまい、作品が完全にバラバラになってしまったのです。制作過程、とりわけ彫刻の制作過程とは、自分自身が依って立つところを知ることです。私にとって、落ち着いて瞬間瞬間を支配することが重要なので、スタジオ内の何かを壊してしまっても感情的になることはありません。壊れた作品の断片が床に散らばっていたので、すぐさま新しい石膏を使って、壊れた断片を再び繋ぎ合わせました。
その時点ではフィッツジェラルドのエッセイを意識的に考えていたわけではありませんが、ちょうど裂け目と破壊に関する箇所を読んでいるところだったのです。断片を繋ぎ合わせると、裂け目は見えているものの、非常にソリッドな姿を現したのです。そこでただ単純にドイツ版のタイトルから「Der Knacks」と名付けたのです。

ART iT フィッツジェラルドは、崩壊は“外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃”、そして、“内側からの打撃もある――気がついてみると何もかも手遅れ(中略)と、決定的に悟らせてしまうような打撃”から成るとエッセイに書いています。あなたの作品の多くもこのような特徴を備えているように思われます。例えば、破壊されたヘルメットに似た2005年制作の無題の作品は、外側から物理的に壊れているように見えますが、あたかもそれ自体の重さで自壊し、内側から崩れているかのようにも見えます。彫刻家としていかに自分を抑制しているのかを話してくれましたが、あなたの作品自体は人間のコントロールから逃れて、自然の力によって形成されているように見えます。

TD 彫刻家として、コントロールしたいと思うとともにありのままの事物を受け入れもします。事物は消滅していく、もしくは崩壊していくものです。だからこそ、私はその弱さを正しく認識し、弱さの内にある強さを理解しようとしています。これを理解することは難しいことでしょう。昨日、ついに作品が完成して非常に興奮していましたのですが、石膏を扱うということはそれらにいつひびが入るのかわかりません。ほんの僅かな動きでもひびが入ってしまいます。だから、石膏が固まるまで落ち着くことはありませんし、その状況は確かにコントロール不能な状況ですね。
私の言っている個々の状況を支配するということは、まずは事物をありのままに扱い、その上で、偶然の出来事が持つ奇妙さがどういうわけか状況を掌握していくのを受け入れるのです。それは多義的なことであり、私たちは自身の内に多義性を抱えています。若い頃は自分がある何者かであれば、別の何者かではありえないと考えるけれども、しばらくすると、その両方の可能性を許容しなければならないと理解します。もしくは、状況次第でどちらにもなるのだと認めることでしょう。


Left: (Ton ungebrannt) (2008) Right: (HAUBE) (2008)

ART iT あなたの作品を崩壊の彫刻、分裂の彫刻、いやむしろ、メタボリズムの彫刻と言ってもいいのでしょうか。

TD 私の作品はただ崩壊の彫刻というわけではなく、さまざまなものの混合物です。ある彫刻の物質性と彫刻を制作するものの心理には差異があります。物質性という観点で言えば、確かに繊細さ、特定の色彩や肌理のような質に惹かれるのですが、私の作品における弱さはさまざまなものから来ています。私の制作過程を理解していないと説明が難しいのですが、制作過程が私自身の存在の一部であってほしいと願っているのです。ドイツ語では、「komme damit」という言い方をします。
あなたは私の友人のひとりで、ほかの誰かも私の人生の一部で、アートは常にある。どんな状況でも共になければならない。どこか新しい場所に行っても、アートは私の人生の一部だから、制作可能でなければいけません。しかし、仮に私が鉄や重く、頑丈な物質を扱っていたら、それらを扱える特定の状況に制限されてしまって、さまざまな場所でアートと共にいることは不可能になってしまうでしょう。
ドローイングやペインティングについてのみ話しているわけではありません。私は制作可能でなければいけないのです。アートがひとつの身ぶり、私の周りのエネルギーであってほしいのです。本当に説明が難しいので、これについて話すのは好きではないのですが。個人的な経験であって、時間に大きく関係しているのです。私自身のタイミング、私の内的なタイミング、そして、事物がありのままに現れる理由。これらは私の動き方、生き方に関係しているのです。

ART iT それでもなお、作品を特徴づける無意識の過程がありますよね。例えば、ある時点で物質そのものが彫刻の外観を規定したり、アーティストの意図だけで規定されるのとはまったく逆で、彫刻がそれ自身を規定したりしますよね。

TD いくつかの彫刻に関しては金属工房へ行きます。たいていどんな感じかと言うと、まず10日前に予約して、当日工房へ着いたら現地で鉄の種類を決めなければいけないことや、私の頭の中にあるアイディアのスケッチが工房の職人が必要としていることも事前に知っているにも関わらず、そのための準備を事前に行なわずに、工場へ向かうバスの中でスケッチすることになります。もちろん、そのときだけしか作品について考えていないわけではなくて、絶えずその作品について考えているのですが、この切迫感が私を駆り立てて、不可能なことに取り組ませるのです。アドレナリンのせいかもしれませんね。でも、うるさくてごちゃごちゃした工房行きのバスに座ってスケッチしているときに、最も集中しているのです。

テア・ジョルジャッツェ インタビュー(2)

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第18号 ドクメンタ13

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