テア・ジョルジャッツェ インタビュー(6)

親密さに残された最後の距離
インタビュー/アンドリュー・マークル

VI


Installation view of the exhibition “Let me disclose the gifts reserved for age” at Rat Hole Gallery, Tokyo, 2011. Courtesy Rat Hole Gallery, Tokyo.

ART iT ベルリンで最初に会ったときには、どのように画家としてスタートしたのか、また、あなたはほとんど画家がキャンヴァス上に要素を配置していくかのように、彫刻的なインスタレーションを構成しているという話をしましたが、それとは異なる絵画と彫刻との関係性も存在しますか。絵画が彫刻になることはあるのでしょうか。

TD 絵画も三次元や空間への投影となり得ますが、現在、私はますます絵画を彫刻的配置の一要素として使うようになってきています。あらゆる角度から鑑賞者が作品を見られるのが好きですね。絵画を壁にかけると同時に起こってしまうことなのですが、どこを見るべきかを誘導したくないのです。彫刻ではそれぞれ自分自身の視点を持つことが許されています。
意図的に視点を誘導しようとした唯一の作品が「Archäologie Politik Politik Archäologie, Archäologie Politik Politik Archäologie, Archäologie Politik Politik Archäologie」(2008)です。それにはドイツのクレーフェ美術館の歴史との関係があるのです。その美術館は当時の皇帝によって、街のすべての建物が一望視できる位置に建造されました。これを利用しようと思い、その空間全てを覆い、鑑賞者の視線を明確に管理しました。
しかし、普段は鑑賞者がさまざまな方向から作品にアプローチしてほしいと考えています。あるひとつの方向から作品を見るのもいいでしょうけれど、同じ作品を別の方向から見るとまったく異なって見えることがあります。それによって、鑑賞者が作品に対してさまざまなあり得る関係性を持つことができるのです。

ART iT 色彩の使用について、重要視していることはありますか。

TD ある特定の色彩を使用するという期間もあります。長い間、青紫色のシェードを使用していたのですが、それは子どもの頃の学校の壁の色から来ています。緑がかった青色というのも、トビリシ(グルジアの首都)にある病院や公的機関の壁に一般的に使用されている色です。幼い頃は嫌いだったのですが、今ではそれが空間を包み込んでいるようで、安らぎを感じるようになりました。

ART iT 作品にそうした色彩を使うことはなにを意味しているのでしょうか。

TD どうでしょう。その意味がわかっているときもあるし、それを知っていることや知っている理由を忘れてしまうこともあるし、なにかを読むことで思い出すこともあります。思い出させるなにかが必要なのです。
とはいえ、忘却は作品における重要な構成要素のひとつです。それは消去するのではなく、既に大量の情報や関係性が存在するので、放っておくことと言った方がいいでしょう。事物を作ることとそれらを放っておくことは、私の制作過程において重要な役割を果たしています。彫刻を制作する際、一時間ほど制作に取り組みながら、もっとも深く集中しているときに手を止めて、平凡で無関係ななにかを作ろうとしたり、料理をしたり、お皿を洗ったり、ゲームで遊んだりして、取り組んでいた空間から完全に離れ、忘れようとします。その後、再び戻ってきた時に新しい何かが見えてきて、制作を続けるのです。そうでなければ制作できないのです。私は常に離れて、忘れて、戻ってこなければなりません。
例えば、今回の展覧会のある作品に、かなりの時間をかけて、展示空間の中央に立つ鉄の棒に支えられたある織物とベニヤ板を使って、ある不可能なやり方ですべての要素のバランスを取ろうとし、実際にすべてのバランスを取ることに成功しました。そして、そのまま一日放っておいても、バランスを崩さなかったのですが、ある時点で気に入らなくなりました。バランスが取れたその作品が非常に魅力的で、すべての重量が劇的な仕方で支えられているように見えたのですが、なにか落ち着かないものがあったのです。片面を黒く塗ったベニヤ板が作品の正面として見える必要がありました。そこで、最終的にはすべてを解体して、壁に寄りかかるように置き直しました。


Installation view of the exhibition “Let me disclose the gifts reserved for age” at Rat Hole Gallery, Tokyo, 2011. Courtesy Rat Hole Gallery, Tokyo.

ART iT ベルリンでは記憶と忘却についても話をしましたが、空虚な空間と実在する空間におけるフィクションとストーリーテリングの差異を理解する、興味深い考えに至りましたよね。どのようにそこに行き着いたのかもはや正確には思い出せないのですが。

TD 子どもの頃、私はいつも記憶のための能力に魅了されていました。年を経ても留まり続ける特別なイメージ、もしくは瞬間があり、いつもそれをどうやったら心に刻むことができるのかと疑問に思い、幾度もある状況を記憶に留めようと試みました。「よし、この瞬間のありのままを記憶しよう」と、それは練習のようなものでした。かつて、たった一度だけ成功したことがあったのです。私自身が革張りの椅子に座り、林檎を食べている。私は常にこのイメージを呼び起こすことができます。しかし、それ以外のイメージはそれぞれ勝手に生じてきてしまいます。

ART iT 自分の娘と接している中で、それとは真逆の経験をしたことがあります。彼女とともにいる瞬間に完全に入り込んで、それはまるで現実ではないかのようで、起こると同時に記憶から逃れていくように感じます。それはまるでクイックサンド現象のようで、その印象があまりにも強烈なために、それ自身の重さによって即座に崩れてしまう。だからこそ、私たちには詩があるのかもしれませんね。ある定められた瞬間、既に過ぎ去ってしまった瞬間を感じさせるなにかを実際に記憶するのではなく、むしろ、その感情に似たなにかに近づくためのアナログでパラレルなリアリティを作り出すための詩。

TD 確かにそれはまったく異なる語彙であるかもしれないし、異なる空間の記述かもしれませんが、あなたの内側で起こったことと同じ効果を持つ新たな一例を作り出すことができるでしょう。どんなものも完璧に翻訳することは不可能です。なにかがあなたの心に深く触れたとしたら、それはあなたひとりの経験であって、完全に同じ方法で他者と共有することはできないのです。

ART iT アナログなものとして、詩はすべての人から等距離にあり、それ故に皆が等しく近づくことができる個人の経験に対するパラレルな構造を持つと言えるでしょうか。

TD 詩は私が自分自身に説明できないことを説明するのです。感じているのだけれど、説明のできないことがあり、それを表現する方法を切り拓いてくれる言葉や文章があるのです。12歳の頃ですが、それまで物事に対して子どもじみた考え方を持っていた私がひとりの大人として物事を見始める特別な瞬間があったのを覚えています。その日は誕生日で、みんなで無邪気に遊んでいたのですが、とある映画の話を耳にしました。私はその映画を見えるままに理解していたけれど、その人たちはまったく異なる考え方で理解していました。彼らが重要だと思うさまざまな点について議論するのを聞きながら、私の中で突然なにかが開くのを感じ、新しい視点で映画を受け取る直接的な経験をしたのです。それ以来、私は物事を象徴的な意味で見ることができるようになり、この経験は決して忘れられません。

ART iT しかし、あなたの作品は意味、有意性といった概念に抗っています。

TD 私の作品には象徴的意味はありません。少なくとも私にとって。映画や詩について話していたわけで、彫刻のことではありません。彫刻作品を見るときは、自分自身の経験による言語を通して理解します。よく似た言語や、異質な言語、特殊な言語を認識するのです。これは私がなにかを見たり、それを理解する経験について述べることとは異なっています。彫刻において、私にはそうしたことが重要ではないのです。重要なのは私が使っている言語なのです。

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第18号 ドクメンタ13

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