スタジオ・ムンバイについて
文/日埜直彦
Studio Mumbai Reading Room
ではなぜあなたは建築をやっているのか?と敢えて聞かざるを得なかった。
スタジオ・ムンバイを主宰するビジョイ・ジェイン氏のインタビューを進めながら次第につのってきたのはある種の戸惑いで、その戸惑いは彼との会話の融通無碍さ、あるいはとらえどころのなさからくるものだった。彼は常に丁寧に言葉を選びながら率直に考えるところを話してくれたのだが、話を掘り下げれば掘り下げるほどに底が見えないような落ち着かなさを感じた。さながらタマネギの皮をむくように、その核心に迫ろうとすればするほどそれは見失われるようなのだ。
多くの場合、建築家はあくまで実践家である以上、世界観やロジック、手法やスタイル、あるいはある種のテイストなど、実践における軸となるものを持っている。どのような判断を求められようと揺らがない判断の一貫性がなければ、チームプレイで行なわれる建築家の実務の上で支障があるからだ。逆にそれが見えてくれば建築家の”個性”は見えたも同然なのだが、しかしジェイン氏との会話においてはそれがなかなか見えてこない。インタビューを一読すればその感じは幾分なりとも伝わるだろう。きわめて真摯な会話からその融通無碍の底の見えない深さをひしひしと確かめ、だからこそ失礼を顧みず敢えて「なぜ建築なのか?」問わざるを得なかったのだ。
もう少し一般的にビジョイ・ジェインとスタジオ・ムンバイについて紹介しておこう。インド・ムンバイ近郊に自らの拠点を置くこの建築家は、1965年生まれ、アメリカで建築を学び、イギリスとアメリカで実務を経験した後に95年にインドに帰国して彼の事務所であるスタジオ・ムンバイを設立した。職人と密接に協働しながら建築を構想し、伝統的な工法と素材を積極的に用いることで、インドの伝統と現代の間で独特の建築を作ってきた。2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展での特別賞受賞、同年のヴィクトリア&アルバート美術館での展示などで世界的に知られるようになり、以来その活動は注目されている。日本では昨年TOTOギャラリー・間で「STUDIO MUMBAI : Praxis」展が開催され、また東京国立近代美術館前庭にて「夏の家」と題していくつかパビリオンが設営された。
一般的には彼らは批判的地域主義の文脈に乗る建築家としておおむね理解されているだろう。批判的地域主義とは建築史家ケネス・フランプトンが1983年にポストモダン建築と対比的に同時代の建築の傾向として提示したコンセプトである。近代化とともに世界中に広まった近代建築とその場所性への無関心に対して、むしろ周縁での近代建築での実践が場所性の回復をもって批評的対立点を形成している、というようなことがそのおおむねの論点となる。ローカルな建築文化と近代建築のハイブリッドこそが現代的な建築実践の先端になる、と言えばよくある話ではある。
ビジョイ・ジェインと共通点の多い先行する世代の建築家であり、彼自身深くリスペクトするジェフリー・バワもまた典型的にこの文脈で理解されている。スリランカを拠点とする彼の場合も、スリランカの歴史的なランドスケープと建築文化に根ざしながら、現代的な生活との融合を巧みに果たしている。空間構成の作法や内部と外部の関係においてバワはかなり直接的に伝統的な形式を生かしている。例えば中庭を囲む形式を重ねることで奥行きを作り、あるいは入れ子にすることで複雑に絡み合う空間を作るといった作法が多用される。親密さと開放性に満ちた南アジア的伝統を受け継ぎながら、彼は現代建築にそれを昇華した。
スタジオ・ムンバイの建築はそれほど伝統的な配置に則ったものではない。むしろ幾分アド・ホックに敷地の状況に応答しながら場をつくりだし、素材や技術において協働する職人集団と共に失われかけている技術を再現し、あるいは必要であれば独自のものに発展させながら、彼らの建築を作っている。その仕事の進め方は独特で、一般的な設計事務所のように決定者としての建築家とそのための膨大なスタディを行うスタッフというようなヒエラルキーはないという。むしろ現地にスタッフや職人達と共に赴き、そこで議論しながらデザインの基本的なアイディアを得て、さらにモックアップや実物を職人が作りながら細部を詰めていくといったプロセスをとるらしい。ビジョイ・ジェイン自身がそこで果たす役割は第一にこのような共同の場を維持しその全体をオーケストレーションすることだと彼は語っていた。
批判的地域主義というコンセプトは30年前のものであり、現代の建築家をその延長線上に見ること自体無理がある話ではある。またなによりも冒頭に書いた戸惑いは、中央と周縁というような文化帝国主義的図式では語りえないなにものかが明らかにそこにあることを実感させた。むしろそこで思い起こされたのはT.S.エリオットの言う意味での伝統の概念であった。
エリオットは詩人として、詩の超越性の源泉を個人の感興や霊感に求めることをよしとしなかった。詩の伝統に自らを投げ込み主体がそこに溶解する果てに生まれる、伝統と緊密に結びついた詩にこそ詩の超越性が現れるとした。ジェフリー・バワにしろ、スタジオ・ムンバイにしろ、そのような意味で建築の文化的伝統に身を置き、それをリソースとして結びあわせる中で自らの建築を作っているように見えてくるのだ。いや伝統だけがリソースではないのだろう。現代の建築、現代の生活、こうしたものもひとしなみにそこでは見えているような、そうした「歴史的意識」において、彼らはそうしてきたのではないか。「歴史的意識は一時的なものに対する意識であり、永続的なものに対する意識であり、また一時的なものと永続的なものとを一緒に意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。またその歴史的意識によって作家は時代の中にある自分の位置、自分の現代性をきわめて鋭敏に感じることが出来るのである」。*1
こうした態度は、それ自体としてはあまりに一般的で、ある程度は誰にでもあてはまるものであろう。そうしたとき我々は彼らの仕事の固有性の由来を探してしまうものだが、しかしそれら固有のものを選び取った理由は状況に促されたある種の偶然でしかなく、あるいは伝統すらも無限にあるわけではない目の前の可能性のひとつなのだとしたら、その固有性に彼の核心を求めても無駄だろう。このことがインタビューにおいて感じられた戸惑いの理由だと思えるのだ。
彼との対話においてもっとも興味深かった瞬間は、スタジオ・ムンバイの建築のあり方を彼がインドのインフォーマルなスラムとつなげて語ったときだった。その場で調達出来る素材、用いることの出来るありあわせの技術、そして住み手自身を含めた労力、こうしたものでより良い空間を勝ち得ようとしているアノニマスな実践、スラムの住人のこうした営為と彼らの仕事の進め方を重ねて語る建築家の目は決して奇をてらった言葉を弄するそれではなかった。もちろん安易にそうした同一視を許さないほどに各々の状況はまったく異なっているはずだが、それでもどんな状況であれそこに向かう態度そのものは結局のところ同じものだということはあり得る。もしそう飛躍することが許されるとすれば、我々の位置もその間のどこかにあるということになるのではないだろうか。
*1 T.S.エリオット「伝統と個人の才能」『文芸批評論』岩波書店, 1962年
日埜直彦|Naohiko Hino
1971年生まれ。建築家/批評家。日埜建築設計事務所主宰。2006年より芝浦工業大学非常勤講師。主なキュレーションに国際巡回展『Struggling Cities』展(現在世界巡回
中)、『メタボリズムの未来都市展』(2011. 森美術館)のキュレーションにも関わる。