ビジョイ・ジェイン インタビュー(2)

ものを建てる、関係を築く
インタビュー / 日埜直彦


8/24 The third day of the construction. Photo: Masumi Kawamura

NH どうやら勘違いしていたみたいですね。私はスタジオ・ムンバイをある特有な空間を創り出すために恊働しているコミュニティのようなものとして考えていましたが、どうやらそれぞれの個人が自分自身の役割や語彙を用い、それらすべてを繋げてひとつのものとしていく方法を探していくことが、あなたたちの仕事のプロセスなのですね。

BJ その通りです。それぞれがそれぞれの自己表現、アイデンティティを持ちますが、そのアイデンティティが作用する範囲で、より大きな集団へと自分自身を拡張していくことが出来るのです。ここに飛躍がないとは言えません。産業革命で起きたことのひとつは、すべてのものがより核的、単数的になったということです。私たちはしばしば極めて独創的、特異的になることができますが、そうした独創性や特異性をより大きな集団に持ち込もうというのが、現在私たちが奮闘しているところです。このように、アイデンティティという感覚がきちんと根付き、それを共有したり、そこに参加するための葛藤がないので、職人達がスタジオ・ムンバイに参加することに対する抵抗はほとんどありません。こうしたことこそがコミュニティを形成するものであり、ただともに生きるだけではないのです。ひとつのコミュニティとはそういうものだと思うのです。100人がいっしょに生活しても、そこに共有がなければ、それはコミュニティではないでしょう。

NH 個人で計画するときには自分自身のヴィジョンがあると思いますが、チームで作業することでそのヴィジョンは広がりをみせるのでしょうか。

BJ それはよりインクルーシブになります。私たちが共同して働く基本的な理由は、何が可能かという可能性を表現できたり、その表現に信条や信頼を持つことにあります。それは私たちが今日見て来た寺での出来事と同じことなのです。このような考えがあって、それは決して唯一の視点ではないけれども、あるひとつの表現なのだという信念のもとに人々が集まるのです。私たちにとっては自分自身を自由に表現できるかどうかが問題なのであって、それはシステムや環境に制限されません。ときに利用できない、なんらかの制限があったとしても、それは私たちの自由な表現の妨げになりません。それが私たちに価値があるものを決めるための基本であり、集団で作業する理由なのです。立ち止まり、別の方法を考え出し、最終的には自分自身を創造的かつ自由に表現できることが重要なのです。


8/26 Adjusting components on site. Photo: Masumi Kawamura

NH そのような働き方になるまでに、どういう経緯があったのでしょうか。先程、現場労働者が図面を理解しないというギャップがあり、それを繋ぐ方法を見つけようとしたとおっしゃっていましたが。

BJ たいていの場合、インドでは建築を建てる際に「請負業者」と連携しますが、彼らは決して日本のようにプロフェッショナルな建築業者ではありません。こっちから10人の大工、あっちから20人の石工、また別のところから5人の左官を集めるというような、人手を動かせる人が「請負業者」と呼ばれています。彼らは長年の経験を通じて、建築の建て方を知っていますが、もっとマネージャーみたいで、実際のところ彼らがその仕事をしているのは単に、時間厳守、英語が話せる、もしくは英語の読み書きができるからというだけのことです。
私達の活動の初期に、私たちの提案が職人達の潜在力を最大限に発揮させていないことに気がつきました。それはどんな資材を扱うのかということではなく、時間や資金、能力ということでもありません。最大限に発揮出来ない唯一の理由は、そこに彼らの自己表現の内的必然性がなかったからで、結局誰も、あるいは業者もお金を儲けるという経済のことしか考えていなかったわけです。それが経済であるということは、私にとって問題ではなく、別に衝突することでもありません。しかし、それだけが唯一の原動力となるのは問題で、表現や参加しているみなの可能性を抑圧してしまいます。
その可能性を発揮させるのに、コストや時間、資材を増やす必要はありません。必要なのは、ただもう少しの心遣いと愛だけなのです。料理と同じようなものです。ひとつのキッチンで隣り合うふたりが、まったく同じ材料を使って、まったく同じ料理を作っても、それぞれまったく違う料理を作ることがあるのです。建設過程のある時点で、私たち、クライアント、建築家、施工者はみな悲しくなってしまいました。私も理解できませんでした。三つのプロジェクトを経て、創造的でも建設的でもなく対立に基づいているようなものをこれ以上継続していくのは正しくないと思いました。
そこで考えたのは、このひとりの人物、つまり請負業者を解任したらどうなるだろうかと。それはその人物がプロジェクトを妨害しようとしているからではなく、感情的な熱意が欠けていたからです。一度施工者と直接働き始めると、そこに潜在力を見出し、すべてが通じ合うわけではなくとも、直接コミュニケーションできました。それはもう明らかで、今のやり方はこうして始まったのです。
ある時点で共同で同意してくれる人々を集めなければいけないでしょう。似たような感性を持っていなければいけないわけではありません。反対することはできる、でも、表現に対する要求がなければいけないし、それを全力で取り組めなければいけません。私たちの集団には異なる視点を持つ人がいて、必ずしも集団がよどみなく進むわけでもなく、ときに衝突もまた重要なのです。駆け引きのようなもので、反対側も必要なのです。しかし、その反対側もまたなんらかの形で共通のなにかに向かいます。それは布の縦糸と横糸のようで、その模様が私たちのやっていることにおいて重要なのです。

NH 日本の建築業者のことに言及されましたが、日本の建築現場もまさにそういう感じです。私たちも現場の労働者とたくさん話し合い、詳細を決めていきます。そして、彼ら自身、高い経験値と職人気質を兼ね備えています。日本の建築家とスタジオ・ムンバイの作業スタイルにはどこか似たようなものがありますね。

BJ 日本での実体験はないのですが、聞く限りではどうやらそのようですね。はじめに言おうとしたのは、日本の請負業者はプロフェッショナルな施工者で、インドの請負業者は必ずしもそうではないという違いのことで、どのように建築がひとつになるのかに対する理解があり、医者や弁護士のように自身の職業をわかっているのです。インドの請負業者には、彼らの地位や財政状況、お金で人を動かせるという前提があり、ただのマネージャーにすぎず、建築に対する感情がこれっぽっちもありません。彼らは自分が売るものが建物からカメラに変わっても気にしないでしょう。日本にいる友人から聞く限りでは、ここでの作業スタイルはスタジオ・ムンバイのものに似ているようです。もちろんそれは私たちだけに特有のものではなく、とりわけ小さなプロジェクトにおいてはそうでしょう。そして当然、財政や複雑さが増すより大きなプロジェクトはそれ自体のルールを備えているでしょう。

ビジョイ・ジェイン インタビュー(3)

ビジョイ・ジェイン インタビュー
ものを建てる、関係を築く

Part I | Part II|Part III
特別寄稿 スタジオ・ムンバイについて 文/日埜直彦

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