連載 編集長対談7:小池一子(後編)

日本的アートとは:西武セゾンカルチャーの影響

前編はこちら編集長対談 目次

欧米のアートに乗っかりながらも、どうしても滲み出てくるもの

小崎:話は戻りますが、79年に西武美術館で谷川晃一さんが企画した『アール・ポップ』展は、横尾忠則さん、田名網敬一さん、さらに広告や写真といった様々なジャンルの人たちが参加していて、それを「アール・ポップ」という造語でひとつのジャンルとして提示しました。これに小池さんは関わっていらしたのでしょうか。

小池:直接関わりはありません。そのときはパルコ美術館の展覧会企画をしていたので、イタリアのルキノ・ヴィスコンティの映画の衣装をまとめた展覧会をしたり、映画、演劇をまんべんなく見ていたいという思いがありました。

小崎:80年にパルコで始まった『日本グラフィック展』はアートとデザインの境界を越えた才能を集めた展覧会でしたが、こうした越境は意図してのものなのでしょうか。

小池:やはり意図していましたね。デザインの世界で起きていることが評価されないことに対しての提案というか、意識して新しいアートというものはどこにあるかを探していました。増田通二(パルコ社長=当時)さんがすごかったですよ。80年代まであった領域横断は、非欧米という文脈においては、いまの方が自覚的になっていますね。当時はそんなに意識していなかったと思います。海外からリサーチャーが来たときに、まだ日本の現代美術は未成熟であり、未分化だから、デザインとアートが切り離されていないのだ、としょっちゅう言われていました。それはそうなのかな、と思っている時期もありました。未成熟という言葉は間違っていると思いますが。

小崎:なるほど。では次に「佐賀町エキジビットスペース」について伺いたいのですが、日本には若手アーティストが発表する場がほとんどなかったので、それを作りたくておやりになったということですね。


安藤忠雄+川久保玲+杉本貴志『三一致』展 1985年 佐賀町エキジビットスペース
撮影:林雅之

小池:公立美術館で20〜30代のアーティストが展覧会をやるなんて考えられないような状況でした。でも私がデザインの仕事で海外に出張したとき、20代でも面白い作家がたくさんいて、それを見せる場が欧米にはあるのに、日本にないなと思ったものですから、「キチン」という小さいデザイン事務所をベースに、その収益を全部注ぎ込みました。本当にいいアーティストとの出会いが重なり、結局17年間続きました。現在ギャラリー小柳の代表である小柳敦子さんたちと一緒に仕事をしていたのですが、彼女たちが本当によくやってくれたなと思います。

小崎:東京という地域性は意識されていたのでしょうか。

小池:いえ、東京だけとは全然思わなかったですね。むしろ「脱東京」を考えました。それで、九州、北海道、その他各地のキュレーターの面白い仕事は意識して探して展覧会を作りましたね。

小崎:秋野不矩さんやアンゼルム・キーファー、ニキ・ド・サンファルといったいくつかの例外を除くと、本当に日本の、基本的には若手の展覧会をやられていましたが、このときのアーティスト選択の基準はあったのでしょうか。


内藤礼『地上にひとつの場所を』1991年 佐賀町エキジビットスペース
撮影:小熊栄

小池:例えば大竹伸朗や森村泰昌など、まず自分がいいなと思う作家たちと話していると、彼らはいま自分たちが何を表現したいかということを仲間のアーティストと話しているんですよね。アーティストのネットワークや推薦には非常に信頼を置いていました。それから友人の輪ですね。ひとりのアーティストととことん付き合って展覧会をまとめている間に、また自然といろいろなヒントが出てくるという自然増殖だったと思います。

小崎:大竹伸朗の特集を『ART iT』で組んだときに、小池さんは「大竹さんは国内ではなぜか真剣な研究や批評の対象になっていなかったけれども、西洋美術史の正統なアートの潮流に連なっているアーティストだと思う」と話して下さいました。実は大竹さんは国際的にはあまり評価が高くないんですよね。欧米のキュレーターに聞くと、「スタイルは多彩だけれど独自性がない」と言われる場合が多い。これはどのように考えられますか。

小池:結局コンテンポラリーをどう考えるかだと思います。我々は同時代性が大竹さんの作品に現れていると評価するわけですよね。その点は、欧米のアーティストたちの仕事と何ら遜色はないと思う。日本の土壌の中で生まれたものであるという視点が、大竹さんの作品の読み解き方としてはあると思います。南フランスとか、北欧の光と聞いたときに誰もが思い浮かべる美術界のコンセンサスのようなものがあるとして、そういう基準では考えられないでしょう。脱欧米の思考や価値観が、作品を観る私たちにも必要なのだと思います。


『大竹伸朗 1984 – 1987』1987年 佐賀町エキジビットスペース
撮影:林雅之

小崎:固有のスタイルを生んでいない、独自性がないという批判に関してはいかがでしょう。実際、ダヴィンチに始まり、ピカソ、マティス、ホックニーら、自分にとってのヒーローのスタイルを真似ていますが、当然意識的に真似ているわけです。つまり欧米で生まれたアートを選び取った以上は、その枠にある程度則っている必要がある。ただし前提として、自分は日本にいて、自分の中には日本的な時間というものがある。それを欧米のアートヒストリーに重ね合わせていく、という感じでしょうか。川久保玲や三宅一生がファッションという欧米起源のものに日本的なものを乗せていく作業にも重なると思うのですが。

小池:それは的を射ているかもしれませんが、それを彼らが意識しているかどうかはわかりません。もうひとり同じようにいろいろなことをやり、西欧の美術史の巨匠たちの作品と関係性を持ったりしているアーティストに横尾忠則さんがいますね。これは日本のアーティストの特性であり、東西の教育を受けてしまった我々の宿命かもしれません。欧米のアートに乗っかりながらも、どうしても滲み出てくるものっていうのが、土着というか、この地点にいる人間の仕事なのかな、と思いますね。

こいけ・かずこ
東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。西武百貨店宣伝部、パルコなどの広告戦略にコピーライター、クリエイティブディレクターとして参加。80年の「無印良品」の創設に携わり、以来アドバイザリーボードを務める。76年に株式会社キチン設立。
『現代衣服の源流展』(75年、京都国立近代美術館)、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展 日本館『少女都市』(2000年)などの展覧会を企画。83年に江東区佐賀にあった食糧ビル内に日本初のオルタナティブスペース「佐賀町エキジビットスペース」(〜00年)を設け、内藤礼や杉本博司、前出の作家など多数のアーティストを紹介した。編著書に『三宅一生の発想と展開』『空間のアウラ』など。武蔵野美術大学名誉教授。

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