連載 田中功起 質問する 10-1:小林晴夫さんへ1

第10回(ゲスト:小林晴夫)——ぼくたちはいったい何に参加しているのだろうか

往復書簡のゲストも、ついに10人目に。お相手は、横浜で「芸術を発信する場」としてユニークなイベント群を展開するblanClassのディレクターにして、アーティストの小林晴夫さんです。まずは田中さんから、前回・杉田敦さんとの意見交換ともつながる、「参加」をめぐる問いが投げかけられます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:参加、教育、作者性のクレジットをめぐって

小林晴夫さま

お久しぶりです。

杉田敦さんの回は失敗をめぐる問いかけから、アーティストの主体の問題へと移行していきました。それは「参加」をめぐる問いでもあります。今回は、アーティストでもあり、blanClassのオーガナイザーでもある小林さんに、「参加」について問いかけをしたいと思っています。いわゆる「参加型アート」と訳されるParticipatory Artというものは、日本に限らず世界中で近年盛んな実践方法のひとつです。今回はお互い実践者として意見交換ができればいいなと思っています。


意味深なフレーズ「旅をする間、ボタンを押し続けてください」

「参加」をめぐる問いはさまざまなフェーズにおいていくつかの問題を考えるきっかけになります。ぼくたちは「参加」を通していったい何をしているんでしょうか。そのもっとも原理的な部分への問いかけ。参加は何を意味しているのでしょうか。そもそもぼくたちは何に参加しているのでしょうか。

参加の場とは、例えばどのような場なのでしょうか。それをいわゆる教育の場ととらえることもできるかもしれません。ワークショップと言われることもありますが、アーティストの考案したプログラムに人びとが参加する。仮にアーティストがもっている見方、世界/社会に対する支配的な見方に対するオルタナティブを参加を通して理解する/学ぶ、とワークショップは考えられているかもしれません。このとき参加は教育/学習の場です。アーティストを教育者として参加者が学習する、と書くと一方的な感じがして少し抵抗を感じますよね。でももしその見方が一方的に獲得されるわけではないとすれば、協働によって獲得されるモデルを考えることができれば、この「抵抗」は解かれます。アーティストも参加者とともに学習している。

一方でぼくらはアーティストに企画されずとも、さまざまな場に参加し、学習をしているとも言えます。むしろぼくらはそうした意図されない学習の場において、翻弄され、それによって深く考える。となるとアーティストによって企画される「参加」とはどういった存在意義があるのでしょう。

参加は教育の場なのだろうか

「参加」をめぐる問いはこのように複数の問いを含み込みます。参加型アートというものが、行政的に都合よく利用されている例はたくさんあります。そこで前提にとなっているのは「社会参加」は善きことだという考え方です。地域社会のコミュニティに参加し社会貢献する。それはとても口当たりのよい言い方です。アートはいわばそのイデオロギーを推進するための緩衝材として利用される。一方で別の「社会参加」もあります。いわゆる「社会運動」に参加する場合です。こちらは社会システムの齟齬を質すために行われるものだから、前者の反対のものです。台北の立法院が占拠された、サンフラワー学生運動もそのひとつですよね。学生たちは強引な法案の採決に対して異を唱え、その撤回を求めて行動に出たわけです。それは民主主義の危機であると。つまり参加は、行政による利用とソーシャル・チェンジの間に引き裂かれています。ただそれでも、原理的には、参加することで社会を善くしていくという共通の前提があります。そこで目指される社会が、いったい誰にとっての社会を、どのように善くするのか、という違いがあるにせよ。

社会参加は、一般的な教育モデルと共通点があります。ぼくたちは教育を受けることで、意識的な主体として自律し、自ら考えるようになる。自らの権利を自覚し、主張できるようになる。意識的な主体として、現状に疑いをもてないかぎり、ぼくたちはある意味では現状に流され従属させられてしまいます。社会運動というものが大学の学生たち主導のもとに行われてきた歴史的事実はその教育に関係があると言えます。もちろん教育制度も行政主導で行われるため、ぼくたちはその制度の中で、逆に疑うことを奪われてしまうことだってあるでしょう。だから教育にはオルタナティブも必要となる。メインストリームの教育制度の外で、アーティストたちによる主体的な教育実践が行われる必要があるだろう。blanClassの前身ともいえるBゼミの歴史を考えるとき、そんな意志が見て取れます。

「参加」は意識的な主体を再構築するための教育の場である、とひとまずは言うことができます。でもぼくはすぐさまそうした参加のあり方を疑問視するのです。自律的な主体への疑いは杉田さんとのやりとりの中でくり返し問われました。そうした主体のあり方を前提として議論をすすめていいのだろうか。ぼくたちはほんとうに流されて従属させられてしまう、受け身の主体なのだろうか。

参加をめぐるチャット

以下はとある企画に向けて意見交換をしている場でぼくが書いたチャットです。これが具体的に示す場と内容をまだ公開できる段階ではないのですが、そこで企画しようとしているのはトーク・プログラムとそれをもとにした展覧会です。

ぼくの問いは、どうして「参加」という方法に自分が重要性を感じて制作実践に取り込んでいるのか、という個人的なものですけど、そもそも「参加」とはなんなのかという素朴な問いでもあります。参加してもらうタイプのプロジェクトだけでなく、演劇を見るや映画を見る、シンポジウムに登壇する、シンポジウムを聞きに行く、でもいいですけど、そうした「参加」は何を意味しているのかということです。単純には、学びの場であるという言い方ができます。観客はトークを聞いて、演劇を見て、新しい考え方に触れて、刺激される。参加者はそこで能動的に参加し、学び、自らの主体を再認識する。でもこのモデルで目指されている学びの場は少し上から目線な気もしてしまいます。つまりより多くの知識や認識をもつものが持たざるものへ教育する場のような。観客の「参加」だけでなく、話者や演者の「参加」も考えるべきかもしれません。話者はそのシンポジウムに参加し、他の話者や観客との意見交換を通して、学び、自らの思考を深める。

観客も話者も、その意味では、それぞれにそのままで既に能動的な主体です。(中略)[観客も話者も含むシンポジウムの参加者を]そのシンポジウムに参加しているだけでぼくらが「利用している」と捉えられるかもしれません。でも同時にその観客や話者がぼくたちやその場を利用している可能性も考えられないでしょうか。ぼくはこの関係性は、それほど簡単には分けられないものだと思っています。だからぼくは、契約を交わすこと+説明することで表面上利用を合意してもらうことも、あるいは「利用」しないようにニュートラルなものを目指すことも(そもそもニュートラルな参加ってありえないだろうけど)、「参加」の問題を避けることになるんじゃないかと思っています。(以下略)

(中略)複数名が話すトークが企画されて、テーマが設定されたとします。それがどのくらい緻密に企画されていようが、粗く企画されていようが、その枠組みだけですでにディレクションされているわけですよね。トークの企画がニュートラルなものではありえないというのはわかりやすいと思います。ただ、それを「作品」と呼ぶのには抵抗あるかもだけど、枠組みを作るだけでも、ある程度「作品化」の作業に近いと思いませんか。

かたちにすることの強弱の差はあれ、トークを企画することも、記録撮影することも、ともにぼくには「作品を作る」こととそれほど遠い作業には思えません。つまりどういう方法を選んだにしても、ぼくは「参加者を利用している」ということを免れないと思っています。ぼくは、でもこれは悪いことではないと思っています。先に書いたように、素朴にはぼくらこそ「利用されている」かもしれないわけですし。他方で、「参加」が意味することは教育の場というだけではない、と思っています。ぼくは「参加」とはそもそも「作ることに参加する」ことであると思っています。例えばいままさにぼくたちはこうして議論をしながら「トークのかたち」と「展覧会のかたち」を作っています(ここで、なんだかぼくはこうして[この場]に利用されているような気分にもなりつつ、参加を通して最近のぼくの関心を考えつづけているのでこの場を利用しているとも言えます)。「参加のかたち」もさまざまですが、参加することは「共に考え作る」ことを意味するはずです。

コンテクストが見えないのでわかりにくい表現もあると思いますが、先の問いを別の形でリフレインしています。しかしぼくはこの中で参加を教育モデルで考えるのではなく、参加者の位置が揺れ動く「共に考え作る」場として考えています。

クレジット

さらに問いは作者性(Authorship)にも接続されます。参加を通した実践はだれにクレジットされるべきなのでしょうか。参加者によって何かができあがるとすれば、このとき作者は何をしているのでしょうか。

問題はこのように考えられます。まず作者にプロジェクトの完成のイメージがあります。作者はそれを参加者に伝え、参加者(このとき参加者は技術者でもあります)は役割分担され、紆余曲折があったにしても、ある程度作者の望んだひとつのプロジェクトができあがる。このとき、そのプロジェクトのクレジットは作者に与えられます。それでも作者は、みんなのおかげでこのプロジェクトを実現することができた、と語るでしょう。これは参加ではなく「仕事」です。仕事であっても技術者としての参加者にはある程度の自由度があります。映画ではまさに技術者集団によって集団的にひとつの作品ができあがるわけですから。ぼくはこのような参加の例を、「参加型アート」とは区別して考えたいと思います。これは参加を前提とした制作ですが、参加者は作者の意図を実現するためのアシスタントの位置に置かれるからです。とはいえそれが「参加型」であるかぎり(つまり「仕事」として、ひとりの技術者として参加した場合であっても)参加者はかならずしも固定的な位置に留まるとはかぎりませんが、この点については今回の手紙の最後に、もう一度戻りましょう。

もうひとつ、ここで考えるべきは参加者の参加がそのプロジェクトを決定的にするタイプのものです。つまり作者のデザインするフレームが弱い例です。参加者はその中で問題の多くを自ら決定しなければならない。例えばblanClassはそうですね。小林さんはアーティストへ依頼するときに、まず一定の時間を与えます。その数時間の中で自由にプロジェクトを行ってください。実はこの数時間という設定でさえもある程度、交渉次第で変更することもできる。このときアーティストも、そのアーティストのイベントへの参加者も、ともに広義のblanClassへの参加者です。枠組みが緩やかである場合、参加者によってかなり自由に書き換えられてしまう場合もあるだろうし、状況が、参加者によって壊される場合もあるでしょう。

blanClassは組織であるため、ここでは、その枠内で行われることがblanClassの、あるいは小林晴夫さんの「作品」として同定されることは従来のアートの見方ではないでしょう。「blanClassは小林さんの作品である」とひとが言うとき、それは従来の見方に対して、あえて言われているのだと思います。しかし仮に組織としての名前がなく、それがアーティストの名前のもとであった場合はどうでしょうか。もしくはblanClassの名前もなくなり、ただすべての参加者がアノニマスな作者として行われていた場合はどうでしょうか。

ひとりの作者に隷属させられた参加者によるクリエーションも、参加者すべてが主権者となりデモクラティックに、アノニマスに作られるクリエーションにも、ぼくはどこかで疑問があります。だからぼくはぎりぎりのところで作者の位置を確保している。それはなぜなのでしょう。

参加をめぐる問いは位置をめぐる問いでもあります。作者と参加者を教育モデルにすれば教師と学生、演劇モデルにすれば演者と観客ですが、この関係は固定的ではありません。参加という場ではその位置関係は不安定で、いずれが教え/学んでいるのか、いずれが演じ/観ているのか、いずれが利用し/利用されているのかが不確定になります。でもそれは逆説的に始まりの位置が確定しているから起きるのかもしれないとも思うのです。
ひとりの作者に隷属するクリエーションは、その位置を固定しようとします。アノニマスなクリエーションはその位置を覆い隠そうとします。作者もひとりの参加者になり、複数の位置を不安定に動き回るモデルを考えることはできないのでしょうか。

少しぼくの考えを書きすぎた気もします。小林さんはそうした上記の問いをどのように考えていますか。ぼくは小林さんもどこかでとてもアクロバティックに、自らの作者としての位置を確保しているようにも思うのです。それは少しだけ見えにくいかもしれませんが。

お返事お待ちしています。

田中功起
2014年4月 雨のロンドンにて

近況: 引き続きいくつかのプロジェクトを準備中。

【今回の往復書簡ゲスト】
こばやし・はるお(blanClassディレクター・アーティスト)
1968年神奈川県生まれ。1992年、現代美術の学習システム「Bゼミ」運営に参加。2001年~2004年の休業まで、所長として運営に携わる。2009年にblanClassを創立、芸術を発信する場として活動を始める。毎土曜のワンナイトイベント+公開インタビュー(Live Art)や、トークイベントなどを展開中。SNSなども活用しながら、その場で起こる「作品未満」の行為、発言、発信をオルタナティブに摸索する。作家として個展「Planning of Dance」(2000年、ギャラリー手、東京)、「雪 – snow」(2001年、ガレリエsol、東京)や、グループ展「SAPアートイング東京2001」(2001年、セゾンアートプログラム、東京)、パフォーマンス「小林 晴夫 & blanClass performers [Traffic on the table]」(2011年、新・港村blanClassブース、神奈川)などでの活動も行う。編著書に『Bゼミ〈新しい表現の学習〉の歴史』(2005年、BankART1929刊)がある。
http://blanclass.com/

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