連載 編集長対談5:津村耕佑(後編)

日本的アートとは:ファッションとアートの「機能」と「非機能」


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アートが権威を持っているのはいいことだと思う。
ある程度権威に守られていないと「実験力」がなくなるから。

津村 アートやデザインという概念は欧米のものですよね。もともとアジア人にそんな概念はなかったのに、そうした価値観を与えられたものだから、気にせざるを得なくなった。その意味で言うと、非欧米という言葉も「〈非〉欧米」つまり、限りなく本流=欧米を越えることはできないということです。だから日本のファッションは、パリコレに出しているデザイナーでも、貴族がいてオートクチュールがあるという伝統的な文脈上にあるものではないから、すべて地方のストリートファッションだと思うんですよ。

小崎 なぜ欧米/非欧米という区分けをするかというと、まず欧米が近代化を達成し、植民地化などを経て非欧米圏でも近代化が進められた。その際に、それまでなかった「アート」という概念も突然入ってきたわけですが、日本の場合は明治期に新たに「美術」という訳語を作り、既存の美の概念と接合しようとしたため、最初からずれが生じてしまいました。一方衣服は、気候風土や伝統によって決められたそれぞれの国や文化に固有の服装がもともとあったという点では既存の美の概念と同様ですが、洋服は機能的で便利であったために抵抗なく受け入れられた。つまり日本人が着物を脱ぎ、洋服を着るようになったのは、近代化に伴う機能重視の結果と言えます。その点アートに機能性は求められていない。そこが相当な違いだと思います。

津村 近代思想を植え付けていく上では、まずいちばん身近なものである服装を変えることが手っ取り早かったということがあると思います。洋服を身に付けることで立ち居振る舞いや躾の方法も変え、それまで日本人が生んできた美意識を変換させる道具として機能したわけです。

小崎 典型的なのは軍服ですね。

津村 そう、衣服を通して身体に染み込ませられる。だけどアートはある程度知識がないとわからない。

小崎 美術、特にコンテンポラリーアートは、「美」の術というよりも知的ゲームです。それに対して衣服はほぼ全員が着るものであり、大衆化という意味ではファッションはまさにポピュラーカルチャーと言えますが、アートはどうしてもエリート主義=権威と関わってくる。だからこそ、そこにキッチュを持ち込むのは有効な武器になるのではないでしょうか。批評家である石子順造が1970年代前半に書いた「キッチュ論」にはこうあります。

「キッチュは権威として公認された芸術品のイメージをそれ自体素材として対象化する。つまりその手続きは、芸術品のイメージの模倣というより、イメージとしての芸術品のイメージ化、すなわち情報化と言えよう」

つまり「モナ・リザ」のようなイメージは、長い間名作であるとされることで標準的な美の概念となり、それをもとにすべての価値体系が形作られていくという意味で、きわめて権威的です。そしてそのイメージを対象化するというのは、「モナ・リザ」が持つコノテーション(潜在的意味)を含めた全体をイメージ化=情報化するわけです。

津村 「モナ・リザ」自体が素材ということですよね。

小崎 例えば銭湯にある富士山の絵、観光土産の東京タワーのおもちゃとか、あるいはさっきのゴジラの人形などが「キッチュ」です。普通は批判的な意味はないんですが、それをアーティストが意識的に用いる場合の方法論的な態度を「キャンプ」というのだと思います。ポップアートでいえば、アンディ・ウォーホルがマリリン・モンローや毛沢東のイメージをキッチュなものとしてアートの文脈に乗せる。日本人アーティストでは村上隆さんなどは非常に意識してやっていると思います。

津村 そうですね。僕らにとってマリリン・モンローやモナ・リザ、銭湯の富士山などの加工されたものは、すでに都市環境における「自然」になっている。それを材料として使って別のものを作るという姿勢は、キャンプであったりキッチュだったりするのでしょう。

アートが権威を持っているのはいいことだと思う。ある程度権威に守られていないと「実験力」がなくなるから。デザインは一般の人たちが心地よく使えなければいけないという最低限の前提があるので、あまり実験はできない。だけどアートは人間の感じ方の実験なので、許容範囲は時代の中で変わる。デザイナーはその実験成果を物販に落とし込んでいく作業をやっているので、アートはやっぱり実験してもらわないと困るんです。

小崎 日本的なアートという話に戻りますが、津村さんとコラボレーションしたこともあるアーティストの宇治野宗輝さんは「UJINO AND THE ROTATORS」という、ターンテーブルと扇風機やドリル、ドライヤーなどの家電を組み合わせたサウンドスカルプチャーを用いて、ダンスミュージックを演奏するという作品を作っているのですが、家電を使うというのが日本っぽいなと思うんです。家電に象徴されているのは、60年代以降、高度経済成長期の経済成長によって消費文化が広まった時代だと思うのですが、家庭内の家電化が進む中で、僕は宇治野さんよりも少し年上ですが、ミキサーが登場して興奮したという感覚がリアリティとしてある。

津村 トースターとか、憧れましたよね。

小崎 それは40、50年代の華やかなアメリカ文化への憧れと、その日本的な変換つまりアメリカナイゼーションだったと思います。日本は住居も狭いし、パンが主食だったわけでもないけれど、ちゃぶ台にトースター、ベーコンエッグとオレンジジュースみたいなのがまさしくキッチュな感じですよね。でも、その生活スタイルがわれわれの感覚を育んできたんじゃないかと。

津村 うーん、まぁそうですね。

小崎 宇治野さんは自然にそれをやっていて、それこそが日本的、非欧米的なものではないかという気がします。

津村 そうですね。宇治野さんや僕の世代は、欧米の文化に侵されている部分を意識的に表出しようとする世代だと思いますが、もっと若い世代はそれすらもはや気づかずに自然にやっている。例えばコスプレだとか姫系の服が逆にヨーロッパで受けていますよね。

小崎 ゴスロリもそうですね。

津村 ゴスロリはヨーロッパのスタイルですが、ヨーロッパの人が着るよりも日本人が着るほうがかわいく見える。これはヨーロッパの人が着ると、普通なんですよね。

小崎 そこのイメージの差というかギャップが面白い。

津村 体型的に本来合わない人がそれを着たときの違和感を、なんとかかわいく見せようとする過剰な工夫がてんこ盛りに入っている。それが面白い変化になっている。

小崎 逆輸入ではなく、そういうかたちで逆輸出をすることによって日本的なものがポジションを得ていくのかもしれませんね。

2009年10月18日にDAY STUDIO★100(Vantan渋谷校)にて行われた対談を収録しました。

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つむら・こうすけ
ファッションデザイナー。1959年埼玉生まれ。82年に第52回装苑賞受賞、翌年、三宅デザイン事務所に入社。94年に自らのブランド『FINAL HOME』を立ち上げる。第12回毎日ファッション大賞新人賞受賞。造形作家としての活動も継続して行なっており、92年「第21回現代日本美術展」にて準大賞受賞。『SAFE Design Takes On Risk』展(2005-6年、ニューヨーク)、『美麗新世界』展(北京ほか)、『TOKYO FIBER09』(ミラノ、東京)など多くの展覧会に出品。おもな個展に『夢神/MUZIN』(東京)、企画展に『THIS PLAY』(07年、東京)、『DREAM CONSCIOUS かたちになりかけた夢』(09年、東京)などがある。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授。

2月にNANZUKA UNDERGROUNDにて個展を開催。
『MODE less CODE』
2月20日(土)〜3月20日(土)
http://www.nug.jp/

ART iT公式ブログ:津村耕佑

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