連載 田中功起 質問する 18-2: 馬定延さんへ1

第18回(ゲスト:馬定延)―アーティストへの質問、あるいは「これまで」と「これから」の間には何があるのか

今回のゲストは映像メディア学研究者の馬定延さん。今回は馬さんが「質問する」手紙から始まったため、田中さんの最初の手紙はこれに応答するかたちで始まります。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:「これまで」について

 

馬定延さま

 

返事が遅れてすみません。
この「質問する」の連載は、子育てに集中するためという理由でしばらく休止していました。この間、コロナ禍がずっとつづいたこともあって、以前にも増して内省モードでした。連載再開の打診を編集部から受け取りつつ、迷っていたところ、一年前の馬さんとのやりとりが再開のとっかかりにいいのでは、と思ったのです。馬さんからの取材を受けるにあたり、この「質問する」のフォーマットを踏襲するかたちで交わされた手紙のやりとり、それはぼくが質問するのではなく、質問されるという、この連載とは反対のベクトルをもったものでした。内省モードのぼくには、このやりとりがとてもしっくりくるもので、それをつづけてみたいと思ったのです。

 

知らぬ間に娘が携帯で撮影した写真。ぼくの携帯にはこうした抽象的な写真がときどき記録されている。
 

この返信は、一年前におこなったやりとりの一部を再編集して使ってます。
もっとも、過去を見る視点というのは現在の自身の状況から影響を受けるので、「過去」として語り直される出来事は、つねにすでに編集されたもの、と言えるかもしれません。だからひとは今の自分のポジションを守るために過去にすがり、今の自分の政治的主張のために歴史を修正し、しかしそうした欲望にまみれた視点であることを隠して、あたかも自身の達成を言祝ぐかのように過去を語る。過去について語ることは、なんというか、自分をどう見てほしいのか、他者に見すかされる行為でもあります。同時にそれはネガティブなことばかりではありません。過去に向き合うことは、過ちに対する反省の機会を与え、すくなくとも自身の未来を変えるきっかけになります。過去や歴史を知り、改善することによって、自身の今後のあり方を訂正する可能性になります。

 

実践の起源

 

さて、まず、馬さんからの質問にもあったように、ぼくの現代美術との最初の接点から書いてみようと思います。
ぼくは中学、高校と美術クラブに所属していて油絵を描いていました。高校では、先生が現場主義を標榜する人だったので、例えば風景を描く場合は実際の現場に行って、その場で描く、という方法をとってました。風でキャンバスが飛ばされたりしながら、河原などでよく絵を描いていました。とても素朴な田舎の画学生、ある意味ではアナクロな画学生だったんだと思います。

それでも現代美術との出会いもありました。もっとも最初の出会いは栃木県立美術館のコレクションにあるヨーゼフ・ボイスです。当時、ぼくはボイスよりも、むしろ常設展示されていたモネの小さな絵画に惹かれていましたが、それでもボイス自身が大写しになっているその写真作品(写真の上に赤い文字で「資本=芸術」とドイツ語で書かれていました)をよく覚えています。そのときは「現代美術」というタームさえ知らなかったので、謎のおじさんの写真という程度の認識でした。
意識的に「現代美術」を見たのは、おそらく1996年。美術大学を受験するために東京の予備校に通っていたころです。そのときにダムタイプの《S/N》というパフォーマンスに出会いました。ぼくが見たバージョンは、グループの中心であった古橋悌二さんがエイズで亡くなったあとの追悼公演です。古橋さんも「出演」しています。あるシーンのなかで録画映像として古橋さんが出てくる。プロジェクションされた映像の上には(スクリーンの上は舞台になってました)、本来ならば彼が座っていたはずの椅子も置かれてました。もし彼が生きていればライブ・フィードバックを使って、その場で話している彼が大写しになっていたはず。ひとり男性が現れ、記録映像のなかの古橋さんと、まるで会話をしているかのように擬似的なやりとりが進行します。そして古橋さんは、会話をしながらだんだんとドラッグクイーンへと変貌していく。不在と生、ぎこちない会話、変身、この場面は強烈な印象としてぼくのなかに残っています。そこではジェンダーやセクシャリティ、レイシズムなどの問題が扱われ、20代前半のぼくの頭を大きく揺さぶりました。
それでもそのころはまだ、現代美術というフィールドのなかで自分が制作をしていくとは思っていませんでした。ぼくはあくまでもペインターになりたかった。

転機は1998年、大学三年生だったと思います。絵画制作にも行き詰まって、自分がなにをしていいのか分からなくなっていた時期です。そのころは抽象絵画を描いていましたが、作るものすべてが他のアーティストの真似に思えてきて。自分は一体何を作ればいいのか。そんなことを友人に相談していたとき、その「次の作品を話し合っている」という状況そのものを記録すればいいのでは、というアイデアをもらいました。ギャラリストや編集者などを集めて、ぼくの次回作について議論してもらう、という場を設け、撮影しました。もちろん学生からの依頼だし、参加者の議論は多少いい加減なかたちで進むのですが、「作品制作ついての作品」というメタ構造を持つこのアイデアは、ぼく自身にとっての制作の起源だと思います。そこでぼくは初めて自分が何をしようとしているのかを理解したんだと思います。いわば作品制作そのものを批評的な距離をもって再解釈する。ぼくにとっては制作はそのようにはじまりました。彼ら/彼女らのいい加減な会話には同時にユーモアもあって、それもぼくの制作にとってのちに重要なものになっていきます。ユーモアとは、自らの置かれた状況に対して距離を取る、批評的な行為なので。

ところで、馬さんは手紙のなかで「詩的な身軽さ」とぼくの初期の実践を表しましたが、確かに現在、その「身軽さ」はなくなっているのかもしれません。年齢を重ねるなかで、だんだんと動きが鈍くなり、ものごとを見る目もシリアスになりすぎているのかもしれない。

ただ、当時のぼくが考えていたのは、取るに足りないと思われている日用品をどのように新しく見ることができるのか、という素朴な問いでした。いま子育てをしていて気付くのは、子どもにとっては、本は読むものではなく投げたり噛んだりするものでもあるということです。そうした、子どものようにモノを新鮮に見る感覚をぼくたちは日々の生活のなかで忘れています。ぼくたちはいかにして日々の慣習の外に出られるのか。新鮮にモノを見る視点をどうやって再獲得できるのか。日々のルーティーンの外にある行為を探る。そういうプロセスだったと思います。

その意味では、「詩的な身軽さ」はなくなったかもだけど、ねらいはいまも変わっていないかもしれません。この社会で見えにくくされている状況を改めて見直す。例えば在日コリアンをめぐる日本のレイシズムに焦点を当てた「可傷的な歴史(ロード・ムービー)」は、社会のなかで日常的に共有されている感覚(レイシズム)を再考するものである、と説明すれば、それはかつてのぼくの実践と地続きです。

 

方法としての出版

 

アート・ソンジェ・センターでの個展に合わせて出版した『リフレクティヴ・ノート』(2020)について書いてみます。馬さんの質問に書かれていた「方法としての出版」というタームをぼくが書いていたのか、当時の副館長のヘジュさんが書いていたのかちょっと覚えていないのですが、どこでそれを読んだのでしょうか。

慣例に従えば、展覧会を行うと展覧会カタログを出版します。作品図版や論考などを中心にした展覧会の記録物です。アート・ソンジェ・センターでの個展「可傷的な歴史(ロード・ムービー)」は、同名の映像のインスタレーション・バージョンを見せたものですが、これは2018年のミグロ現代美術館(チューリッヒ)での個展が元になっています。そこでは展示に合わせて『Vulnerable Histories (An Archive)』という本を作りました。プロダクション・ノートや出演者の手紙、出演者でもある社会学者ハン・トンヒョンさんによる日本における在日コリアンとレイシズムについての歴史をまとめたテキストを含むものです。書籍の形式は、通常の展覧会カタログとは違っていて、制作プロセスの記録とプロジェクトの背景となる情報が中心になった読本(リーダー)として作られています。ただこれは、英語版のみなので、アート・ソンジェでは韓国語版を作ることもできたかもしれません。でもそのアイデアはぼくにはしっくりきませんでした。
展示のなかで内容は十分に語られている。むしろ改めてアート・ソンジェと本を作るならば、本として成り立つ、独立したものを作りたいと思ったのです。またコロナ禍によって新作制作がキャンセルになったり、複数の展覧会が延期になったり、気持ちが落ち込んでいたこともあって、過去作の展示だけではなく、何かを新しく作りたいと思っていました。同時にぼくは、いわゆる「展覧会カタログ」という形式にも懐疑的です。展覧会のサプリメントとしての本ではなく、あくまでも独立して読めるものとして展覧会カタログも作られるべきだと思っています。展示のイラストレーションではなく、むしろ再構築、あるいは脱構築された別種のものとして構想されるべきだと思います。

『リフレクティヴ・ノート』にはこの10年ぐらいの間に書いてきたさまざまな形式のテキストを集めています。コロナ禍、最初期のインタビューや、パフォーマティヴィティについての論考、2020年からはじまったゲンロンでの連載一回目「人生について考えると抽象が気になってくる」などが収録されています。そのほか、『Vulnerable Histories (An Archive)』のプロダクション・ノートの一部や、アート・ソンジェの個展のために制作予定だった新作の、キャンセルにいたる経緯についてのテキストも含まれています。これまでの自分の思考を再配置し、ポスト・コロナを見据えた、ぼく自身にとっての、考えるための足場をつくろうとした、ともいえるかもしれません。

書籍を編集するということは、展覧会を作ることに似ています。テキスト同士の関係性が重要です。例えば、英訳テキストをその本のどの位置にするのかといったことも重要です。本の最後の方に申し訳程度にまとめてある展覧会カタログはたくさんありますが、ぼくはどうも苦手です。英語読者のことを何も考えていない。
今回、ぼくは韓国語、英語、日本語の三つの言語を本のなかに平等に配置したかった。デザイナーはこのアイデアをくみ取って、少し読みづらいけど、かなりユニークなデザインをしてくれました。
「方法としての出版」とは作品制作と同じように出版を捉えることです。例えば展覧会をするとき、ぼくは会場に掲示されるレーベルやテキストも自分でデザインし、どのような紙に印刷するのかも決めたいと考えます。映像制作ならば、スケジュール進行についてのエクセルや事前の勉強会など、一見、周辺的に見える運営にも自分の考え方を導入したいと思います。書籍の制作も同様です。言語配置の平等はシンプルなアイデアですが、本の構造を大きく変えるものになりました。

 

抽象と当事者性

 

最後に質問にもあった「抽象」について書いてみます。
「抽象」は、もちろんアートのタームでもありますが、考えるためのツールでもあります。
2011年の東日本大震災とその後の原発事故を考えるとき、ぼくには、災害後に生じたユートピアの瞬間とその後の人々の分断、その双方を理解する言葉が必要でした。震災の直後、人々は一時的に生じる災害ユートピアの中で助け合いました。しばらくたつと、むしろ震災経験の差や震災後の関わりの違いによって、人びとは分断しました。被災地に何回ボランティアに行ったのか、というような理由を掲げ、他者を責め、分断が加速します。
ぼくとキュレーターの蔵屋美香さんが2013年のヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本代表に選ばれたとき、そのプランが震災についてのものだったため、ぼく自身の当事者性について日本の美術業界からひどく責められました。当事者性をめぐる批判は議論を矮小化したと思っていますが、それでも結果として当事者性を考えつづけるきっかけにもなりました。何かについて語るときに、その「資格」があるかどうかを問う議論は、一見正当なものに見えて、むしろ物事へのアプローチを萎縮させます。そもそも災害が多くのひとに影響を与えたのとすれば、その反応もさまざまになるはずです。
いずれにしても、ぼくにとってもっとも重要だったのは、当事者性の強い問題を非当事者はどのようにして分有できるのか、という問いでした。当事者性をめぐるぼくへの批判が開いたものは、他者の痛みはどのように受け止められるのか、という問いでもあったのです。逆にいえば、当事者性をめぐって分断された人びとをどのようにつなぎ直すのかという方法について考えることでもありました。
ヴェネチアは日本から遠い。その距離を超えるためには個別具体的なことではなく、抽象性が必要だと思ったのです。例えばロッテルダムで行ったアイデアは、津波と同じ高さのビルの部屋に参加者を連れていくというものでした。高さ、つまり数値という抽象性を具体的な場所に移植する。その窓から見下ろす風景に津波を想像する。他者への想像力はそのようにして発揮されると思ったのです。

でも、コロナ禍下では一律的な基準によって個別の、具体的な生がないがしろにされていたと思います。身内の死という一度きりの場面でさえも、そこに居合わせることができなかった。誰かの死を看取ることもできないような状況は、ひとの人間性を大きく損なう可能性があります。この状況下では、抽象ではなく、むしろローカルな、具体的な生に着目することが大切だと思っていました。世界中で共有されていると思われるコロナ禍も、多種多様なローカリティのなかでばらばらに経験されているはずですから。
抽象と具体は、そのように震災のときと反転させて考えることもできます。

集まることは難しかったこの数年を経て、人びとが集まることが可能になってきてます。誰かと会うという経験は、個人的で具体的なものです。そのかけがえのなさが、「共にいることの可能性」をどう開いていくのか、これからの数年を見ていきたいと思っています。

今回は制作の背景になることが中心でしたが、馬さんの手紙にあったようにもう少しメディウムや映像環境をめぐる話もしてみたいですね。次回のお手紙も楽しみにしてます。

 
田中功起 京都にて
2022年7月1日


近況:コロナ禍の長いトンネルが終わりにさしかかっているのか仕事が戻ってきているような気がする。今年は、まずベルリンのHKW(世界文化の家)での人新世のプロジェクトがあり、同時に別のプロジェクトもいくつか走らせている。広島市現代美術館ともアーカイブについてのプロジェクトを模索中。この「質問する」の連載が育休に入ったとほぼ同じぐらいにはじめたゲンロンβ(ゲンロンα)での連載も継続中。そこで新しく獲得しつつある文体はこの「質問する」のトーンも変えていくかもしれない。

 


【今回の往復書簡ゲスト】

馬定延(マ・ジョンヨン)
1980年韓国ソウル生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科修了(博士・映像メディア学)。著書『日本メディアアート史』(アルテスパブリッシング、2014)、共編著書『SEIKO MIKAMI: 三上晴子—記録と記憶』(NTT出版、2019)、論文「光と音を放つ展示空間—現代美術と映像メディア」(『スクリーン・スタディーズ』東京大学出版会、2019)、「パノラマ的想像力の作動方式」(『To the Wavering』展カタログ、ソウル市立美術館、2020)、共訳書『Paik-Abe Correspondence』(Nam June Paik Art Center, 2018)、『田中功起:リフレクティヴ・ノート(選集)』(アート・ソンジェ・センター+美術出版社、2020-21)など。現在、関西大学文学部映像文化専修准教授、国立国際美術館客員研究員。
 

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