連載 田中功起 質問する 16-5 :ハン・トンヒョンさんへ3

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

社会学者のハンさんとの往復書簡。田中さんからの最後の書簡は、アート=感覚、社会学=論理という区分けを超えた連携の在り方を問い、また自作「可傷的な歴史(ロードムービー)」(Vulnerable Histories(A Road Movie))をめぐり「理想の記録」としての表現を考えます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:理想の記録

 

ハン・トンヒョンさま

少し遅くなってしまいました。
この間、ロッテルダム国際映画祭での上映があり、ハンさんにも関わってもらったシアターコモンズでの上映がありました。展覧会のあとに、こうして上映という形式でひとつのプロジェクトがくり返し公開される機会はいままでなかったので新鮮です。シングル・チャンネル版を作ってよかったと思っています。水戸芸術館でのプロジェクトも、ミュンスター彫刻プロジェクトのプロジェクトも当初の予定ではシングル・チャンネルを作ろうとしていたので、今年はそうしたことに取り組むのもいいかもしれません

 


ロケハン中。なかなか悩ましい。

 

ハンさんが前回、書いていましたが、オフラインで会ったときにも、「私がソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)について書いたことにもうすこし反応してほしかった」、と言っていましたよね。ぼくは、むしろハンさんがSEAについて書いていたことに納得していたので、そのままスルーしてしまったのかもしれません。だから後半の問い、「知識の共有」の方に引っ張られてしまいました。今回は、もう一度最初に戻って、SEAについてのハンさんの解釈をふり返り、ぼくなりに気づいたことを書いてみようと思います。

 

論理と感覚

 

ハンさんは社会学のひとつのあり方を「個別具体的な問題の文脈を明らかにし、抽象的で普遍的な理論へと昇華させる」ものであると、書いています。そして社会学が「文脈を明らかにする」のならば、アートは「文脈をつくる」という逆のベクトルであると。確かに、学問のような厳密さから離れて、アートは、自由な連想も含めて、無関係なもの同士の関係を取り結ぶ(逆に固着した関係を解体する)ことができる領域かもしれません。

「SEAとは、調査や研究によって明らかにされた文脈を、言語やロジックではなく美学的な、視覚やその他の感覚に訴えるような方法論によって再構築して示すものだと言うことができるのかもしれません」(ハンさんの前回の書簡より)

個別的、具体的な社会の有り様/文脈から、社会学は理論として導き出され、アートは作品として構築される。そう言い替えることができると思います。抽象/普遍の獲得の仕方がこの両者では違いますが、だからこそその中間領域であるSEAでは、アーティストは個別的/具体的な社会や状況を扱う社会学(者)や人類学(者)を必要とし、その協働の可能性に対して開かれているのだと。では社会学(者)にはどんなメリットがあるのか。それは美学の獲得である、というわけですね。社会学が理論を、アートが感覚を担い、その相補性の中でSEAの意義が生まれる。

確かにアートは、感性学としての美学を扱う。人びとが共有している感性を、一度解きほぐし再配置していくことが、アートのひとつのあり方です。そしてランシエールが言うように(ハンさんにならってあまり固有名を使わずに書きたいところですが、ここではひとりだけ)、感性学としての美学は、政治の問題でもある。政治は、人びとが共有する排除と包摂の感性によって左右されます。例えば、共同体論の中で「日本人」と言ったときに人びとがイメージする姿は国籍を元にしたものではなく(複数の民族や人種あるいは「ハーフ」を含む多様な日本人像が語られにくいですよね)、単一民族幻想によって、外見でその誰かを「外国人」と判断し、共同体から排除します。イメージの中で、つまり感性の中で、排除/分割の論理が分有されている。この感性の分有を攪乱するためには、その感性を再配置しなければならない。共有されているイメージを再配置すること、その行為は政治であり、同時に芸術でもあります。こうして芸術と政治を二つにわけるのではなく、同一のものの二つの側面と理解することもできます(*1)

でも、アートは社会学に美学を提供するだけのものなのでしょうか。役割分担ではない、相互連携はできないのでしょうか。ぼくは論理と感覚を、社会学とアートに区分けする仕方に少しだけ違和感があります。論理と感覚の二分法には、納得がいかないのです。感性の再配置のためには論理的な積み重ねが不可欠です。言ってみれば二つの論理的な体系の交差がSEAなのではないかと。社会学がひとつの論理の体系だとすれば、アートも別の論理の体系である、いや、アートとひとくくりにすると嫌がるひともいるかもしれないので、SEAの、さらにその一部と範囲を狭めてもいいかもしれません。ごく一部のアートの営みは、社会学とは別の論理の体系の構築を目指します。そしてその構築の先に、やっと感覚的なものが待っている。でもこれは論理的な文章を読んだあとにも訪れる、感覚的な開かれに似ていると思うのです。例えばハンさんのテキストを読んだり、話したりすることはぼくにとっては別の感性の獲得でもあり、それは十分に美学的な体験なのです。

 

具体から抽象へ

 

そしてぼくは、ハンさんが書くように、具体的なものから普遍的なものが段階的に抽出されるとも思っていません(ここが社会学と芸術に対するぼくが考える違いでもあります)。具体的なものの積み重ねの中に、その構築された論理の中に、普遍が生じると思うからです。抽象的な議論が続くので、ここでも自作を挙げるとすれば「Vulnerable Histories(A Road Movie)」には先に書いたように6つのレイヤーがありました。それぞれは個別的で具体的な視点/声です。

1. 個人の視点/アイデンティティ・ポリティックス/鄭優希(チョン・ウヒ)さんの言葉
2. スイス/ヨーロッパからの他者としての視点/クリスチャンの反応
3. 現在/社会学者の視点/ハンさんのレクチャー
4. 歴史/活動家の視点/西崎雅夫さんによる関東大震災後の朝鮮人虐殺についての語り
5. 法律/実質的な問題解決の視点/人権関連の法律や判決文の朗読
6. メタ視点/アーティストの語り

そのレイヤーの重なりに普遍的なものが生じるかどうかが賭けられている。各レイヤーは「在日コリアンの問題」という意味では関係します。でもそれぞれは個別の、独立した発言や言葉です。優希さんの語りは個人的なものであるし、西崎さんの語りはオーラルヒストリーの編纂者としてのものです。ここには関連性はない。でもそれがひとつのプロジェクトの中に並置されることで(劇場版ではひとつのタイムラインに並ぶことで)関係を取り結ぶ。読まれた法律・条約やハンさんのレクチャーはそれをより大きな文脈に接続します。もちろん今回、その方法論がうまくいっているかどうかはわかりません。普遍性が見えてくるのか、そればかりに見えてしまうのか、バランスが悪いかもしれない。

このレイヤー群は、基本的にさまざまな言語の積み重ねです。だからそれは「映画」であるよりも、むしろ本のようなものとしてある(実際章立てになっていますし)。でも映像なので本ではない。映画でもなく、本でもない。その中間にあるようなものとしての映像。

でも案外こうして書いてくると、この映像はまさにハンさんが言うように「言語やロジックではなく美学的な、視覚やその他の感覚に訴えるような方法論によって再構築」されたもの、つまり社会学の論理とは違った、アートならではのものなのかもしれません。結局、ぼくも美学を構築しているだけなのかもしれません。

 

理想を記録する

 

「アートである以上、抽象的で普遍的な領域で行われるため、アクティヴィズムのように直接何らかの問題を解決したり状況を改善したりするわけではありません、当然ながら。そのための想像力を提供したり、示唆を与えたりするものでしょう。
だから問題解決というよりも、理想やそれを現実化するための模索(の共有を目指す行為?)、という感じでしょうか。私はSEAのみならずアート全般が理想や理念の追求や提示だと思っているので、アートにしかできない方法で、アートにしかできないことをやっているように見えます」(ハンさんの前回の書簡より)

ぼくがやっていることもハンさんが書くように、理想の提示やその模索なのだとは思うのです。でもきっとそれだけでは不十分だとも。

ここ数年来、こだわっているのはある意味では細部の記録です。人びとの感情の機微に宿る政治性とでもいうか。人の複雑さを記録として残すこと。ずっとぼくの作品には情緒がないと言われてきました。アイデアだけであると。でも自分がある程度の年齢になったからなのか、少しずつ感覚的なものを受け入れつつあって。「Vulnerable Histories(A Road Movie)」では、とくに優希さんの気持ちを素直に記録しようとしました。彼女が彼女の問題を語りやすい環境を整えること。そして、映像は、とくにシアターコモンズで見せたシングル・チャンネルの「映画」バージョンでは、人の感情の機微をその複雑さのまま記録することがより顕著だったと思います。つまりクリスチャンと優希さんが理解し合うまでの道のり。もちろんひとはそう簡単には理解できない。でもその可能性の記録、ある意味では「理想的な理解」というフィクションを記録する。でもぼくはそこまでこの「理想の記録」を目指すことに自覚的であったかどうか。足りなかったのだとすれば、これに気づき、理想という複雑さを明瞭にするための再構築の技術、いわばフィクションの技術がぼくには今後必要になるのでしょう。

本当はもっとやりとりをしてみたいところですが、ぼくからの返信はここまで。

ハンさんからの次の手紙への応答は、現実の世界で、どこかのカフェで、あるいは飲み屋で。

田中功起
2019年3月 京都/東京にて

 

近況:アリゾナ州立美術館のセラミック・リサーチ・センターでの展覧会「Rogue Objects」(妻の久美恵さんとの共同キュレーション)がオープンし、また、あいちトリエンナーレ2019の制作もはじめています。



1. 短い部分ですが、以下を参考にしてます。
星野太「ブリオー×ランシエール論争を読む」『コンテンポラリー・アート・セオリー』イオスアートブックス、2014年
ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ—美学と政治』梶田裕訳、法政大学出版局、2010年
下地ローレンス吉孝『「混血」と「日本人」 ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』青土社、2018年

 


【今回の往復書簡ゲスト】

ハン・トンヒョン(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。

 

Copyrighted Image