田中功起 質問する 16-3:ハン・トンヒョンさんへ2

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

社会学者のハンさんへ田中さんから2度めの書簡。ハンさんからの問いに応え、知識の共有が経験の共有を補完・代替できるかについて、作品「可傷的な歴史(ロードムービー)」での体験も通して綴ります。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:知識と経験の共有

 

ハン・トンヒョンさま

ぼくはいまアリゾナのテンピにいます。アリゾナ州立大学の中にある美術館のコレクションやスーザン・ピーターソンの陶芸研究アーカイブ(ピーターソンは民藝の濱田庄司の研究者でもあります)を使った展覧会を企画するためです。キュレーターであるフリオ・モラレスは、名前から分かるようにメキシコ系、アシスタントとして彼についているマシュー・ミランダはフィリピン系ですが、そうした非白人系のキュレーターはアメリカでは3パーセントぐらいだとモラレスは説明していました。ぼくの印象ではもう少し多いんじゃないかと思ったのですが、たまたまぼくが会うキュレーターに非白人系が多いだけなのかもしれません。

 

アリゾナのポストン強制収容所跡地付近。

 

さて、美術館にあるセラミック・リサーチ・センターのアーカイブ室で作業をしているときに、少し気になることがありました。ぼくは風邪気味だったのでマスクをして作業をしていたのですが(ちなみにアメリカではマスクをしているひとを基本的に見かけません)、見知らぬ白人の老人がやってきて(あとで聞いたら作品を美術館に寄付したことのあるコレクターで、センターのボランティアだったようですが、この日はセンターは休みのはずでした)、「煙も何もないけど、どうしたんだ?」と聞いてきました。彼の声のトーンには人を責めるような雰囲気がありました。ぼくが「風邪を引いているから」と答えると、

男:どこで風邪を引いたんだ?
マスクのアジア系の男:アテネに行ったときに風邪をもらってきたと思う。寒かったから。
男:ここだって十分に寒い。ビジターたちが害虫やウイルスや病気を地元のコミュニティに持ち込む。手を洗うべきだ、ウイルスをばらまく前に。

これは初対面のひとに向けた話し方ではないですよね。ある種の関係性ができあがっていれば、特に気にならないことかもしれない。それでも、アジア系の男に対して、汚い場所からやってきている、という偏見が確認できます。些細なことかもしれませんが、とても嫌な気持ちになり、相手に言い返し、ぼくはその日は帰ってしまいました。あとで分かったのは、彼はアシスタントのマシュー(マシューは一ヶ月前ぐらいにカルフォルニアから引っ越してきています)とぼくとを見間違えていたらしい。そうだしても、相手のことを考えていない発言です。その中には外部から来たものへの嫌悪が感じられます。

でもアーティストはそもそもそういう存在なのかもしれません。彼はぼくをアーティストであると認識はしていませんでしたが。英語では虫は「Bug」ですが、これはシステム内でのエラーを指す「バグ」の意味でもあります。ビジターとしてのアーティストは、アーカイブやコレクション、美術館システムそのものにバグを起こし、別のモノへと変えてしまう、可能性をもつ。

 

知識を共有すること

 

ハンさんは前回このように書いていました。

「こうした知識の共有がどのように作品に反映されたと感じていますか。また田中さんのテーマは経験の共有の可能性とその方法です。知識の共有は経験の共有を補完し、ひいては代替しうるものだと私は信じています。そのあたりの関係性についても、聞いてみたいかもしれません」。

撮影班との事前勉強会がどのようにプロジェクトに反映したか、ということですが、二つのことが言えると思います。ひとつは実際に撮影班にどのような作用があったのか、もうひとつはぼくがそれをどのように考えているのか、ですね。

結果的にですが、ぼくは撮影班のそれぞれに、事前勉強会がどのように実際の撮影現場やそれぞれに作用したのか、聞く機会をまだもてていません。ひとつには、立場上、ぼくが雇い主でもあるし、なかなか本当のところを聞くことは難しいだろうと思うからです。また事前勉強会という行為自体がはらむ「正しさ」の前で、それぞれがどのように思っていたのか、それがどう撮影に関係したのかを聞くことは難しい。

でも、その効果が瞬間的に分かる場面がありました。このプロジェクトの撮影直前に、準備のため一日だけ合流してくれた技術者がいます。そのため彼は撮影現場で優希(ウヒ)さんやクリスチャンには会っていません。急なお願いになったので事前勉強会に参加する機会もなく、撮影関係者で共有していた資料にもおそらく目を通すタイミングがなかったかもしれません。

そして撮影がクランクアップして、打ち上げのときにはじめて彼は優希さんに会ったのですが、そこで彼女の名前を聞いて、確かすぐに「どこの国のひと? 韓国?」と反応しました。それを聞いたそのテーブルが、いやいやまさにそれを今回扱っていたんですよ、って雰囲気になったんです。その雰囲気を察してさらに彼は「いや、俺、韓国人の友達もいるし、韓国文化も好きだよ」ってなって。もちろんこれはよくある反応だと思うし、悪気はない。けれども、そこに知識の共有があるかないのか、大きな違いが浮き彫りになった瞬間でもあったのです。つまり他の撮影班のそれぞれには、事前勉強会と撮影を通して養われた「理解」があって、他の撮影班は確実に優希さんの立場を想像力によって「経験」し「感覚」を共有していたと思うのです。

知識の共有が経験の共有を補完する、というハンさんの話は、上記の出来事を踏まえると確かにそうかもしれないと思いました。というのも、誰かの経験を共有する、というのは基本的には難しいとぼくは思うのです。そのひとが経験した何かを想像することはできても共有することはできない。例えば感覚や痛みは想像できても、同じ感覚を持つことは、別々の人間なので、無理なわけです。SFなら別かもしれませんが。虐げられる経験も、例えば震災の経験も、それぞれの人による個別の、固有の経験です。共通点はあるにせよ、それはしかし別々のものです。逆にいえば、経験が共有しがたいという認識があったからこそぼくは、まずは小さなグループで共有されるひとつの時空間をつくり、仮の、一時的な共同体の記録を詳細に行おうとしたのだと思います。それが水戸芸術館やミュンスター彫刻プロジェクトでの試みでした。

今回のプロジェクトは、事前勉強会もそうですが、映像の中で展開するハンさんやほうせんかの西崎雅夫さんの話を通して現在の文脈と背景となる歴史を理解し、その「知識」あるいは情報からの想像力を借りて、誰かの経験を分有しようとする試みだったのだと思います。だからこそ今回のプロジェクトはその文脈や歴史的な背景を知らない、どこか遠くの国でまずは発表される必然性があったのかもしれませんね。はじめて聞く、遠い国の話、でも最低限の知識があれば、自分の地域にもある、近しい、しかし別の問題へと接続することができる。そうした迂回をへて、遠い国の話を身近なものとして理解する。ゆっくりと時間をかけてテキストを読み、映像を見る観客がいたり、会場にいるライブ・スピーカー(観客の疑問に答えたり、対話の相手になる存在です)とディスカッションをする人びとがいたりするのを見て、試みはそれほどずれていなかったのではないかと感じました。

 

フィクションについて

 

ハンさんの書簡の中ではさらにフィクション性への問いもありましたが、これは次回以降に持ち越しましょうか。ひとつだけ急いで書いておけば、撮影現場は、現実の空間で行われるとはいえ、そこに(複数の)カメラがあるかぎり、どうしても非現実な空間になってしまう。その非現実的な空間を出演者たちがどう引き受けるのか、というときに、演じることへの抵抗を減らすことは重要な要素であると感じています。ぼくにとってドキュメンタリーは、本人が本人を演じることが自然になっている、そんな空間です。そしてフィクションにおいては、その本人が、課された役割を演じている。ぼくの近年のプロジェクトは、この双方を行き来しているように思います。今回のプロジェクトでは、優希さんは優希さんであること以上に「在日コリアン」であることを引き受けてカメラの前にいます。クリスチャンは、(ヨーロッパからの)媒介者としての立場を課されている。一方で、優希さんの語りは彼女のアイデンティティの政治をめぐるものである。クリスチャンはアイデンティティの政治をさらっと受け流し、別の視点を提供する。この二人のやりとりは、個別性を持ったアイデンティティをめぐる問いを、別の誰かへと開いていく。

この「質問する」の中ではあまり自作について語りすぎないルールを設けていたのですが、今回は、内容の性質上、その縛りをはずしています。

引きつづきよろしくお願いします。

田中功起
2018年12月テンピ、アリゾナにて

 

近況:来年はロッテルダム国際映画祭シアターコモンズの東京でのイベントで、今回のやりとりでも話している「可傷的な歴史(ロードムービー)」(日本語タイトル決まりました)を上映します。またアリゾナ州立美術館のセラミック・リサーチ・センターでの展覧会(妻の久美恵さんとの共同キュレーション)も3月2日から始まります。あいちトリエンナーレ2019への参加も発表されました。


 

【今回の往復書簡ゲスト】

はん・とんひょん(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。

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