田中功起 質問する 16-4:ハン・トンヒョンさんから2

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

社会学者のハンさんから、田中さんへの2通目の書簡。「可傷的な歴史(ロードムービー)」をめぐる在日コリアンの友人からのことばも引きつつ、芸術における知識と信頼の関係、またそこでのフィクション性とノンフィクション性の関係について綴ります。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:知識の共有と信頼

 

田中功起さま

年末年始はいかがお過ごしでしたか?

こちらは大晦日から元旦にかけては兄の家で過ごし両親らの祭祀(在日コリアンの家庭で根強く残っています)をしてコリアンな正月料理を作って食べた以外、年末は大学のこと、年始は自分の原稿に追われ、普段以上に忙しかったような気がします。

年をまたいだやり取りになりました。2019年の今年も引き続きよろしくお願いいたします。
 


『可傷的な歴史(ロードムービー)』のロケ地にもなった川崎・桜本の識字学級に集う在日コリアンや日系移民の女性たちの作文が、1冊の本になりました。『わたしもじだいのいちぶです』(日本評論社)、ぜひ手にとってみてほしいです。クラウドファンディングに参加したので、ハルモニ(おばあさん)たち直伝のレシピカード、イラスト入りの栞と一緒に届きました。

 

問いかけよと求められてたくさん問いかけすぎてしまい、当然ながらすべての問いに対しての応答が出揃ったわけでもなく、持ち越された論点も複数あるので、何をどう返信すればいいのか、難しいですね……。と言いつつ、つらつらと書いてみます。

田中さんは主に後半部の知識と経験の共有について(私にとっては前半の方がメインだったのですが・笑。でも私が聞いた数人のアート側の人は田中さん同様?やはり後半部に関心があるようでした)、とくに新作の制作プロセスにおける事前学習会などによるスタッフ間での知識の共有が作品にいかに反映されたと思うのかという私の問いに対し、撮影班への作用とそこに対する認識のこととして応答がありました。ただ、私はもう少し作品そのもの、その受け取られ方や評価について質問したつもりだった、というか、そこに興味がありました。

チューリッヒでの展示にともない、立派なカタログが作成されました。つねづね田中さんはこういうの作るの好きだなーと思っているのですが(いや実際に作るわけではないですが私も好きな方なのでとても共感します)、水戸の黄色い本、ミュンスターの緑の小冊子から、今度はカラーのハードカバーの立派な書籍になっていてびっくりしました(改めてやっぱりミグロは太っ腹だよなあ、というベタな感想も……)。とても素敵な本になったと思います。その本には私も「在日コリアンとレイシズム」というタイトルで、旧植民地出身者を含む移民の扱いが日本とは大きく異なる主にヨーロッパの読者に向け、歴史的、社会的背景を解説する文章を寄せました。

数冊いただいたので、日頃からアートに関心があり、遠方から水戸での展示も見に行ってくれた在日コリアンの友人にプレゼントしたところ、しばらくして、感想のメールが届きました。そこには、私がかかわり文章を寄せたことで、「日本人アーティストが在日問題を扱うと聞く時に感じる不安や、失望しないようあらかじめ期待のハードルを下げなくてもよいだろうという点で安心感がありました」と書かれていました。

「日本人アーティストが在日問題を扱うと聞く時に感じる不安」とありますが、私もとてもよくわかります。映画でもテレビドラマでも小説でも漫画でも、その不安はつねに付きまといます。おそらく在日コリアンだけではなく、何らかのマイノリティ属性の当事者は、みな思い当たる節があるのではないでしょうか。とはいえこれは、何も自分が思い描いているような「望ましい」当事者像ではないことへの不満、といったものではありません。1通目で使った言葉を使うと社会的文脈ということになるでしょうか、場合によっては最低限の知識も踏まえられていないことも少なくないからです。

ここでいう知識とは、経験の蓄積であり、その抽象化、理論化です。「他者」の問題を扱う際、立場が違う以上、経験は知識で代替するしかないわけです。前回、「知識の共有は経験の共有を補完し、ひいては代替しうるものだと私は信じています」と書きました。経験の蓄積、その抽象化、理論化としての知識を積み重ねていくのが、研究、学問の役割で、それを伝えるのが教育です。だから、ここを信じないと、私は今の仕事をやっていけません。

ただもちろん、それだけがすべてではないことも知っています。そのような抽象化や理論化からこぼれ落ちていく部分、そこだけでは届かない、拾えないものが、私たちの生きるこの社会にはあります。それもまた、いやもしかするとそれこそがこの世界の豊かさで、この領域を扱うことができるのが芸術の特徴であり優位性です。だからこそこの社会に芸術が存在し、必要とされているのだし、私がアートにひかれ、リスペクトを持っている理由も、ここにあるのだと思います。

話を戻しましょう。感想を送ってくれた友人はここ数年、昨今の社会状況も影響もあって精神的にとても不安定になっていたのですが、メールの最後に「田中功起さんには、少なくとも人を一人救ったとお伝えください」とも書いてありました。まだ作品そのものを見たわけでもないのに少し荷が重いと感じるかもしれませんが、表現してそれを発表している以上、よくも悪くも、人に影響を及ぼしうる。もちろんそれは、たとえば私が文章を書いても起こりうることですが、人の感覚に働きかけるアートは、そういう「力」が大きいメディア、方法論で(これは、前述した世界の豊かさの話に直結しますよね)、その分、私の友人のように人を救うこともあれば、人を傷つけることもある。だからこそ、さしあたり、実在する人間にかかわる繊細な社会問題を扱う場合、端的に言って、「他者」を扱う場合に限定しても、知識の共有は、作品の誠実さや倫理性を担保するために、作品としてのクオリティや面白さ以前の前提として、重要になってくるのだと思います。

またそれは、前回の繰り返しになるかもしれませんが、もうひとつの論点になっているフィクションとノンフィクションの話にもかかわってくる。田中さんは1通目で、フィクショナルな要素を取り込み始めたのは、きまじめさによる制作の限界へのリアクションかもしれないと書いていましたよね。でも実は逆なのではないか。主人公2人のフィクション性――課された役割を演じ、そこで優希(ウヒ)さんはアイデンティティ・ポリティクスを語り、またそれがクリスチャンによってそらされたりもする、といったやり取りは、フィクショナルな設定のなかで行われたものであっても、2人の日々の思考や実践の再現、再構築だったはずです。そのような意味でのフィクション性とノンフィクション性の往還は、むしろきまじめで誠実なものに私からは見えます。そして、台本があるわけでもないのに2人――とくに私の知る範囲では優希さん――がそれを安心して行えたのだとすれば、そこには田中さんのみならずスタッフ間での知識の共有という信頼があったからだとも思うのですが、いかがでしょうか。

 

近況:とくに告知するようなことがない……。原稿書いたり授業したり大学の色んな仕事をやったりしています。あ、韓国のシンガーソングライターでイラストやエッセイも書くイ・ランというアーティストがいるのですが、日本でのエッセイ集発売に際して行ったインタビュー「Interview イ・ランになるまで」(全4回)が昨年末に公開されているので紹介しておきますね。なお、「可傷的な歴史(ロードムービー)」が上映されるシアターコモンズのイベントは、私も会場でお手伝いする予定です。


 

【今回の往復書簡ゲスト】

はん・とんひょん(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。

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