田中功起 質問する 16-2:ハン・トンヒョンさんから1

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

今回のゲストは社会学者のハン・トンヒョンさん。彼女からの最初の返信は、自身が参加した田中作品を回想しつつ、異領域からの協働者・観察者・当事者として問いを投げ返します。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:協働のありか

 

田中功起さま

こんにちは。

ハワイではいかがおすごしでしょうか(ところで「文化交流使」という字面、遣唐使のような、「使いに派遣された者」感が強くていつも笑ってしまいます)。

ご指名くださり光栄です。「問いかけよ」という「問いかけ」に、上手く応じることができるかどうかわかりませんが、1通目をいただいて考えてみたことをつらつらと書いてみようと思います。公開ではありますが往復「書簡」なので、肩に力を入れずに自由に率直に。

 


日本映画大学の1年生が初めて映画制作にのぞむ実習(この写真の撮影も学生です)。先日クランクアップを迎え、現在仕上げ中です。留学生比率も高まるなかで、改めて他者との共在や共有、そして「協働」について考えさせられる日々。

 

社会的文脈をつくる、ということ

 

私もお手伝いをして出演した新作「Vulnerable Histories (A Road Movie)」にも影響したという、京都でお住まいのエリアには、春にインタビューをしにうかがいました。ホテルでレンタサイクルを借りて行ったのですが、ふっとはっきり空気が変わることが、地域的にはよそ者の私にも/ある部分は身近な私だから、よくわかりました。

作品のなかの、バーでの振り返りシーンでも話していますが、今回の作品は、そのような、土地に根づくもの、いや根づくものというよりその場に宿る空気感のようなものを大切にして制作されたように思います。関東大震災のとき、根拠なきデマによって多くの朝鮮人が虐殺された荒川河川敷、またここ数年、ヘイトスピーチの標的になってきた川崎・桜本がロケ場所になりました。

とくに印象深かったのが、私もロケに立ち会った川崎・桜本です。桜本は在日コリアンの集住地域で、下からの地道で根強い多文化共生の取り組みが行われ、それが行政にまで広がりをもたらしてきた地域です。でもだからこそ近年、排外主義者たちに狙われることになりました。私の出演シーン(在日コリアンの歴史と現代のレイシズムに関する架空のレクチャー)でも説明したように、2016年に「ヘイトスピーチ解消法」(*1)が成立するうえで、川崎の方々のたたかいと働きかけは大きな力になりました。

ロケでは、実際にヘイトスピーチデモの出発点となった公園や、人々の生活にも溶け込んでいる集住地域の中心部の公園で(そういえばすぐ近くでキムチなどの食料品店を経営している私の友人が差し入れてくれたお餅、好評でしたね)、国連の人種差別撤廃条約、ヘイトスピーチ解消法などを主人公の2人が読みあげていきます(荒川河川敷では世界人権宣言も読みました)。条約や法律の文章って、それだけ見ると一般的には馴染みにくい冷たい感じさえするものですが、読み上げる2人のポジショナリティ、さらにはロケーションが加わることで、一気にそこに文脈が立ちあがる様子を目の当たりにしました。

馴染みにくく冷たい感じと書きましたが、法律にだって背景と文脈があります。とくにこのような人権にかかわるものの場合、成立するためにはその被害者の存在が立法事実として欠かせません。ヘイトスピーチ解消法は、まさにヘイトスピーチ――レイシズムの被害はそれだけではないのですが――の被害者が存在し、そのような被害が集中的に生じた場所のひとつであるここ川崎・桜本にも与野党議員らが視察に訪れ、この地域の被害者が国会で証言に立つなどの経緯を経て、その結実として成立しました。

そのような文脈が、その場所で読むという行為によってそこに立ちあがってくるのは、この間の経緯を見続けてきた被害当事者のひとりとして涙腺が緩むような体験であると同時に、アートという固有の方法論について私に新たな発見をもたらしてくれました(荒川河川敷と川崎桜本というロケ地の選択そのものも、歴史の点と点をひとつの線――つまり文脈――として、結びつけ立ち上げる意図であったと思います)。田中さんの1通目のお手紙に沿って、いわゆるソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)を「社会問題をめぐるアート」とさしあたり定義した場合、問題をめぐる社会的文脈を視覚的、体感的なものとして「つくる」ことができ、それを感じてもらえるのがSEAなのではないか、という発見です。

 

社会(問題)へのアプローチと協働

 

具体と抽象、個別性と普遍性をつなぐのが文脈です。社会学の仕事のひとつは、個別具体的な問題の文脈を明らかにし、抽象的で普遍的な理論へと昇華させていくことです。そう考えるとSEAと社会学は、抽象性や普遍性を目指すという意味では共通性があり、文脈を明らかにするのか、文脈をつくるのかという意味では逆のベクトルにある、と言うこともできます。つまりSEAとは、調査や研究によって明らかにされた文脈を、言語やロジックではなく美学的な、視覚やその他の感覚に訴えるような方法論によって再構築して示すものだと言うことができるのかもしれません。だからこそ、SEAにおいて社会学(者)や人類学(者)が要請されるのでしょう。

田中さんは1通目で、「SEAが問題解決型(状況改善)に向かうときそれはアクティヴィズムになるし、問題提起型(状況把握)に向かうとジャーナリズムになります。(中略)ぼく自身に引きつければ、おそらく後者に近いかもしれません。それでも、よくもわるくもアートの範疇の中に自分はいるのだろうと思っています。ぼくは社会問題をある意味では抽象的に扱うことで、アクティヴィズム的な側面もジャーナリズム的な側面も同時に失っています。ただ逆にそのことで移動可能性を獲得しようとしているわけです」と書いていました。

アクティヴィズムもジャーナリズムも具体性、個別性の領域での営みですが、アートは抽象性、普遍性の領域での営みです。だから前者であれ後者であれ、抽象的に扱うことは(ソーシャリー・エンゲイジド・)アートとしてきわめて正しい。また私の見立てでは、田中さんの近年の作品は、田中さんのいう後者ではなくむしろ前者の方向を向いているような気もしています。とはいえそれはアートである以上、抽象的で普遍的な領域で行われるため、アクティヴィズムのように直接何らかの問題を解決したり状況を改善したりするわけではありません、当然ながら。そのための想像力を提供したり、示唆を与えたりするものでしょう。

だから問題解決というよりも、理想やそれを現実化するための模索(の共有を目指す行為?)、という感じでしょうか。私はSEAのみならずアート全般が理想や理念の追求や提示だと思っているので、アートにしかできない方法で、アートにしかできないことをやっているように見えます(水戸からつきあってきた内在的観察者/門外漢の部外者による主観的な意見なので、あまりあてにならないかもしれませんが・笑)。この辺はまだ考えている最中なので、往復書簡のなかで続きを展開してみたいなとも思っています。

翻って、今回の私たちの協働です。社会学(者)によって明らかにされた日本におけるレイシズムの文脈を(決して「私個人が明らかにした」という意味ではありません)、アーティストが鮮やかな手法で再構築してそこに示すということ。それぞれの方法や役割に固有性があるからこそ、協働に意味があるのだと思います。またそのような協働には、他のジャンル、その方法論へのリスペクトが欠かせません。近年増えている、異なるジャンルの方法論を取り込んだり取り入れたり越境をはかることがときに「侵犯」と受け取られてしまうのは、もしかすると、リスペクトに欠けているからなのかもしれません。

 

きまじめさ、そしてフィクション性

 

このリスペクトという問題にもかかわってきそうなので、1通目から、もう少し続けます。「扱う問題が繊細なものであればあるほど、そこには配慮が生じ、それによって、プロジェクトにきまじめさが帯びてきて、それはよい側面もあるけれども、内容に余裕がなくなり、見る者を息苦しくさせることがある」「丁寧であることは前提だとして、きまじめさによる制作の限界もある。(中略)フィクショナルな要素を取り込みはじめているのは、この問題へのリアクションかもしれません」というところです。

今回のプロジェクトでもっともその「きまじめさ」が発揮された部分は、事前学習だったと思います。田中さんと出演者のみならず、撮影、録音、制作およびその助手としてかかわるすべてのスタッフを対象に、私が在日コリアンの歴史と現状について、条約や法律などを監修した明戸隆浩さんが日本のレイシズムの現状について、それぞれレクチャーしました。このようなことはそう一般的ではないと聞きましたが、こうした知識の共有がどのように作品に反映されたと感じていますか。また田中さんのテーマは経験の共有の可能性とその方法です。知識の共有は経験の共有を補完し、ひいては代替しうるものだと私は信じています。そのあたりの関係性についても、聞いてみたいかもしれません。

フィクショナルな要素というのも、実はこのあたりのこととかかわってくるように思います。フィクションとして演じるのはメタで作為的な行為であり、当然ながら出演者がその表現に自覚的かつ能動的であることを必要とします。そのためにも、状況や問題の理解、共有は重要かつ不可欠です。そう考えると、ハプニングとしてのスペクタクル性が求められるノンフィクション的な手法は、実は参加者が受動的になりがちで、とくに「参加型アート」で繊細な問題を扱ううえではもしかすると相応しくないのではないか、というまた新たな問いも生じてきます。

もちろん、フィクションとノンフィクション、作為と不作為、能動性と受動性は、きれいに切り分けられるものではありません。でも、扱う対象が繊細な問題だからこそ、また皮肉や揶揄、諧謔、ときに挑発といった手段も用いるアートという方法だからこそ、倫理的な問題であることを超えて、中身そのものにかかわってくる重要な問いだと思いませんか。

もしかして、いっぺんに色々と問いかけすぎてしまったでしょうか。残る2往復のなかで、意見交換していくのにふさわしい論点を示すことができていれば幸いです。

ハン・トンヒョン
2018年10月
まごうことなきホームであり、にもかかわらずときにアウェイでもある東京で。

 

近況:本当は今頃、釜山国際映画祭~光州ビエンナーレを回っていたかった……。駐日韓国大使館領事部とのまったく楽しくない往復書簡が今日届いたところです(苦笑)。現在、この悔しさを研究の糧にしようと準備中。



1. 2016年5月に成立、6月に施行された「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」。外国出身者へのヘイトスピーチに特化した理念法で、禁止規定がないため実効性が弱く、「本邦外出身者」という規定や「適法に居住するもの」という要件で対象が限定されるなどの限界はあるが、日本初の反人種差別理念法としての意義は小さくない。


 
【今回の往復書簡ゲスト】

はん・とんひょん(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。

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