田中功起 質問する 16-1:ハン・トンヒョンさんへ1

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

今回のゲストは社会学者のハン・トンヒョンさん。田中さんはまず、レイシズムに焦点をあてた彼の最新作に登場した彼女に、同作を起点にした問いを投げ、また問いを求めます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:協働のあとで

 

ハン・トンヒョンさま

お久しぶりです。
ミグロ現代美術館での「Vulnerable Histories (A Road Movie)」ではお世話になりました。こうして、今回、公開しつつやりとりすること、とても楽しみにしてます。

この「質問する」では、基本的にはぼくから相手に質問を投げつつ、いつもならば議論を進めていくのですが、今回は少しウエイトを変えたいと思っています。むしろハンさんからの問いかけをもとに進められればと思っています。というのも、去年から今年にかけて二回ほどハンさんからのインタビューを受けています(その一部は「Vulnerable Histories (A Road Movie)」に収録)。このプロジェクトの前と、撮影の最中に話したわけですが、プロジェクトのあとにお互いで考えたことはまだやりとりしてません。できあがった映像を見て、さらに気になったことなどもやりとりできればいいなと思っています。

 


ハワイのモイリイリにある日本人墓地

 

視点のレイヤー/(可傷的な)歴史について語ること

 

まずは「Vulnerable Histories (A Road Movie)」について少し説明をします。なかなかチューリッヒまでそれを見に行く日本からの観客は少ないと思われますし、これを読む未来の読者のためにも。在日コリアンをめぐるレイシズムの問題に焦点を当てた今作は、もちろんハンさんとの出会いも関係しているけど、アメリカから帰国し、京都で暮らし始めてから考えたことなども影響しています。東京のような大都市と違って、関西には古い社会構造というか、地政学的な配置が地域の中に比較的見える形で残っています。再開発もあるので見えにくくなってきていますが、それでもこの辺りは在日コリアンの集住エリアで、こちらは被差別部落エリアで、ということを聞くこともあります。

最初は何も知らずに住み始めたわけですが、タクシーに住所を伝えたときの反応や風景の中に見えてくること、地元のひととの会話の中で、地域に根付く意識的/無意識的な差別感情に次第に気づかされて。逆に自分はどうなんだろうとか。一方で、日々のレイシズムは日本に限らず、アメリカやヨーロッパでも大きなうねりとなっている新しい右派思想によって後押しされています。個別的、地域的な問題が、世界史的な規模で見えてくるそんな状況にあります。ぼくはこの状況をいくつかのレイヤーを重ねることで考えてみたいと思ったんですね。

プロジェクトの主人公は在日コリアンであるウヒさんと、スイス人のクリスチャンの二人です。クリスチャンがウヒさんを日本に訪ねることで、状況に出会い、歴史を学んでいく、もしくはウヒさんのことを知っていく、そんな構成になっています。

レイヤーとしてあるのは:

  1. 個人の視点/アイデンティティ・ポリティクス(在日コリアンのコミュニティの中での、ウヒさんの問題)
  2. スイス/ヨーロッパからの他者としての視点(日系アメリカ人のルーツを持つクリスチャンによるヨーロッパでのレイシズムの現状も少し語られます)
  3. 現在/社会学者の視点(ハンさんによる在日コリアンをめぐる状況についてのレクチャー)
  4. 歴史/活動家の視点(市民グループ「ほうせんか」の西崎雅夫さんによる関東大震災後の朝鮮人虐殺をめぐる語り)
  5. 法律/実質的な問題解決の視点(社会学者の明戸隆浩さんに選んでもらった人権関連の法律や判決文)
  6. メタ視点(アーティストであるぼく自身が会話に加わることで、全体の構成についてのメタ視点をさらに加えています)

これらが映画という少しフィクショナルな構造の中にあることで、相互に補完したり、あるいは批評的な応答となっていたり、複層的に織り込まれています。あと今回、英語で語られていることも重要ですね。ウヒさんとクリスチャンの会話は英語です。二人にとって母語ではないから、ときにコミュニケーションは困難でもありますが、それは他者にどのように個人的な、あるいはローカルな話題を理解させるのか、あるいは非当事者がどのようにして当事者の問題を理解するのか、という翻訳の距離と問いを導入することでもあります。

そしてこれは結果的にですが、ぼくが震災以降に取り組んでいる、出来事の経験を分有すること、あるいは他者の経験を共有することはできるのか、という問いに繋がっていると。もちろん出来事の経験は個々人によって受け取り方が違うし、感覚は共有できない。でも、だからこそ、その分有や共有の方法を考えてみようというのが、ぼくの興味です。

 

アーティストが社会(問題)に関わるとき

 

さて、おそらくハンさんとのやりとりでは、アーティストの社会問題への関わりが中心の話題になるのかなって思います。いわゆるソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)をめぐることです。SEAが問題解決型(状況改善)に向かうときそれはアクティヴィズムになるし、問題提起型(状況把握)に向かうとジャーナリズムになります。その間には多くのバリエーションがあるけれども、ぼく自身に引きつければ、おそらく後者に近いかもしれません。それでも、よくもわるくもアートの範疇の中に自分はいるのだろうと思っています。ぼくは社会問題をある意味では抽象的に扱うことで、アクティヴィズム的な側面もジャーナリズム的な側面も同時に失っています。ただ逆にそのことで移動可能性を獲得しようとしているわけです。つまり、空間的、時間的距離のある「誰か」に理解はいかに分有されるのか、そのための形式をぼくは選んでいるのかなと。いや、それでは曖昧でゆるい、という批判もあるかもしれませんが。

もちろんアートは、社会問題を扱うだけではなく、さまざまなアプローチが可能なフィールドです。むしろ社会を扱うためにはある程度の工夫が必要。既存のアートの枠組みを批評的に更新しないと扱いにくかったりします。他領域の、例えば社会学、人類学や哲学などの方法論や考え方を貪欲に取り込もうとしている現代美術の関係者は(アーティストもキュレーターも批評家も)アートそのものの制度的限界(というか拡張可能性?)を感じているのでしょう。そうしたアートを近年観測してきたハンさんの意見も聞いてみたいですね。

最後に少し個人的ですが、こんなことも考えたりします。扱う問題が繊細なものであればあるほど、そこには配慮が生じ、それによって、プロジェクトにきまじめさが帯びてきて、それはよい側面もあるけれども、内容に余裕がなくなり、見る者を息苦しくさせることがある。やはりハンさんに参加してもらった「共にいることの可能性、その試み」(水戸芸術館、2016年)では、そうしたプロジェクトに生じた閉じられたきまじめさも批判されました。まあ、ぼく自身の進め方の問題なんでしょうけど。いずれにせよ、丁寧であることは前提だとして、きまじめさによる制作の限界もある。まあ、これはあまり本題とは関係ないかもですが。フィクショナルな要素を取り込みはじめているのは、この問題へのリアクションかもしれません。

まずはこの間の協働についてや、できあがった映像を見て考えたこと、あるいは上記のもう少し大きな話題でも。最初の返信お待ちしています。

田中功起
2018年9月ホノルルにて

 

近況:文化交流使としてハワイに滞在中。日系移民史を調べつつ、通常モードでヨーロッパでの仕事を続けています。ミグロ現代美術館での「Vulnerable Histories (A Road Movie)」は11月11日まで。美術館の施工チームが最高で、いままででもっともクオリティの高い展示空間になっています。


【今回の往復書簡ゲスト】

はん・とんひょん(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。

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