ロニ・ホーン「遍在多様」(圧縮版)

遍在多様(圧縮版)
インタビュー / アンドリュー・マークル

 


Roni Horn, Air Burial (Hakone) (2017–18), solid cast glass with as-cast surfaces. Installation view, Pola Museum of Art, Hakone. Photo Koroda Takeru. All images, unless otherwise noted: © Roni Horn, courtesy Roni Horn and Hauser & Wirth.

 

アメリカ合衆国の現代美術を代表するアーティスト、ロニ・ホーン。ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの動向に続いて登場したホーンは、複数の異なる芸術的戦略や、文学的、知的、経験的参照を、彫刻、写真によるインスタレーション、巨大なドローイング、アーティストブックなどの表現に落とし込む独自の実践を展開している。ニューヨークに拠点を置くホーンは、キャリアの早い時期からアイスランドを旅し、厳しい気候や火山景観、そうした条件に対する地元の人々の適応の数々を絶えず着想の源にしてきた。

現在、日本の美術館では初めてとなる個展『ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?』を開催している。同展は、ポーラ美術館にとっても初の現代美術のアーティストの大規模個展。謎めいた鋳造ガラスの彫刻から、アイスランドで撮影された写真群、エミリ・ディキンスンの詩の断片が埋め込まれ、壁面に立てかけられたアルミニウムの角柱《エミリのブーケ》(2006-2007)など、40年に及ぶ活動を網羅した内容となった。また、2022年の年明けから、タカ・イシイギャラリーでの個展もはじまり、こちらでは鳥を撮影した対のイメージの作品を紹介している。

ポーラ美術館での個展が開幕した2021年9月、ART iTのアンドリュー・マークルは同展カタログに掲載するインタビューを実施。本稿は、その圧縮版となる。なお、インタビュー全文は『ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?』(ポーラ美術館編、平凡社、2021)に収録されている。
(協力:ポーラ美術館|『ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?』は、3月30日まで開催中。)

 


 

アンドリュー・マークル(以下、AM) あなたは以前、アイスランドを「エロティックな体験」と表現しました。

ロニ・ホーン(以下、RH) 自分が倒錯者だったら、そこにあるものでやりくりしますよね。あの頃はいたるところにエロティックなものを感じていたので、ひとたびアイスランドに深く魅了されたら、そのような体験を見出すのは難しいことではありませんでした。私は概念的なものを重視する人間で、そういう側面はずっと変わっていません。ただ、アイスランドを旅する上で、エロティックな要素は鍵となるものでした。つまり、官能的な体験です。望もうが望むまいが、そこには身体的なものが溢れていました。天気は容赦なく干渉してくるので、どうしたって逃れられません。風であれ雨であれ極端な気温の変化であれ、あなたがどう感じるか、何をするか、どのようにするのかについて、天気は必ず影響します。昔はテントで旅していたので、いまよりずっと悪天候に左右されました。でも、太陽が姿を現したときには、まわりを冷たいものに囲まれながらも一条の光の暖かさを一身に浴びるのです。こうしたことはすべて、私のアイスランドの経験において、はっきりと目には見えなくとも極めて強烈な―肌身に感じる―官能性の一部なのです。

 


Roni Horn, bird (1998/2008), detail, pigment prints on paper, 55.9 x 55.9 cm each, set of 10 pairs (20 photographs). © Roni Horn, courtesy of the artist, Taka Ishii Gallery, and Hauser & Wirth.

 

AM あなたの作品にはほぼ一貫してエロティックな構造が見受けられます。「対のオブジェ[pair object]」や「対のイメージ[paired image]」という概念にさえ、欲望と疑念が交差する「二度見」のメカニズムを通じたエロティックな緊張状態が示されています。

RH なるほど。最も重要な対のイメージだと思われる《死せるフクロウ》(1997)について考えてみましょう。「これは同じイメージですか? それとも異なるイメージ、2羽のフクロウですか?」と必ず聞かれるのですが、これは私たちが疑念から決して逃れることはできないことを物語っています。ガラス彫刻についても言えることですが、完全に透明であるがゆえに「なかには何が入っているの?」とよく尋ねられます。最も透明な状態であればなおさら疑念や懐疑心を抱く。私はこのわからないことによる悪循環に魅力を感じました。これにより鑑賞者は経験に対して能動的に関わり続けることになります。

いやむしろ、この「対のオブジェ」シリーズにはもともと、文字通り鑑賞者を作品に組み込もうという動機がありました。もちろん意識の上でのことですが。このシリーズの最初のものが《再来するもの》(1986)で、機械で仕上げた瓜二つのオブジェをそれぞれ異なる部屋に配置しました。技術的な面では同じものですが、ふたつは常に違う場所にあるので同じではない。ということは、「同じ」は矛盾した言い方になりますよね。私はあるオブジェを片方の部屋に置き、それと瓜二つのオブジェをもう片方の部屋に置くことで、鑑賞者に反復が引き起こす独特な経験をもたらそうとしました。このふたつの体験はまったく異なります。1度目は新鮮な初めての体験。2度目には1度目の歴史が付きまといます。

 

AM 二重化や反復は、両性具有に対する意思表示なのでしょうか。

RH 両性具有は本質的に二重化というよりも複数化だと考えています。私には子どもの頃に与えられたふたつのジェンダーに対して確固とした自己認識がまったくありませんでした。ジェンダーにおけるグラデーション、男らしさと女らしさとの度合い、そして、その間にあるあらゆるものについて考えてみると、私はどちらになるともなく、両方における最良のものを得たように感じていました。私にとって、両性具有とは差異を統合したものです。そう理解することで、これまでのような生き方ができたのだろうし、このような作品を制作することができたのだと思っています。

 


Roni Horn, Still Water (The River Thames, for Example) (1999), detail, 15 photographs and text printed on uncoated paper, offset lithography. Photo Koroda Takeru.

 

AM エロスから死へと話題を移しましょう。もしくは、死が私たちを魅了することについて。ポーラ美術館の個展に出品している《静かな水(テムズ川、例として)》(1999)の写真やテキストからテムズ川の持つ魅惑がはっきりと伝わってきました。

RH あのような形の自殺を選ぶ人々は、ただ死ぬことを選択しているのではなく、消え去ることを選んでいるのではないかと思います。そして、それがテムズ川のエネルギーの大部分を成しているのではないでしょうか。テムズ川は感潮河川〔潮の満ち引きの影響を受ける河川〕で、1日に6、7メートルも水位が上がったり下がったりし、流れを圧迫する重厚な堤防もあるので、本来よりも気性の激しいものになっています。これらふたつの要因がテムズ川の致死率を高めています。テムズ川を見下ろしたとき、「なるほど。飛び込んだら、たぶん出てこられないな」と思いました。それはまだリサーチを始める前のことです。いたるところで渦を巻く様子や水の力を目の当たりにする。それは魅惑的なものでした。自分の感覚が麻痺し、ほだされ、まさに誘惑されているかのようでした。

こうした観察により、私はテムズ川を徹底的に泳げるようになりました。その歴史、物理的な性質、専門的に知りうるあらゆることの間を。とはいえ、この観察の大部分を占めるのは経験に基づくもので、水の観察には終わりがありません。私は水を「究極の結合[ultimate conjugation]」と呼んでいます。目に見えるものであれ見えないものであれ、水はあらゆるものをひとつに結びつけます。数ある水のパラドックスのひとつは、それが常にほかのものと直に交わり、不潔で不健全なものとの交わりも少なくないにもかかわらず、それでもなお透明だということです。私はそこに根源的なものを見ています。

 

AM 汚染、マイクロプラスチック、下水、ごみ、死体。

RH ここでもうひとつの論点が浮かんできます。水について話すとき、私たちは自分自身について話しています。外にあるものが内にある。私の身体のなかに。水は生命を与えるもので、だから純粋に違いないと思われています。しかし、水とその純粋さとの関係性は変わりつつあり、いまやその純粋さの定義には「永遠に残る化学物質」やマイクロプラスチックを含まざるを得ません。これはどういうことでしょうか。蒸発と凝縮の循環を経て、雨水には「永遠に残る化学物質」がたっぷりと含まれています。海に入れば、その水のなかにはメタンフェタミン(覚せい剤)からセルトラリン(抗うつ剤)まで、あらゆる薬が含まれています。人間は代謝したものを排出し、それらは水の中に流れていきます。

そして、とても受け入れがたい現実ですが、結局のところ、水はひとつしか存在しません。私たちは水の価値を十分に尊重していません。コカ・コーラ社、ネスレ社、ほかにも清涼飲料水を扱う大企業は、ひそかに動き回り、土地土地の水資源を買い占めています。中国もチベットで、その人口を維持するために世界最大の水資源を確保しようとしています。政治的観点から見て、これを認めてはいけません。それが国家のためだとしても。水の分配にいかなる障害や制限も設けるべきではありません。しかし、現在それはいたるところで起きています。

 

AM 《静かな水(テムズ川、例として)》は、水をひとつのテキストとして提示していますが、読むことはあなたのほかの作品の多くにも見られる特徴です。なにか意識的にそこに立ち戻っているのでしょうか。

RH 率直に言って、意識的に行なっていることは制作のほんの一部に過ぎません。無意識で行っていることの方が多いです。ただ、「白のディキンスン」シリーズのように、確かに私は見るための形式として、頻繁に読むことに立ち戻っていますね。私は「白のディキンスン」を眺めのいい部屋[a room with a view]とは対照的に、「部屋の内在する眺め」[a view in a room]として考えています。それは物理的に理解できるものの向こうがわを知るための考え方です。私は「真昼に2匹の蝶が飛びたち」のような、一方では不条理なイメージとして、もう一方ではこれまでに数え切れないほど繰り返されながらも、正確に事実に即して観察され、記述された物事の精密な表現として解釈しうる簡潔な言い回しを好んでいます。そのようなテキストを「鍵[key]」や「合図[cue]」と呼んでいます。「鍵」は入り口で、「合図」はプロンプト、行き先を教えてくれるものです。私はこのように「白いディキンスン」の彫刻を捉えていて、テキストは目に見えるものの向こうへと視野をひろげる[a view beyond the visible]ための出発点になります。

 


Roni Horn, At left: Gold Field (1980/94), 99.99% gold foil, fully annealed; at right: Bouquet of Emily (2006–07), detail, solid aluminum and cast white plastic in 6 parts. Photo Koroda Takeru.

 

AM アイスランドのスティッキスホールムルの旧公営図書館に設置された《ヴァトナサフン(水の図書館)》(2007)は、保存や共同体の諸問題に触れていますが、私は新自由主義や民営化の進む社会へと移り変わっていくアイスランドへの応答として解釈しました。少なくともプロジェクトが公開された翌年の2008年のアイスランドの金融システムの崩壊を予想していました。

RH あのプロジェクトにはそういう側面もありますね。1995年頃まではアイスランドに百万長者なんてひとりもいなかったのではないでしょうか。その後、格安フライトがどんどん行き来しはじめて、誰もが莫大な資金を手にしたみたいですが、そのほとんどが盗まれたり、不正に生み出されたりしました。どんなグループやカルチャーに属しているかにかかわらず、どこにでも必ず一定の割合で愚か者がいるということです。どちらかと言えば牧歌的であるアイスランドですら、文字通り20数名がただただ狂ったような巨額のローンを銀行で組み、債務不履行を起こしました。そして、それらの銀行が国営だったために国民は負債で首が回らなくなってしまいました。大きな代償を払うことになりました。

 

AM 対のイメージに話は戻りますが、《死せるフクロウ》以外にも、《これはわたし、これはあなた》(1998–2000)や《あなたは天気》(1994–96年)などがありますね。2003年にヴィンタートゥール写真美術館で開かれたあなたの個展『もし、ある冬の夜に…ロニ・ホーン…[If on a Winter’s Night … Roni Horn…]』のカタログで、ティエリー・ド・デューヴは、鑑賞者が複数のイメージがまったく同じものなのか違うものなのかを知るために、それらの間を行ったり来たりする動きを「時間が空間になる」と記しています。このような要素は、あなた自身がニューヨークとアイスランドを行き来する動きとなんらかの関係はありますか。

RH あなたが挙げたすべての作品はアイデンティティを主題にしています。先に制作した《あなたは天気》の場合は、すべての個人を多数[multitude]とみなす可能性について考えていました。ある特定の顔を通じて、ひとつの文化の似姿を生み出すことができるのかを試してみたかったのです。写真はもともと『ハラルズドッティル[Haraldsdóttir]』という題名の書籍を意図したもので、この題名の意味は「ハラルドの娘」、匿名のようなものですね。ただ、その素材を使って制作を始めたところ、私は群衆としての彼女のすべて、あるいはその大半が、天気によって引き出されていることに気がつきました。そのとき、これはインスタレーションになると思いました。

攻撃的なイメージ、両性具有のイメージ、男らしさのイメージ、そこにあなたが見るものはすべて彼女がまわりの物理的な現実との関わりの中から生み出したものです。そして、鑑賞者はそれぞれの感性、気づき、好奇心をインスタレーションに持ち込みます。すべて同じイメージだと考える人。各イメージを識別する独特なものや微妙な差異を認識する人。こうした幅があります。私の仕掛けはその体験を引き延ばし、そこに留まらせるためのものです。

 

AM 《円周率》(1997–1998)にも、シンプルな介入によって、鑑賞者が空間を動き回るようになる仕掛けがありますね。

RH ええ、壁面の少し高めの位置に展示することで、鑑賞者はイメージに近づいて極端に顔を上げて見ようとしない限り、展示室の中央まで下がることになります。後ろに下がって距離を取ることで、イメージ同士の関係性が見えてくる。そうすることで、鑑賞者にどのイメージが最も重要なイメージかなどと考えさせないようにします。結果的に全体がひとつの視野に収まる、つまり、イメージや関係性の集合体をひとつのものとして見ることができるようになります。《あなたは天気》の場合は、各イメージがもっと小さく、その差異も繊細なものなので、鑑賞者はより近づいて見ることになります。

 


Roni Horn, Untitled (“I get all the news I need from the weather report.”) (2018–20), solid cast glass with as-cast surfaces with oculus. Photo Koroda Takeru.

 

AM 鑑賞者が自分自身を作品に投影するための空間として、空虚[emptiness]をどのように取り入れていますか。壁に何気なく立てかけられた「白のディキンスン」も空虚を意識させますし、非常に重たく硬い物体であるにもかかわらず透明なガラス彫刻も空虚を感じさせます。展示室に入ると、まるでそれらが現れたり消えたりしているかのように思えてくるのです。

RH 空虚に結びつくかどうかはわかりませんが、ガラス彫刻は静かで、鑑賞者は思い思いの時間を過ごすことができるでしょう。私は鑑賞者との関わりにおいて、繊細さや微細な違いを重視しています。それでも、《ゴールド・フィールド》が俗っぽい煽情主義[sensationalism]だと批評されたことがありました。煽情主義とはある種のインパクトを生み出すために何かを選ぶことですが、《ゴールド・フィールド》はそうではありません。あるがままのものとして金を選んだわけで、それ以上の効果を生み出すためではありません。ただそのリアリティを示したかっただけです。同じように、鑑賞者はガラス彫刻を見ているとき、自分が何を見ているのかわかっていないかもしれませんが、そこで起きていることがわかったとき、まるで頬を叩かれたような気分になるでしょう。ある意味、建築がそうであるように、それはそこにあるのです[It’s there]。私はこれらの作品が経験を引き起こすものであって欲しいですし、その経験はオブジェのアイデンティティと分かちがたく結びついたものなのです。

 


訳註「真昼に2匹の蝶が飛びたち」は、エミリ・ディキンスンの詩の一部。翻訳は以下を参照。『完訳エミリ・ディキンスン詩集(フランクリン版)』新倉俊一監訳、東雄一郎、小泉由美子、江田孝臣、朝比奈緑翻訳、金星堂、2019年、204頁。

 


 

ロニ・ホーン|Roni Horn
1955年ニューヨーク生まれ。ドローイングや写真、彫刻などを駆使して、アイデンティティや意味、知覚における多義性や、二重化という概念など、不定なるものを継続的に探究している。1975年から現在に至るまで、アイスランドをしばしば訪れ、その体験の影響は作品制作にも色濃く表れている。16歳でロードアイランド・スクール・オブ・デザインに入学。その後、イェール大学で修士号を取得。長くニューヨークに拠点を置き、現在はメイン州のマウント・デザート島にもスタジオを構える。複数回にわたるヴェネツィア・ビエンナーレ(1980、1984、1986、1997)やドクメンタ9(1992)をはじめとする数々の国際展や企画展で作品を発表している。2009年にはテート・モダンで大規模個展『Roni Horn aka Roni Horn』を開催。同展はアヴィニョンのコレクション・ランベール、ホイットニー美術館、ICAボストンを巡回。その後もジョアン・ミロ財団現代美術研究センター(バルセロナ、2014)、デ・ポント現代美術館(ティルブルフ、2016)、バイエラー財団美術館(リーエン、2016-2017)、グレンストーン(メリーランド州ポトマック、2017)、メニル・コレクション(ヒューストン、2018-2019)などで個展を開催している。

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「私は誰なのか、私は何をするのか」(文 / アヴィーク・セン)(2010年10月7日初出)

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