波間の物語――許家維+張碩尹+鄭先喻「浪のしたにも都のさぶらふぞ」


撮影:山中慎太郎(Qsyum!)

 

波間の物語――許家維+張碩尹+鄭先喻「浪のしたにも都のさぶらふぞ」
文 / 林立騎

 

空気の中に漂うこれらの声が、どこから来るのか、どこへ行くのかは誰も知らず、
いつ、何が起きたのかも、誰も知ることがなかった
《等晶播種》

 

山口情報芸術センター[YCAM]の展覧会「浪のしたにも都のさぶらふぞ」(2023年6月3日〜9月3日)は、3名の台湾のアーティスト、許家維(シュウ・ジャウェイ)、張碩尹(チャン・ティントン)、鄭先喻(チェン・シェンユゥ)によるふたつの作品から構成されている。ひとつは映像インスタレーション、もうひとつは映像とパフォーマンスを組み合わせた作品で、両者に通ずる大きなテーマは、展覧会のキャッチコピーが示すように、「砂糖を通して見る台湾と日本の近代化の記憶」である。展覧会はスタッフの案内で作品を順番に体験するかたちを基本としており、来場者は旧作の《等晶播種》(Crystal Seeding)(2021年)を見たあとに、YCAMとのコラボレーションによる新作《浪のしたにも都のさぶらふぞ》(There Is Another Capital Beneath the Waves)(2023年)を体験することになる。以下、2作品を紹介した上で、本展の提起する批評的な視点について考えてみたい。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《等晶播種》2021年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


許家維+張碩尹+鄭先喻《等晶播種》2021年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 

《等晶播種》:響きの中の再演

《等晶播種》制作のきっかけは、近年亡くなった張碩尹の祖母が、日本統治時代に製糖業で発展した台湾・虎尾(フーウェイ)の製糖工場で働いていたことだった。しかし張がその歴史を知ったのは祖母の没後である。日本統治時代に生まれ育ち、台湾語と日本語を話した祖母と、現在の台湾華語で育った張は、生前あまり交流がなかったという。そこから張は、①日本統治時代の近代化および虎尾の製糖業の発展と、②自分の祖父母と自由に話せないという台湾の歴史における言語の問題に注目し、大きな歴史の断絶に市井の庶民が巻き込まれてきたことの作品化を構想し、このプロジェクトに鄭と許が加わった。

YCAM版の《等晶播種》は、砂糖の結晶を思わせる三面のスクリーンに映像を投影した。虎尾の製糖工場の遺構の中で、パーカッショニストの余若玫がそれぞれに複雑な由縁や意味を持つと思われるさまざまな金属の廃品や部品を打ち鳴らし、そこにサトウキビ畑を吹き抜ける風の音が重なって、わたしたちは聴覚とともに作品へと入ってゆく。映像は、日本統治時代の虎尾が製糖業によって発展したこと、しかしアジア太平洋戦争の進展とともに製糖工場は糖蜜を原料とする代替燃料工場を増設され、工場近くに神風特攻隊の基地が作られて、特攻隊が虎尾からも飛び立ったこと、そしてそのためのちには町が米軍に爆撃されたことを、ナレーションで語る。

並行して、サトウキビ畑の中の仮設の舞台で、虎尾の伝統的な人形劇である布袋劇(ポテヒ)が上演される。演目は大佛次郎原作『鞍馬天狗』だが、上演言語は台湾語である。日本統治時代、布袋劇では伝統的な演目を台湾語で上演することが禁止され、皇民化政策の一環として日本語で日本の物語を上演することが強制された。『水戸黄門』や『猿飛佐助』や『鞍馬天狗』である。その様子を現在の虎尾のサトウキビ畑に再現するが、しかし今度は『鞍馬天狗』を台湾語にして再演するのである。その合間に清朝時代の虎尾の町のはじまりや、冷戦時代に建てられたプロパガンダ戦のための巨大な電波塔の逸話が挟まり、必ずしも物語は近代の台湾と日本の関係だけに固定されず、むしろ鑑賞者に多くの連想を許す。作品は、電波塔の電線や工場内に張り巡らされたワイヤーなど、無数の「線」を過去や未来への多方向のつながりであるかのように映像で示しながら、太鼓や弦楽器による布袋劇の伴奏音楽、サトウキビ畑の鳥や虫の声、製糖工場の古い金属が響かせる音の残響の中に終わる。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 

《浪のしたにも都のさぶらふぞ》:境界の撹乱

第2部である新作《浪のしたにも都のさぶらふぞ》は、台湾・虎尾の製糖工場とも関わりのあった北九州・門司の製糖業のリサーチにもとづいて制作された。タイトルは『平家物語』に由来している。門司港の対岸である山口の下関・壇ノ浦に追い詰められた平家陣営の船上、平清盛の妻・平時子がみずからの孫であるわずか6歳の安徳天皇に「わたしをどこへ連れて行くのか」と問われ、「波の下にも都がありますよ」と答えて、ともに入水した際の言葉である(『平家物語』巻第十一「先帝身投」)。敵であった源氏の源義経は、鞍馬天狗から剣術を教えられていたという伝説が後世になって広まり、天狗を通じた《等晶播種》とのつながりも示唆される。このように、第2部は《等晶播種》とのつながりや対比を先鋭化させ、複雑化する中に生まれているように思われる。

作品は、サトウキビの収穫と加工の様子を映し、YCAMで砂糖を原料とした円盤の楽器が作られる工程を示しながら始まる。すると一方では、虎尾の製糖工場と建設年も近い、門司のかつての大里製糖所、現在も稼働する関門製糖の工場で、台湾の布袋劇と対比されるように日本の人形浄瑠璃(文楽)が上演され、他方では、門司港と逆側の瀬戸内海沿い(新門司港側)に、アジア太平洋戦争末期に「特攻艇」(自動車エンジンを積んだベニヤ製の特攻用ボート)を隠していた蕪島(かぶらじま)の洞窟で太夫の語りと三味線が響き、太陽の下では砂糖で作られた円盤をパーカッショニストのTaikimen(山崎大輝)が打ち鳴らす。そこに天狗の神話とも、戦争の描写とも、VR仮想空間の叙述ともとれるような、エネルギーとテクノロジーを巡る多義的なテクストが重なる。

門司の製糖工場で舞う人形浄瑠璃の動きはモーションキャプチャーされ、仮想空間上の別の人形を動かしはじめる。しかしふたたびテクストは過去へと跳躍し、戦中にサトウキビから燃料を作り、戦闘機や輸送機を動かそうとした歴史が言及される。物語は決して直線的には進まず、行きつ戻りつ、寄り道や回り道を繰り返す。

後半、VRヘッドセットとモーションセンサーを着けた生身のパフォーマーが観客の前に現れる(坂井遥香と陳秋燁のダブルキャスト)。文楽の人形遣いが人形を動かし、その人形が仮想空間上の別の人形を動かし、その動きが眼前のパフォーマーを動かすが、仮想空間上の人形が女の鬼へと変身し、海中に沈むと、今度はパフォーマーの動きが仮想空間の人形を動かしはじめる。そこに『平家物語』の運命の物語が重なってゆく(「それは定め、それは定め…」)。一体、誰が誰を動かし、何が何を動かし、どこに人間の自由があり、どこに歴史や技術の「定め」しかないのか、表現は極めてわかりづらく、複雑で、流れに秩序を見出すことは難しい。歴史と現在、事実と物語、現実空間と仮想空間の境界が繰り返し撹乱される。作中で明言されるように、「現実世界のエンジンと仮想世界のエンジンは、互いに影響しながら、境界線を少しずつ曖昧にしていく」。そしてそれがむしろ物語やテクノロジーとともに生きてきた人間の姿なのではないかと気付かされる。つまり厳密には仮想と現実のあいだの境界はそもそも存在しないのではないか、と。やがてヘッドセットとモーションセンサーをかなぐり捨てたパフォーマーは、スクリーンに映る歴史の残滓漂う「浪のした」を呆然と眺める。仮想空間の「浪のした」には近代化や戦争の残骸が浮遊し、作品のタイトルとは裏腹に、そこもまた「都(home)」であるようには、とても思われない。作品は、この宇宙の中で「物語を開く」ことそのものの壮大な両義性を語る太夫の声を響かせながら、砂糖から作られたアルコール(YCAMバイオラボ内で精製されたもの)を小さなランプで燃やした熱がおもちゃの飛行機をくるくると動かし、展覧会場に飛行機の影を投げかけ、旋回させる場面で終わる。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 

線的ナラティブの批判、二項対立の逸脱

2作品は、砂糖や天狗や人形、あるいは特攻隊と特攻艇で互いにつながりながらも、ふたつあることで全体がわかりやすくなるというよりも、ふたつあることでより複雑さを深め、構成要素が過剰になり、そうした過剰さの経験そのものを差し出しているかのようだった。そしてこの点にこそ本展の批評性があったように思われる。

展覧会オープン2日目に開催された「The Flavour of Power――紛争、政治、倫理、歴史を通して食をどう捉えるか?」展とのクロストーク(余談だが、アジア太平洋戦争における日本とインドネシアの関係を稲作から見直すこの展覧会と台湾と日本の関係における砂糖をテーマとする本展が同時期に開催されたことは極めて意義深かった)において、許家維は、アーティストとして歴史を物語るのは歴史家の歴史とは異なると述べた上で、「ひとが統治者を批判するときには、統治者と同じ語り方に陥ってしまう危険性が常にある」と指摘した。許によれば、統治者がオフィシャルに与える物語は常に「線状」で、小説や映画もまた線状のナラティブであるがゆえに、皇民化教育に代表される「成長や発展の物語」に芸術は利用されてしまう。ゆえに統治者と同じ内容を語らないだけでは十分でなく、同じ語り方をしないことが重要なのだ。許は、そもそもインターネット時代のわたしたちは線状に物事を理解していないと述べる。網状に点と点は広がり、そうした超連結と超展開(ハイパーリンク)の見方で物事を捉えることは、すでに与えられている物語を逸脱するためのひとつの手法であるという。

また、アカデミックな方法論との違いとして、許が「芸術は感性的なアプローチを行う」と述べたことも重要であろう。芸術表現は、権威や先入観以前の感性に食い込んでくる。許は、バラバラなものがアートの言語でつながることで、新しい意味として生成される、と主張した。これは本展の2作品にも妥当する。まず、2作品に共通する極めて独特な音響空間の重要性を指摘したい。《等晶播種》では製糖工場の遺構や遺物そのものを鳴り響かせ、《浪のしたにも都のさぶらふぞ》では砂糖を固めた円盤を叩いてリズミカルな空間を生み出し、そこに風の音や波の音が重なったが、工場や砂糖そのものから人間のものではない歴史の声を聴こうとすること、異なる音に触れ、言葉にできない音にからだを晒すこと自体が、歴史への異なるアプローチであり、アクセスである。その上で、決して直線的に物語の言葉が進行するのではなく、さまざまな要素へと絶えず飛躍し、説明なく複数を重ね合わせ、つなげる、2作品の過剰な人工性こそ、「自然」とされている知覚への批評性なのだ。物語に対する「自然」な知覚を逸脱したところにしか、歴史に対する新しい知覚は生成しえないからである。

本展のアーティストトークでは、第2部の制作協力を行った門司港アート・プラットフォームの岩本史緒が、第2部には都市や国家や企業のさまざまな「栄枯盛衰の物語」が歴史の波の中に浮かんでいると述べた上で、同時に「語り方の問題についても問いかけてくる」と適切に指摘した。地域には、海に身を投げた平家の女たちは河童となって「浪のしたの都」を建設して栄えたが、男たちは平家蟹となって苦悶の表情を今に続けているという伝説があるそうだが、正史と異なるそうしたオルタナティブな語りの可能性が本展でも追求されていただろう。

そう考えると、本展覧会が近代化における「台湾」と「日本」の関係を主題化するものであったことは間違いないものの、また、とりわけ「日本の歴史」でもある過去を台湾のアーティストが家族や生活のレベルから捉え直して表現していることは極めて重要である一方で、「台湾と日本」という枠組みだけで理解するのでは作品の批評性を汲み尽くすことはできず、むしろそうしたやや二項対立的で図式的な語り方によって整理を始めた瞬間に既存の語り方の体制に回収されてしまい、結果として作品の過激さを無害化してしまうことにならないか、アーティストに倣って、自己点検を怠らぬべきであろう。作品内で主題化される「動く/動かされる」「操る/操られる」「支配する/支配される」といった両義性も、そうした二項を問うことさえ無効になる場所を示していたように思われる。本展の2作品はむしろ、すでに固体化したあらゆる対立関係をあらためて液状化させ、風の中に舞わせ、波のあいだに漂わせ、わたしたち鑑賞者を波間に酔わせるような映像のナラティブだった。本展キュレーターの吉﨑和彦がトークで述べた「学びのためにこの展覧会を企画している」という提案にアーティストたちが応えたのは、既存の語り方を批評し、異なる無数の語りへといざなう、この点においてであっただろう。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 

政治的区分の罠

クロストークでは、鄭先喻によってもうひとつ重要な指摘がなされた。それは、植民的統治は現代社会にも隠れて存在しており、企業が安い労働力を世界中で使うことは植民と呼ばれないだけで同じシステムであり、それも植民のひとつのあり方として考えることができるのではないか、だとしたら植民とは、また「解植」(脱植民地化)とは一体何か、と問いかけたことである。その発言に先立って、許家維は、本展の2作品で製糖や人形遣いや仮想空間といった技術の歴史を扱ったのは、技術史は「日本統治時代」や「国民党時代」といった政治的な区別だけでは厳密に区切れないからであり、植民を人為的な歴史ではなく、技術の歴史から再編集することを試みたと述べている。

この点においても、国家や政治を基準として語るだけでは見えなくなるもの、現在においても過去においても責任を逃れてしまうものが存在するという問題提起が本展には含まれていただろう。戦前に「台湾糖業帝国主義」を論じた矢内原忠雄(『帝国主義下の台湾』、岩波書店)は、サトウキビの植民の歴史を説き起こし、アレキサンダー大王のインド遠征から十字軍時代、大航海時代、ユダヤ人迫害と糖業移植の歴史、豊臣秀吉・徳川家康の時代から台湾が日本への砂糖供給地であったことなどを跡付けているが、近代の「糖業帝国主義」を決して国家の問題としてのみ捉えるのではなく、「資本主義の問題の国家的表現」として提起、描写し、生活レベルにおいても製糖会社と小作人の関係を奴隷制に近接させながら批判的に記録している。

日本の台湾統治と科学技術の関係を決定づけたのは台湾総督府民政長官・後藤新平(1857-1929)だったが、元医師の後藤は、植民地統治の理想を自然科学に基づく「科学的行政」に見出した。かれは「科学的生活」の増進を訴え、大規模な調査研究や統計事業をもとに科学的・物質的な幸福(後藤はそれを「生理的円満」と呼んだ)を実現することを統治の手段とした。国家のイデオロギーではなく、科学技術をつうじた物質的繁栄を統治原理としたのである(以上、野村明宏「植民地における近代的統治に関する社会学:後藤新平の台湾統治をめぐって」、『京都社会学年報』7号、1999年、1-24頁)。ここに科学技術の政治性がある。人々の充足感や幸福の生産は支配関係をつくりだす。そしてその構造は現在まで続いており、国家や政治の図式だけでは解かれえない。本展の2作品、とりわけ《浪のしたにも都のさぶらふぞ》では、仮想空間について、資本主義に駆動される技術史が何をもたらし、どこへ至るのかという問題提起がなされており、布袋劇や人形浄瑠璃のような人形を動かす技術と、現在の仮想空間の技術、さらには現在そして今後の戦争の技術や人間の生を連関させて考え、語ることが求められていたのである。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 

コレクティブ、「場面」の美学/制作論

本展の3名は名前を持つグループとして活動しているのではなく、今回のテーマのためだけに集まった一時的なコレクティブである。許家維は名前を持たない時限的なコレクティブの利点を、①自己学習のひとつのスタイルであり、仲間と学び合うことができる。②マンパワーを持つことで、受動的な立場にならず、能動的にキュレーションに関わることができる。③アーティストのみならず、研究者なども巻き込み、学際的、ジャンルレスに仕事をすることができる、という3点で説明している。張碩尹によれば、近年の台湾では、こうした名前を持たず、プロジェクトベースで生まれてはまた移るコレクティブが増えており、フリーランスのコレクティブに対する助成金の支援も手厚くなっているという。

わたしは本展に至った許家維、張碩尹、鄭先喻の活動を「場面」の美学/制作論と呼んでみたい。すなわち、第一には作品内容として、これまで出会ったことのない歴史的事実や場所や音たちを「超連結」させて、新しい「場面」を生み出していること。同時に、制作論としても、これまで協働したことのない者たちとともに働き、みずからの活動に新しい「場面」を創出していること。作品内容と働き方の双方において、新しい場面が生み出されている。結果としてそれは、作品を通じた知覚においても、また現実の関係性においても、新しい社会を創造する可能性をもった運動論として認識され、実践されているように思われた。美学と制作論が社会運動論をつうじて総合されているように思われるのである。歴史に永続する集団を作ろうとするのではなく、波間に浮かび、また消える時限的なコレクティブを組織し、そこにその都度新たな物語の批評的可能性を見出そうとする、こうした3名のアーティストの美学的にも政治的にも一貫性のある姿勢から学び取るべきことは多いだろう。

 


許家維+張碩尹+鄭先喻《浪のしたにも都のさぶらふぞ》2023年 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

 


 

浪のしたにも都のさぶらふぞ
2023年6月3日(土)-9月3日(日)
山口情報芸術センター[YCAM]スタジオA
https://www.ycam.jp
開館時間:10:00–19:00
休館日:火(火曜日が祝日の場合は翌日)
キュレーター:吉﨑和彦
展覧会URL:https://www.ycam.jp/events/2023/there-is-another-capital-beneath-the-waves/

 


 

林立騎|Tatsuki Hayashi
翻訳者、演劇研究者。現在、那覇文化芸術劇場なはーと企画制作グループ長。訳書にイェリネク『光のない。』、レーマン『ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』(ともに白水社)。イェリネク作品の翻訳で小田島雄志翻訳戯曲賞を受賞(2012年)。2005年より高山明の演劇ユニットPort Bに、2014年より相馬千秋のNPO法人芸術公社に参加。東京藝術大学特任講師(2014-17年)、沖縄アーツカウンシルプログラムオフィサー(2017-19年)、キュンストラーハウス・ムーゾントゥルムドラマトゥルク(2019-21年)を経て、22年より現職。

(取材協力:山口情報芸術センター[YCAM])

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